03.「月」

この街に来たのは、何年振りになるだろう。
春菜は、まるで郷里に帰ったかのような感慨を覚えていた。ふるさとではないけど、と春菜は思う。ここはわたしがわたしであった場所のひとつなんだ。
眺める街並みは、見慣れていた頃とはだいぶ違ってきている。新しい店やマンションが目立ち、何より、駅前が発展している。だけど懐かしい、春菜は蝶の刺繍が入ったマフラーを結び直した。大学の頃を思い出しそうだ、春菜は微笑んでアーケードを歩いていた。晴天ではあるが、吐く息はまだ白い。もうすぐ訪れるだろう春を思い、春、と春菜は呟いてみせた。
春、
ハル、
その名前を思い出したのも、何年振りだろう。
学生当時の春菜は、周囲からハルと呼ばれていた。ひとりの男子学生がそう呼び始めてから、流布した愛称だった。男子学生、石川と春菜は同じクラスに在籍しており、スーパーで遭遇したのが出会いのきっかけだった。そのうちに石川は春菜をハル、春菜は石川をイッシーと呼ぶようになった。
彼らの交流は、男女の境を越えたものだった。
男女の付き合いとなると、こと恋愛ごとに発展しそうなものだが、春菜と石川は違った。互いの性別など関係なく、交流を深めていた。喩えば、部屋に遊びにきた春菜がソファで眠ってしまった日、石川は優しく毛布をかけてやるだけだった。泥酔して部屋に立ち寄った石川を、春菜が世話をすることもあった。互いに料理を振舞うこともあれば、休日を共にすることもしょっちゅうだった。
そんなふたりは、周囲からはまるで恋人同士のように見られていた。本人達は飽くまで友人として付き合っているのに、周囲の友人達は、彼らを恋人同士同然として扱っていた。
春菜と石川は、それを相手にもしなかった。たまたま最も仲の良い友人が異性だっただけ、という互いの見解は一致していた。無論、彼らには肉体関係のかけらもない。生理現象ほか、お互いを異性として意識することはあるが、そういった瑣末なことを恋心として処理することをしなかった。
大学三年のある休日、石川を喫茶店へ誘った春菜が訊いた。
「イッシーさ、進路ってどうするの?」
伸びた爪を噛む春菜に、おまえその癖やめろよ、と微笑んで石川が答える。
「俺はね、証券会社。もう目だって付けてあるんだぜ」
いろんな国に行ってみたいからちょっとした大手狙ってんだぜ、と石川が続ける。へぇ、春菜は噛んだ爪をじっと見詰めながら、あたしはどうしよっかなぁ、と返す。春菜は石川と会う時には、わざわざマニキュアを塗ることはない。伸びた爪には白い歯型が微かに押印されていた。
「ハルはさ、ファッション関係がいいんじゃない?」
アパレルとか似合いそうじゃん、石川はブラックのコーヒーをすすった。アパレルかぁ、春菜は飲むでもなくアイスティーをストローで掻き混ぜた。
「何かあたしの周りみんなさぁ、就職活動しないって言うの。脚本家になるって言う人もいれば、小説家志望もいて。あっ、役者もいたかな? みんなバイトするんだって」
「みんなはみんなじゃん」
ハルはアパレルだよ、石川はそう言いながらシガーケースから取り出した煙草をくわえる。ポケットをさぐりながら、あれ? と石川は首をかしげた。はい、そこへ春菜が百円ライターをつまみ上げ、火を運ぶ。サンクス、煙草越しに火を吸い込みながら、石川はパチンと指を鳴らした。
アパレルかぁ、言われた春菜は、悪い気はしていないように宙を見上げる。確かにあたしバーゲンとか弱いし、知り合いの店員さんとかもいるからどうにかなるかもね。春菜はそう呟きながら、点火したままの火を自分の煙草に点けた。
少しの沈黙。
漂う紫煙。
「そういや羽根川さぁ、留年決定したの知ってる?」
石川が話題を転換した。そうなの? だってあいつゼミも休んでたじゃん、まぁあれじゃ単位も落とすよね、羽根川っていえばあいつの彼女がさぁ……ふたりの会話は、常によどみなく続いた。それは彼らの親交の深さを示すことであり、またそこにある安定した信頼関係をも現していた。
この会話も、春菜はふと、喫っていた煙草を早めに消しながら思った。
この会話も、来年や再来年にはできなくなるのだろうか。
春菜の脳裏には、既に卒業を前提とした別れがシミュレートされていた。
懐かしいな、
アーケードを歩いていた春菜は、訪れた追憶に身を任せていた。あれから何年も経ってわたしも変わっちゃったのかな、春菜の足取りは軽い。まるで重荷が外れたかのような軽い足取りで、歩を進める。
春菜は、数日前に失業していた。
石川に勧められて選んだアパレル業界に入ったものの、春菜は上層部との対立から発展して辞めざるを得ない方向に追いやられた。アパレルは上下が厳しいのよ、と同僚は言ってくれたが、春菜が退職させられることは明白だった。
肩の荷が下りた、と春菜は思う。イッシーに勧められてアパレルになったのはいいけど、なるところ間違えたかな。別のお店だったらうまくいったのかな。
そうしてふと時間ができ、春菜は、就職にあたって引っ越した自分と異なり、居を移すことのなかった石川を訪ねることにした。大学付近まで来たのは、そのためだった。石川に連絡はとっていない。突然訪問して、驚かせてやるつもりだった。
冬の日曜日、ボール遊びで騒ぐ子供達の横を、春菜は微笑みながら通り抜ける。イッシーは久し振りにわたしを見て、何て言うんだろう? そう考えただけで笑みがこぼれた。絶対に驚くことは間違いないでしょ、子供のような無邪気な笑みを浮かべたまま、春菜は通りを歩いた。
この通り。わたしがイッシーとよく通った大通り。
この小道。わたしがイッシーとよくすり抜けた小道。
この階段。わたしがイッシーとよく競争した階段。
辿っていくすべてが、懐かしかった。そうしているうちに陽は落ちかかり、夕刻になって目的のアパートに辿り着いた。懐かしい扉。表札には、間違いなく「石川」と書かれている。
ピンポーン、
春菜は、何度か戸惑ってからチャイムを押した。心臓の鼓動が脈打っているのが解る。何でこんなに緊張するんだろう、久し振りに会えるからかな、それとも……思考を巡らせていると、「恋」という安易な言葉が出てきそうになったので、春菜は考えるのをやめ、直立して石川の登場を待った。
待った。
しかし一向に、石川が現れる気配はなかった。夕刻になった今でも部屋の電気は消えたままで、家主の明らかな不在を告げている。連絡取らなかったからなぁ、寝てるのかな? 出かけてるのかな? 春菜はその場にしゃがみ込み、携帯電話から石川の部屋の電話番号をダイヤルした。長い沈黙とプツン、プツン、という電信音が響いた後、春菜の耳に、機械的な人間の声が聞こえてきた。
「おかけになった電話番号は、現在、使われておりません」
うそっ!? 春菜は慌てて、今度は石川の携帯電話の番号にダイヤルした。結果はほぼ、同じだった。「お客様の都合により、現在、この電話は使用できません」という冷酷なメッセージが耳に伝うだけだった。
どうしたんだろう、
石川は、もし引っ越しても携帯電話の番号だけは変えないと言っていた。そうすれば連絡の取りようはあるから、と。しかし今、その携帯電話も通じなくなっている。
どういうこと!?
春菜は、動転していた。主のいない部屋のインターフォンを、押しに押した。ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、
二十回押したところで、春菜は、インターフォンから離れた。
いるわけ、ない。
それと同時に、隣室の住人が眠たそうな顔で扉を開けた。あんたかうるせぇのは、学生風の男は頭髪を掻きむしりながら、春菜に近付いてきた。
「そんなに鳴らしたってな、ここの人はもういないんだよ」
つい数日前にシンガポールに行ったんだとよ、そう怒鳴り散らし、ったく、と投げ捨てて隣人は扉を閉めた。
シンガポール――
証券会社に勤めた石川が部屋を引き払ってシンガポールへ、それは長期の海外出張を意味するのだろう。春菜は、呆然とするほかなかった。呆然と立ちすくみ、小さく口を開きっ放しにするだけだった。シンガポール、そう呟いても、実感が湧かない。イッシーがそんなに立派になったのは嬉しいけど、わたしにとってのイッシーは、もうここにはいないんだ……そう考えても、石川がそこに戻るわけではない。
自然と、目頭が熱くなった。
なんでだろう、春菜は右手中指の爪を噛みながら、満月を見やる。なんで恋人でもない人がいなくなっただけで、こんなに泣きそうになるんだろう。涙に滲んだ月はまるで何か――別れ――を象徴するように、穏やかに輝いていた。
そうか、春菜はハンカチで涙を拭い、呟く。
わたしはイッシーを好きとかじゃなく、純粋に、親友として愛してたんだ。
春菜はその場にしゃがみ込み、ただ、月を眺めた。
満月は、月とは思えないほど眩しく輝いていた。虹色の光を放つかのように、眩しく春菜に光を注いでいた。それを眺めながら、春菜はかじかむ指をたぐり、爪を噛み続けた。
こうして爪を噛み続けたわたしを、イッシーは、憶えているだろうか。
春菜は自宅に帰り、窓を開けた。
月は未だ、煌々と輝いている。幻惑するかのようにゆるやかな光は、春菜の持つ缶ビールに反射してきらめいた。
「あの頃なら、手を伸ばせば届く筈だったのにな」
春菜は、ふと呟く。このまま消えてしまえば、わたしのことなど、イッシーにはない記憶も同然ね。
「でも」
窓から身を乗り出し、春菜は、満月に向かって缶ビールを差し向けた。
「イッシーの出世に、乾杯」
あなたの知らない場所で愛してあげるからね、春菜は、強くもない酒を舐めるようにして呑んだ。
ビールを置き、春菜は、月を眺め続ける。
イッシーも、と春菜は思う。イッシーもこの月を、見ているんだろうか。
月はただ、そこにひとり存るだけだった。
(了)