『niyago』

遠藤賢司
『niyago』


   上

 その日は、六月にしてはやけに暑く、平年より気温が五度以上高かった。
 私は半年間ほど眠っていた半袖に着替え、コンピュータに向かっていた。布団をどけたこたつの上に乗っているデスクトップ型のコンピュータは、障子に襖という和室に似合わない。しかし、東京から千葉の実家へ都落ちした私には、亡くなった祖父母の部屋だったそこしか居がなかった。祖母が煙草を喫う人だったので、年代ものの柱はヤニで黒ずんでいる。そのため、私も気兼ねなく煙草を喫えた。
 締め切りまでまだ余裕があるが、私は与えられた仕事はすぐに済ませたい質なので、煙草やアイス・コーヒーを飲みながら原稿を書き進めた。私はフリーの音楽ライターをしている。以前の仕事が出版社で、その頃からライターはしていた。しかし事情により退職してフリーになってからは仕事が少なくなり、小遣い程度の収入にしかならなかったが、実家に戻ったためにそれで充分だった。だが三十路にもなってその収入では、と母に定職に就くように言われることが何度とある。その度に家に金を入れるどころか食事代やら何やらを賄ってもらっている自分が情けなく思っていた。
 出版社から送られてきたフリー・ジャズのCDをかけながら、そのレヴューを書き終えた。コンピュータがフリーズしないうちに文章を保存し、電源を落とす。このコンピュータは型が古く、十分そこいらで固まって動作不能に陥ってしまう。そんな古いコンピュータを操る緊張感と、即興ばかりの音楽は聴いていた私の息を詰まらせた。再生を止め、何か他のリラックスできる音楽をかけようと部屋の方々に置かれたCDラックを眺める。しかし、雑多なジャンルのCD群を見ただけで、音楽を聴くこと自体が億劫になってしまった。私はステレオの電源も落とし、ベッドに横たわった。睡眠導入剤を服用したのにもかかわらず、四時間しか眠れなかったので、躰がやけにだるい。仕事は他にもまだ残っているが、仕事道具のコンピュータも動作不良を起こすので、しばらくそのままでいることにした。
 朝食後、睡眠導入剤の副作用によるだるさからの二度寝さえしなければ、私の午前中は大抵こんなふうに使われる。そうして気力を失ったまま、母の昼食の声を待つのが常だ。柱の掛け時計を見ると、時刻はおおよそ十一時半。あと三十分から一時間はこうしてベッドで堕落を貪っていられるだろう。廊下の網戸から開け放した障子の間を通って、外の風が入り込んできて涼しい。扇風機を出して掃除するのは億劫だったので、網戸にした縁側から入り込む風で凌ぐことにした。
 そこへ、猫が入り込んできた。その白地に黒斑の雄猫は、五匹いる我が家の猫の中で最も私に懐いている。家族全員無類の猫好きで、代々飼い猫はすべて捨て猫だったのだが、その猫は産後間もない状態で一番あとに拾われ、他の四匹が成猫していたのでこの部屋で隔離して育てていた。そのため、まるで故郷を訪れるような心持で来るのだろうか、よく私の部屋に遊びにきていた。ふんふんと鼻をひくつかせて、部屋のあちこちの匂いを嗅ぎながら、猫は私の横たわるベッドの脇まで歩んできた。
「おいで」
 私は横になったまま、掌をひらひらさせた。すると猫は、言葉の意味が解ったかのようにひょいとベッドに飛び乗ってきた。そのまま私の周囲をぐるぐると回り、脇の下にどかりと座った。不思議なもので、暑い日に限って猫は懐いてくる。自分の毛皮が暑くないのだろうか、などと思ってしまう。しかし猫は、そんなお節介を意に介さず、ごろごろと咽喉を鳴らしながら丸くなった。しょうがないなぁ、と微笑みながら私はその丸まった背中を撫でてやった。咽喉が鳴るのが背中にやった手まで伝わってきた。
 幸福だな、と思う。好きな仕事を好きなペースでできて、衣食住に困らず、猫まで付いている。私は、自分の現状を好ましく思った。しかし、不意に「孫の顔が見たい」と酒の席で漏らした父のことを思い出し、三十路になっておきながら恋人もいない自分の現状も突き付けられた。と同時に、同じく結婚しない妹がいることも心配になり、かつてはその子孫で繁栄していたものの避妊手術をするようになって血筋が途絶えた飼い猫のように、私と妹の代で家系が途絶えてしまうのではないかという考えがよぎった。それでも、両親は私と妹に結婚を強要しない。自由奔放な子育てをしていた両親だから、結婚についても自由恋愛を望んでいるのだろう。現に見合いなどはせさていないのだから。
 別にいいよな、私は猫を撫でながら呟いた。結婚なんてまだ先のことにしていいよな。去勢された雄猫は、まるで盛りの雌猫が媚びるように、私の手に身をくねらせて顎をすり寄せた。慰めてくれているようだった。私は暑さを忘れ、両手で猫の全身を撫で回した。私は去勢などされたわけではなく、男性としての特質を保ってはいるが、精巣を取り除かれた猫に親近感を覚えた。
 そのまま、猫とじゃれ合いながら時は過ぎた。そろそろ母が昼食の呼び声をかける頃か、と思っていると、二階から降りてくる妹の足音が聞こえた。私と違ってまっとうな職に就いている妹は休日なのだろう、仕事には出ていない。ということはトイレか食事あたりかと察知したが、その足音は意外にも私の部屋に近付いてきた。足音は私と猫が戯れるベッドの横の襖で止まり、扉のように襖をノックする音になった。
「はい?」
 私は自ら襖を開けた。と同時に、猫が私の脇をすり抜けて、開いた襖から走っていった。飛び出した猫に少し驚きながら、そこにいた妹は息を荒げて話し出した。
「子猫の声しない? あたしの部屋からも聞こえるから、こっちでも聞こえてるかと思って」
 子猫? 私は首を振った。原稿を書いたり、猫と戯れていたため気付かなかったのか判らないが、私には聞こえなかった。
「野良猫の声じゃないか?」
 私がそう応えると、妹は真っ向から否定する。
「ううん、あれは子猫の声だったよ。畑の方から聞こえてきたの」
 畑か、私は先ほど部屋から出ていった猫が隣りの部屋で毛づくろいしているのを見詰めながら、ぼんやりと呟いた。あの猫も、子猫の時に裏の畑で拾われた猫だ。我が家は二十年以上猫を飼い続けているうえ、外猫にまで餌を与えているため、近所では猫好きとしてよく知られている。そのため、処分に困った子猫を我が家の近隣に捨てる輩が幾人といたのだ。ひょっとすると、またそのケースかも知れない。
 とにかく行ってみようよ、そう急かす妹に私は引きずられるようにして、玄関を出ることになった。寝間着のまま素足にサンダルを突っ掛け、家の裏手にある畑へ足早に向かった。その途中、庭に置かれた植木のそばで昼寝をしていた外猫が、私と妹が小走りに脇を通るのに驚いて走り出した。その三毛の外猫も、野良ではあるが我が家で餌をやっている、ほぼ飼い猫同然の猫だった。餌をやる時には足もとに身をすり寄せてくるくせに、普段はてんで懐かない現金な猫だ。三毛は私達の行くのと同じ方向に走ったが、私達がそちらに向かっていることに気付いたらしく、急転換して逆方向に走り去った。
 農家とまではいかないが、我が家にはなかなかの広さの畑がある。家の面積よりずっと広く、両親だけでは手入れをしきれないので一部を知り合いに貸しているぐらいだ。父は機械工の仕事を定年退職してから、毎日この畑で汗を流している。母や私も時折手を貸すことがある。キュウリやナス、白菜や芋など比較的育てやすい野菜を作っているその畑では、作業服姿の父が野良仕事をしているところだった。
「どうした?」
 血相を変えて走ってきた妹と私を見て、畑に水やりをしている父がのんびりと訊いた。その口調に、焦っていた私達は気分を削がれる。
「猫の声、しなかった?」
 私より早く、妹が口火を切った。彼女は私以上に猫好きというか世話焼きで、拾い育てた猫も殆どが彼女の導きによって我が家に招かれていた。畑では何度か子猫を発見したことがあったので、確信に近いものがあったのだろう、その口調は迫るようなものだった。
「さあ、聞こえなかったけどなぁ」
 父はホースを畑に放って水道を止めた。また捨て猫か? そう訊き返す父の口調は、彼が妹ほど猫好きではないことを物語っている。少しうんざりした感もあった。被っていた麦わら帽子を片手に持ち、首に掛けたタオルで禿げ上がった頭部を拭きながら足もとのナスの実を見詰めた。
「判らないんだけど、そうかも知れない」
 妹は頬を赤くしてそう言って、我が家の土地と隣家とを隔てている小さな雑木林に向かっていった。自然私もそのあとを追うことになる。気の強い妹は、私など目もくれずに一直線畑を踏んでいく。私は作物を踏まぬよう、四角い歩き方をしていた。トマトの実が大きくなっている。まだ青いままだが、そろそろ収穫時になるだろう。しかし私はトマトが好きではないので、成長を疎ましく思った。家族の中でトマトが食べられないのは私だけだ。
 畑と雑木林の境目には、日が当たらず年中苔むしている柔らかい土の地帯がある。そこには、一定の間隔を空けて皿を乗せた平らな石が並んでいる。猫の墓だ。猫を飼い始めてから、亡骸はここに埋めて、墓石の変わりに石を置き、その上に愛用していた皿を乗せて埋葬している。数ヶ月前にも一匹埋めたばかりで、そこだけ土が若干盛り上がっていた。
 私は、妹にやや遅れて猫の墓場の先にある雑木林に入った。妹は林の中を歩き回っている。任せた方がいいな、私はそう思い、樹にもたれかかった。妹は何度も捨て猫を発見しているので、私よりも経験があり、勘が鋭い。煙草を喫いたくなったが、持ってきていないので取り敢えず深く溜め息を吐くことにした。
「あった」
 妹が林の真ん中あたりでそう言っているのが聞こえた。私は樹から背を離し、そこへ向かう。途中、なぜ「いた」ではなく「あった」なのかが気になったが、行ってみれば解るだろうと思い、乱立する樹をよけながら足早に歩いた。落ち葉がサンダルに挟まって、一度履き直した。
 妹がかがんでいて、その手の先に小さな段ボール箱が置いてあるのが見えた。いたかい? 私はそう言いながら妹の脇へ滑り込んだ。覗き込むと、段ボールは空だった。いないけど多分これだよ、妹が明らかに落ち込んだ顔でそう返した。段ボールは野菜を詰めるような大きなものではなく、宅急便で届くような小さなものだった。とすれば、この中に猫が入っていたのだとしたら、間違いなく子猫だ。しかし子猫でもよじ登れそうなほど、箱は小さかった。
「ここから出ていったのかなぁ?」
 妹が心配そうな表情で私を見る。そうかも知れないね、私は段ボール箱を手に取って、その小ささを確認する。この大きさじゃ外に出られたって不思議じゃないね。
「じゃあ、近くにいるかも知れない」
 そう言って妹は立ち上がり、林の中を再びうろつき始めた。足もとに注意しながら、樹の間をゆっくりとすり抜けていく。私は耳を澄ましたが、猫の鳴き声のようなものは聞こえない。隣接する道から話し声がしたのでそちらを向くと、中学生の女子がふたり、冗談を言い合いながら歩いていた。平日だというのに、と私は疑問に思った。彼女らは、早退でもしたのだろうか。その道は通学路になっており、我が家の隣りにある中学校と繋がっている。見ていると、男子生徒もひとり、うつむきながら歩いてきた。妹は彼らに気付くことなく、林の中を歩き回っていた。

   下

 結局、子猫は見付からなかった。
 私達は畑作業を終えようとしていた父を拾い、家へ戻って昼食を摂った。食事の間も、妹は子猫のことが気がかりで箸が進まない様子だった。母に顛末を話すと、それじゃ今頃うろうろしてるかも知れないね、という返事がふくよかな頬を揺らしながら返ってきた。父は無言で茶碗を置き、首に巻いたタオルで口から顔を拭った。
 食後、仕事を続けようかとコンピュータの電源を入れると、起動中にフリーズしてしまった。暑さのせいだろうか、仕方なしに私は強制的に電源を切り、煙草を喫った。仕事道具がこれじゃあな、と私は呟く。小遣い程度にしかならない仕事なのに、進みやしない。私は新しいコンピュータが欲しかったが、事実上扶養の身であり、収入が僅かであるので無理があると思い、溜め息混じりに紫煙を吐いた。中古でもいいから早く買い換えなければならない、そう思ってはいても、金がなかった。その金を得るためには壊れたコンピュータでも仕事をしなければならないという矛盾があった。
 煙草を消し、ベッドに横たわる。壊れたコンピュータはフリーズする度に電源を落として数十分しないと起動さえままならない。開け放した障子から風が入り込む。その風は、草の匂いがした。夏が近付いている、と私は思いながら寝返りを打った。これからますますコンピュータは動作不安定になるだろう。むしゃくしゃした気分になり、落ち着くため目を閉じた。食後のまどろみが襲いかかり、睡眠不足もあってか自然と眠くなってきた。もういいや、私は仕事そっちのけで、しばらく寝ることにした。
 そのまま私は、一度トイレのために目を醒ましながらも、結局三時間ほど眠ってしまった。合計七時間の睡眠を一日に摂ったことになる。これなら充分眠ったうちに入るな、寝ぼけた頭でそう思いながら私は目醒めの一服をした。障子の向こう、廊下の窓の先に気の早い太陽が薄ぼんやりと夕暮れていくのが見える。碌に仕事もしなかったな、私はそう呟いて、こたつの上のコンピュータを見た。こいつさえまともに動いてくれればな。
 一服を終え、コンピュータの電源を入れてみる。今度は正常に起動した。私は慌ててサンプルCDを流し、原稿書きを続けた。いつフリーズしても構わないように、こまめにファイルを保存する癖が付いている。メールのチェックもしたかったが、原稿を優先させてそれは後回しにすることにした。流れているブラジル音楽は耳にしているものの、聞き流しながら文章を書いているのも同然だった。サンバのような、と入力した時点でキーボードが効かなくなった。どうやらまたフリーズしてしまったらしい。私はコンピュータの電源をまたも強制的に落とし、流していた音楽を止めた。
 こんなんじゃ進まないな、そう言いながら、柱に掛かった時計を見た。五時を回ろうとしている。そろそろ、と私は腰を上げた。そろそろ風呂の時間だ。
 我が家では、夕食の前に風呂に入ってしまう習慣がある。風呂場を覗くと、父が浴槽をブラシでこすっている最中だった。浴槽の掃除とお湯を溜めるのは父の日課となっている。そのあとにまず父が風呂に入り、料理の進み具合によって私か母のどちらかが入り、最後に妹が入ってお湯を抜くという順番になっていた。母は揚げ物をすべく油をあたためている。この様子だと、今日は父の次は私が入ることになるだろう。私は風呂場の隣室になるキッチン兼リビングのテーブル脇に座り、リモコンでテレビを点けた。
 テレビでは夕方のニュース番組を流していた。乳製品が幾つか映り、物価の上昇についてナレーションが入る。また値上げだってよ、私は小麦粉をボウルに投入している母にそう告げた。何でも上がるわねぇ、母は振り向きもせずにそう返した。開け放した風呂場の方から湯を溜める音が聞こえていたが、扉を閉める音がすると同時に聞こえなくなった。父はいつも、湯を溜めながら風呂に入る。父が扉を閉めたのだろう。
「次のニュースです」
 女性キャスターが手もとをちらりと見やってから、続けた。
「兎をボール代わりにして遊んだという小学生らが、補導されました」
 小学校で飼育されていた兎が、少年四人によって小屋から出され、ボールの代わりに蹴られるなどして遊ばれ、死にました。残酷なニュースを、キャスターは冷静に伝える。嫌だねぇ、私は画面を見ながら呟いた。何か言った? 私の独り言を聞き付けた母が振り向いて訊いてくる。兎をボールにして蹴り殺したんだってよ、私は母にニュースの内容を要約して伝えた。酷いねぇ、母はそう漏らして再び料理に戻った。
 こんな残酷なことが、近年増え続けている。私は子供に問題があるのか、親に問題があるのか、考え始めた。子供の虫を殺す感覚の幼稚な残虐性と、親の躾さえ学校に任せたがる無責任、両方に問題があるのではないかと私は考えた。子供は自分より弱い者に対し、残酷なことを平気でする。それは未発達な社会性や、自分がされる側になったことがない未熟な経験から起こることだ。それを親は叱り付けるなどして制御し、子供の社会性を育てる役目をしていた筈だが、最近は自分の指導力のなさを学校に責任転嫁することが当たり前のようになっている。だから弱い者いじめや差別はなくならないどころか、増えている。それを親は学校の指導のせいにする。しかし学校は親に委託されて子供を育てている以上、強いことは言えない。悪循環だった。私が子供の頃は、いじめられたらいじめ返せ、と父に怒られたものだった。しかし弱い者はいじめるな、とも言われていた。
 子供達のはしゃぐ声が聞こえる。狭い道を挟んで隣りにある中学校が、下校時間になったらしい。不特定多数の男女の声が、時にやかましく、時に笑い声で、台所に伝わってきた。中学校は家から一分という至近距離にあるので、私は遅刻したことが一度もなかった。恐らく妹もそうだろう。中学校は父が子供の頃、我が家の隣りに建ったものだった。訊いたことはないが、父も休まず通っていたに違いない。
「出たぞ」
 白いブリーフ一丁の父が、肌を光らせたまま部屋に入ってきた。椅子に掛けてあったタオルを手にして、汗や湯が拭き足りない腕や肩をぬぐう。先に入りなさいよ、油が跳ねる音の隙間に、母が私にそう言った。私はズボンの右ポケットの感触を確かめ、テーブルの上に置いていたトランクスとTシャツを持って風呂場へ向かった。ニュースは行方不明の女性が遺体で発見されたというものに変わっている。
 脱衣所に入り、私はズボンの右ポケットから黒い小さな袋を取り出した。百円で買った簡易式の携帯灰皿だ。中には、煙草が一本と黄色いライターが入っている。それを足拭きマットの上に置き、汗ばんだTシャツを脱いで洗濯かごに放り込む。やがて下も脱ぎ、裸になって風呂場へ踊り込んだ。
 風呂場は、丁度中学校側にあたる窓が開いていた。今日は暑いので、父が開けたのだろう。私は湯船に浸かる前に洗顔と洗髪を手短に済ませ、濡れた髪の水分を取るため頭にタオルを巻いた。そのタオルで両手の水分を軽く払い、扉を開けて脱衣所に置いた煙草セットに手を伸ばす。煙草を取り出し、ライターで火を点け、携帯灰皿を再び足拭きマットの上に置いて扉を閉めた。そうして煙草を喫いながら、私は浴槽に入った。
 この風呂煙草は、私が実家に戻ってきてからずっと続けている。灰は洗面器に溜めた湯の中に落とし、吸い殻は携帯灰皿に入れてポケットにしまう。煙は換気扇や窓から出ていき、そのあとに躰を洗う石鹸のため臭いも残らず、誰にもばれていない。誰かに怒られるわけではなかったが、私以外誰も煙草を吸わない中にあって、しかも風呂場で煙草を喫うというのは若干背徳的な気分だった。紫煙は換気扇に辿り着くより早く、開けられた窓から逃げていく。この風呂煙草は、私の密やかな楽しみだった。
 窓の向こうから、下校中の学生達の喧騒が聞こえる。なあおまえテストどうだった、という無骨な声の男子学生や、好きな人いるんでしょ、という黄色い声の女子学生の声が間隔を置いて伝わってくる。危ない、と私は意識を耳から右手に集中した。気を抜くと浴槽の中に煙草を落としてしまう。落としても湯に浸かって火は消えるので危なくはないが、煙草がもったいない。現に一度、喫い始めて一分もしないうちに落としてしまったことがある。その時は浮いた灰をすくって流し、まだ長いがひたひたになって喫えなくなった煙草を携帯灰皿にしまって、もやもやした気分で風呂を出た。それ以来、私はリラックスできる筈の風呂煙草でも少しばかり緊張するようになった。
 それでも開いた窓から声や音は聞こえてくる。自動車が通る音がした。学生の声がした。自転車がベルを鳴らすのが聞こえた。
「ニィ」
 突然、それは聞こえた。
 ニィ? 私は再び、耳に意識を集中させた。何の音だ? まだ軟語しか発音できない子供が喋ったような、鳥の雛が餌をねだるような、小さい音。鳴き声? 私は瞬時に察知した。子猫の鳴き声か?
「ミィ」
 やっぱり、私はそう漏らして煙草を落としそうになった。この特徴的な鳴き声は、間違いなく子猫の声だ。ミィ、ニィ、その声は窓の向こう、中学校と我が家の間の道から聞こえてくる。さきほどまで下校中の生徒や自動車、自転車が通った細い道から。
 あの箱から出た子猫が、この道にいる。私は立ち上がり、格子の付いた窓から外を覗いた。トタンの青い塀とその向こうに中学校の校庭が見えるだけで、道は見えない。だが、ミィ、という声は間断なく聞こえた。子猫は、箱から出て方々をさまよったあげく、その道へ至ったのだろう。
 危ない、と私は思った。自動車が一台通れるぐらいの道幅なのに、そんなところに子猫がいては。また自動車が通ったら、逃げ足を持たない子猫は轢かれてしまう。私は咄嗟に浴槽から出て、洗面器の湯で煙草を消そうとした。そうしてすぐさま、服を着て子猫を保護しに行こうと思っていた。
 煙草を消すより早く、そこへ坊主頭の一団が通るのが見えた。私は煙草を消し損ない、口にくわえた。
「あ、猫じゃん」
 坊主頭のひとつが、塀の下に消えた。かがんだらしい。やはり、そこには子猫がいるのだ。その時、兎が蹴り殺されたニュースの映像がよみがえった。危ない、と再び私は思った。子供に子猫を与えるなんて、殺されかねない。
「可愛いな」
 しかし幸福なことに、中学生男子らしい一団は、ニュースの小学生のような幼稚な残虐性からは脱していた。ああ、可愛いな。小さいよな、まだ生まれてそんなになってないんじゃない? 坊主頭は全員かがんだらしく、姿が塀の向こうに消えていた。捨てられたのかな、ひとりがそう話すと、そうじゃないとこんな小さいのにここにいるわけないね、と返す者がいた。
 私は、中学生達が善良な心の持主であることを願った。と同時に、一刻も早く子猫のもとに行かなくては、とも思っていた。しかし現状を耳で把握するばかりで、躰は浴槽の横で窓の向こうを見たまま、動こうとしない。私は彼らがその場を去ってから、子猫を保護しようと思っていた。騒いでいる中に私が入ると、彼らと言い合うなど面倒なことになる。きっと子猫は道に捨てられた玩具を眺めるように見られているのだろう、そう思った。煙草の灰が落ちそうになったので、慌てて洗面器の中へ落とした。
「こいつ、飼えないかな?」
 ひとりの声がした。えっ、私は思わず声を漏らした。中学生達は子猫を弄ぶだけで去るだろうと思い込んでいたため、意外な言葉だった。それと同時に、危ない、と三度思った。飼おうとして、親の許可が下りずにまた捨てられるに違いない。私は瞬時にそう思い、煙草を洗面器の中の湯へ浸して消した。やはり彼らと言い合ってでも我が家で保護するしかない。
「俺、母ちゃんに訊いてみる」
 私は消えた煙草を携帯灰皿にしまった。
「ちょっと待てよ」
 洗面器の湯を流し、喫煙の証拠を隠滅した。
「何だ?」
 石鹸で汗ばんだ脇の下だけ洗い、シャワーで全身を流した。
「もし駄目だって言われたら、俺の方に渡せよ」
 頭に巻いていたタオルを絞り、私は動きを止めた。
「絶対捨てるんじゃねえぞ。必ず俺に回せよな。俺が駄目だったら、他の奴にまた回すから」
 解ったよ、坊主頭がひとつ、ふたつ、塀の向こうに立ち上がった。ミィ、という声が小さくなっていく。ひょっとして、と私は事態を把握しようとしていた。ひょっとして、彼らが子猫を拾ってくれたのだろうか?
 私は慌てて風呂を出て、湿った躰のままズボンを履いてTシャツを被り、携帯灰皿とライターをしまって脱衣所から出た。父はブリーフ一丁のまま椅子に座り、母は揚げ物を油からすくっている。急いで玄関に向かう私に、父が声をかけた。どうした、それに対して、私は何も答えず急いでサンダルを突っ掛けた。
 玄関を踊り出て、畑と逆方向の我が家の入り口へ向かう。その先に、子猫と中学生の声がした道がある。道に差しかかったところで、丁度自動車が通った。スピードをゆるめることなく、自動車は通り過ぎていった。道から風呂場の窓のあたりを眺めると、その道には、何もなかった。向こうから中学生の女子がふたり、自動車をよけて歩いてくるのが見えた。逆方向を見る。言い合っていた男子の一団もいなかった。無論、子猫の姿もなかった。
 よかった、私はそう呟いて、肩の力を抜いた。本当に拾ってもらえたんだ、それも、絶対に捨てるなという決まりの中で。安心して立ち尽くした私の横を、近付いてきたふたりの女子が通り過ぎた。ふたりは頭から湯気の上がる私を怪訝な顔をしてちらりと見たが、すぐに会話に戻った。
 玄関に戻ると、丁度二階から降りてきたのだろう妹が外に出てくるところだった。どうした? と私が訊くと、妹は、また子猫の声がしたの、と言いながら靴を履いていた。
「それならもう、大丈夫」
 私はことの顛末を妹に話した。男子学生の会話と、そこから推測できる事態。それを聞くと、妹は段差のある玄関に座り込んだ。よかったぁ、妹は安堵の溜め息を吐いた。
「さっきニュースで見たんだけどね、兎をボール代わりにして蹴り殺す事件があったんだって」
 それですごい心配だったんだけど、と私は続けた。そういう子供ばかりじゃないんだね。
「絶対に捨てるな、っていうのが嬉しいよね」
 私達みたいに拾った猫を育ててる人にとっちゃさ、妹は靴を脱ぎ、台所へ向かった。猫達が夕食をねだる声が聞こえる。猫の夕食は私の当番になっている。あの調子なら、私は台所へ向かいながら想像していた。うちの猫みたいに、大きくなるまでちゃんと飼ってもらえるだろう。
 五匹が部屋の方々で鳴いている。わかったわかった、私は一匹一匹の頭を撫でながら、猫の食事の準備に取りかかった。

   結

 夕食を終え、襖と障子の部屋に戻った。その途中、網戸にしていた廊下の窓とカーテンを閉めた。
 部屋は、和室だからか妙に湿気があり、もわっと立ち込めるような空気がした。入り口の障子は開けておくことにした。ベッドに腰掛け、食後の一服をしている最中、ふと音楽が聴きたくなった。それも尖っていない、まろやかな音楽が。何にしようかと考えたあげく、私は、そうだ、と短く呟いて邦楽の棚を探した。
 私が選んだのは遠藤賢司のデビュー・アルバム『niyago』だった。出版社の仕事をしていた頃にメーカーからもらったサンプル盤で、実家に戻ってからは一度も聴いていない。ジャケットの猫を抱えるエンケンの顔が、心なしか笑顔に見える。CDを取り出し、ステレオにセットした丁度その時、見計らったかのように斑猫がまた部屋に入ってきた。私は再生ボタンを押して、斑猫の方へ微笑みながら歩いていった。
 ギターを掻き鳴らす音が響き始めた。

(了)