『好きにならずにいられない』

UB40
“PROMISES AND LIES”


   上

 なんであんな男にからだを許したんだろう。
 あたしは、数年前のできごとに関して後悔していた。その男はもと同僚で、一時期同じ会社に勤めていた。男の方が数年遅れて入社したから、後輩だったけど、あたしが気さくと言われるような性格だからか、すぐに馴染んで、タメ口を利くようにもなった。仲がよく、一緒に呑みにいったこともあった。でも、先輩と後輩という壁はあった。
 その壁も、あたしが会社の人間関係のもつれから退社することになって、打ち壊された。男は、あたしの送別会で泣いていた。あたしがいなくなったら腹を割って話せる人がいなくなる、と言っていた。男は内気で、社内にはあたしぐらいしかタメ口で話せるような相手がいなかった。だからひどく、あたしが会社を辞めるのを哀しがった。
 男とは、それからも会っていた。携帯メールで連絡し合ったり、あたしの好きなバンドのライヴに誘ったりもした。社内では打ち解けられないのに、男は、酔うと急に人当たりがよくなった。だから一緒にライヴに行ったもうひとりの女の娘ともすぐに仲よくなったし、終電がなくなって帰れなくなったあたし達をアパートの部屋に泊めてくれたりもした。
 男の部屋は、東京なのに家賃が三万を切るという、木造何十年で壁がコンクリートのみすぼらしい部屋だった。でも、几帳面なのか、部屋の整理はされている。あたしはこんなボロいアパートに住んで、ストイックに暮らしながら働く男を不憫に思った。その頃から、あたしの同情は始まっていたのだと思う。ベッドにあたしと女友達を寝かせ、男は床に毛布を敷いて寝た。あたしは、同居している母親にはその女友達の部屋に泊まると嘘を吐いた。
 翌日は、女友達は仕事があったので午前中に帰った。そうして残ったあたしと男で、喫茶店へ出かけた。あたしは会社を辞めてから、喫茶店でアルバイトをしていた。だから入った途端にそこは古きよき喫茶店だと察知した。レトロではなく、アンティークなインテリア。ふかふかのソファ。座り心地のいい椅子。テーブルの高さもコーヒーを置いたり口にしたりするのにちょうどいい。何より、店員の接客態度がよかった。「こちらでよろしかったでしょうか」なんて誤った日本語は使わない。ちょっとコーヒーが残っていると、無理に下げにこない。あたしは男の行きつけのその喫茶店を気に入った。男は、昼間だというのにビールを呑んでいた。会社は? と訊くと、今日は休みを取った、と言っていた。何で? と再び訊くと、君と一緒にいたいから、なんてキザなセリフを吐いた。でも、あたしは喫茶店の居心地も気に入って、男の言動も悪くなくとらえた。
 男は、悪いところがなかった。ただ、いいところも特になかった。それなりに博学だから平凡ではないけど、内向的な性格が災いして自分を出せずにいた。そんな彼は、酒を呑むと自分を出せるようだった。だから昼間からビールを呑んでいたのだろうし、あたしにキザなセリフを吐いたのだと思う。
 その日は一緒に古着屋やアンティーク・ショップなんかに行って、それなりに楽しんだ。男とあたしの趣味は結構似ていて、インド系のものが好きだった。そういえば、男の部屋に入った時、お香の匂いがした。嗅ぎ慣れたあたしは違和感もなかったけど、女友達は鼻をくんくんさせていた。あんまりお金もなかったから、安い手製のアクセサリーなんかを少し買って、その日は別れた。
 それから、あたしは日々に忙殺された。会社員と違って給料が安く、時給のアルバイトでは、長時間働かないとある程度の収入は得られない。しかも、喫茶店の仕事は立ちづくめだから足も痛む。ランチ・タイムなんかは忙しさで時間を忘れられたけど、コーヒー一杯で三時間居座るような客が来る時間になると、洗いものぐらいしかすることがなく、呆然と立っているのが辛かった。時給もそんなに高くはない。でも、あたしは喫茶店で仕事がしてみたかった。一時期はサイフォンだドリップだとコーヒーにこだわったこともあったし、喫茶店には風情がある。コーヒー一杯で三時間過ごす男だって、文庫本でも持っていれば絵になる。カップルは目の毒にも保養にもなるし、新聞を広げているサラリーマンは営業の合間のリラックス・タイムだと推測できる。
 喫茶店には、人生が凝縮されている。訪れる人、全員がいい雰囲気を求めてやってくる。そこで自分の人生を味わいにやってくる。コーヒーは、そのいち手段であり、人生の味だった。だからあたしは喫茶店が好きだった。
 あたしが働いていた喫茶店は、辞めた会社のけっこう近くにある。だから、何度か男がランチ・タイムにやってくることもあった。あたしは冷蔵庫からベビー・チーズを取り出して、男におまけしたりした。男が、退社してもあたしを忘れないでいてくれることが嬉しかった。男はいつも、単独で来た。同僚を連れてくることはなかった。男にとっては、あたしの働いている喫茶店は会社での仕事を忘れられるひとときだったり、ひとりになれる空間だったのかもしれない。
 でも、いいかげん、仕事がきつすぎた。八時間労働に、残業が加わることもある。そうして自宅に帰ったら、母子家庭。母は離婚して子供を引き取り、そのうちの姉は結婚して新居に住んでいる。母と無言でいる時間が、長かった。たまに母が仕事のあんばいを訊いてきたりしたけど、あたしは、いつもどおりだよ、とぐらいしか言わなかった。母もスーパーのレジのパートをしており、疲労しているだろうからあたしも積極的には話しかけなかった。食事は、母がスーパーの残り物を安値で買ってきた惣菜と、あたしが炊くご飯ぐらいだった。アルコールはない。毎日アルコールを呑めるほど、家庭には余裕がなかった。たまにあたしが、男と呑みにいくぐらいのお金は捻出できたけど、家計が楽でないことはわかっていたから、男と会うこともそんなに多くなかった。
 けれど、男はあたしと呑みたがった。時にはおごってくれることもあったから、あたしはひょいひょい出かけてしまったりしたけど、それは知らず知らずのうちにあたしが男に借りを作っていることになった。男は口でこそ言わないけど、誰の金で呑んでるんだ、と言いたげな態度をとることもあった。お酒を呑むと、男はちょっと感情が表に出てしまうようだった。
 そんな男との会合が続いたある日、あたしは、男に新宿に呼び出された。出会い頭、おごりだ、と男は言った。あたしはしょっちゅうおごってもらっているので、悪い気がして遠慮しようとしたけど、男は、あたしの方が稼ぎが少ないし暮らしも楽じゃないんだから、とか、俺はひとり暮らしで安アパートだから金はある、とか言って、結局あたし達はゴールデン街へ出かけた。
 料理がおいしいと評判の店に入った。さすがゴールデン街、しょっちゅうおとなりさんやお向かいさんが店に入ってきて、ビヤダルや食材を借りていくような光景はここならではだった。男はワインをボトルで注文してくれた。ゴールデン街でも、店によってはワインがおいしい店がある。男が連れていってくれた店も、そのひとつだ。料理はイタリアンと和風をかけ合わせたような、馴染みやすいものだった。ボイルしたウインナーひとつにしても、オリーヴ・オイルを使ったソースで味付けしてあったり、こだわりが感じられた。
 あたしはゴールデン街ははじめてだったから、ボッたくられるんじゃないかと心配だった。実際に、ゴールデン街のほとんどの店ではふたりで本気で呑むと支払いが万単位になってしまう。でも、この店はボトルのワインも千八百円という手ごろな値段で、甘口でおいしかった。チリ産のワインだと男は説明したけど、あたしはワインの知識はないので聞き流していた。ボトルが空になると、男はウイスキーのロックを注文した。あたしは、迷った。本当はギネス・ビールが呑みたかったけど、一番搾りのジョッキに較べるとちょっと高い。いくらおごってもらうからといって、ワガママは言えない。するとそれを察したのか、男は、呑みたいものを呑みなよ、と言ってくれた。あたしが素直に、ギネス頼んでもいい? と訊くと、男は、いいね、俺もギネス好き、と微笑み返した。それであたしは気分が晴れて、ギネスを注文した。久しぶりに呑んだギネスは、どこか甘く、それでいて苦味もあり、大人の味だった。この味わいはコーヒーに似てる、とあたしは思った。だからあたしはギネスが好きなのかもしれない。
 男は、ウイスキーのロックを何でもないように呑み続けた。そんなに呑んで大丈夫? と訊くと、男は、俺は毎日ウイスキー呑んでるんだ、だからこれぐらい大丈夫、と笑った。そういえば、整理された部屋の隅には、四リットルのウイスキーのペット・ボトルが立っていたことを思い出した。俺はね、と男は言った。俺は、どんなに酔っても記憶を失くしたことがないんだ。そう言った男は、誇らしげでもあり、淋しげでもあった。あたしは記憶を失くすというより、理性を失くす。大学時代、ヒッピーみたいな時代遅れの生活をしていて、男女の友達が集まって騒ぐこともしょっちゅうだった。輸入もののウォッカをガブ呑みして、冬の海に飛び込んだこともあった。飲酒運転も怖くなかった。いつの間にか理性が整ってきて、無茶なことはしなくなったけど、記憶を失くしたことがないと言った男の淋しさはなんとなくわかる。普通の人が普通に酔っ払って普通に記憶を失えるのに、自分にはそれが許されない。理性がしっかりしているのか、そういう体質なのか。わからないけど、異端であることへの後ろめたさのようなものを感じ取れた。
 あたし達は、その店を出て、もう一軒寄った。そこではニュー・ハーフがママさん……ママさんって言っていいのかな? をやっていて、客層もゲイが多かった。あたしは、ゲイなんて身近に存在するなんてことがなかったから、最初は面食らった。でも、ニュー・ハーフのママの人生話とか、ゲイの人々が会話や仕草から発する陰のようなものを感じて、この人達は苦悩しながら生きている、と思い、生活が苦しいだけで境遇を嘆く自分を恥じた。聞けば、ママさんは性同一性障害だという。それで、三十歳になって会社を辞めて、ニュー・ハーフとしてこの店をオープンしたのだそうだ。ママさんは四十歳は越えているようだったから、十年以上この店はゲイでにぎわっていることになる。すごいと思った。信念を貫いた結果が、男とあたしがニュー・ハーフやゲイに混ざって呑んでいるという状況だった。興味本位だったゲイへの思いも、尊敬に近いものになっていた。
 店が終わるのは午前二時。もちろん、終電はなかった。そうなるだろうと思って、あたしは母に、女友達のところに泊まると電話しておいた。それで、男の部屋にまた転がり込むことになった。男のアパートは酒屋に隣接していて、酒屋はそんな時間帯でも営業していた。そこであたし達は、ギネスの四本パックを買った。ふたりとも上機嫌だった。
 男の部屋で、あたし達は呑み始めた。コーヒーにも似たギネスの味が、いろいろ呑んだあとではますますおいしく感じられる。男はウイスキーとギネスを交互に呑んだ。あたしもウイスキーを少し呑ませてもらったけど、あたしにはおいしく感じられなかった。輸入ものの強いウォッカを呑んでいた学生時代のような抗体は、あたしにはもうなかった。すぐに酔いが回ってきた。
 そこで、あたしは理性を失くした。
 あたしは、夏の暑さもあって、上着を脱いだ。男が肌にギネスの冷えた缶を押し付けてくる。気持よかった。あたしはもっと大胆になり、キャミソールも脱いだ。ウイスキーを呑む男の手が、止まった。あたしは笑いかけて、ねえ、と囁いた。男は、ああ、とだけ言って、あたしのブラジャーを外した。ホックを外すのが、慣れた手付きだった。スカートを履いたまま、あたしはパンティを下ろした。すると男が、スカートを脱がした。その間に、男もトランクスだけになっていた。あたしは、トランクス越しに男の陰部を触った。男は、すでに勃起していた。最初からあたしを抱く気だったのかもしれない。それでも、あたしはかまわなかった。スカートを脱がされたお返しに、あたしは男のトランクスを引きずり下ろした。反り返ったペニスの先端が部屋のライトに照らされ、光っていた。
 それからは、あたしは詳しくは憶えていない。酔いが回ってきて、理性を失ったことが記憶の欠如をもたらしたのだろう。あたしは、男に覆い被さられながら、自分で陰唇を開いた。男はそれに反応し、しつこいぐらいに舐め回した。特にクリトリスを吸って攻めてきたので、あたしは何度もいきそうになった。いきそうになって、それ以上吸われると、と口走った。すると男は、優しく小陰唇を舐めた。指で押し開き、中まで舌先を入れてきた。男は、なかなかいかせてくれなかった。絶頂に達しそうになると、すぐに優しい愛撫に変わる。そしてまた絶頂へ近付くようなことをしてくる。あたしは自分で乳房を揉みしだいていた。こんなに自分がいやらしいとは思わなかった。それは、男があたしのいやらしさを引き出してくれているのだった。男の愛撫が、絶頂の寸前を繰り返す巧妙な愛撫が、九十九パーセントの快感を常に与えてくれる。あたしは男の舌の愛撫を止め、深くキスした。愛液にまみれた男の舌からは、あたしの味がした。
 男はベッドに横たわると、あたしのお尻をぐっとつかんだ。そのままあたしのからだをずらして、陰部どうしがすれ違うようにする。何度も何度も、こすり続ける。ぐちゅぐちゅという、いやらしい音がする。あたしはたまらなくなって、自分で自分を開いて男のペニスを挿入した。そのまま騎乗位になり、あたしは自分から腰を振った。男は、煙草に火を点けた。煙草を喫いながら、あたしが腰を上下させているのをじっと見詰めていた。あたしはセックスに関してはテクニックがあると自負していたけど、男はなかなかいかなかった。いきそうな素振りも見せなかった。余裕の表情で煙草を喫い終え、ふたりの接点をくちゃくちゃと音を立てていじり始めた。その指がときどきクリトリスに当たるので、あたしはまたビクンとする。男は、ペニスが入っているあたしのあそこを指でさらに広げた。あたし自身、そんなに広がるとは思わなかった。ペニスと人差し指があたしのなかで掻き回される。あたしはまた、絶頂に近付こうとしていた。しかし男は、しばらく続いていた上下運動をあたしの腰に手をやることで止め、ここまで、と囁いた。
 あたしは、絶頂を迎えられなかったことと、男をいかせられなかったことが不満というより不思議でならなかった。それでも、淋しくなり、男にせがんで挿れたままで横になった。男は、ペニスをあたしに挿入したまま優しく薄い布団をかけてくれた。
 翌朝、目が醒めたら、あたし達は背中を向けて寝ていた。

   下

 男とあたしの関係は、それまでだった。
 そのあと、あたしも気に入った例の喫茶店で落ち合うことがあったけど、男は話半分で煙草をふかし、いかにもまたあたしを抱きたがっているように見えた。だからあたしは、用事があると言って早く店を出た。結局あたしを抱きたいがためにあたしと親しくしたの? という疑問が湧いた。
 それから、男は変わった。
 男は、ことあるごとにあたしに電話してきた。しかしあたしはアルバイト中だったり、電車に乗っていたり、なかなか電話に出られなかった。最初こそ出られなくて悪いな、と思っていたけど、その頻度が上がってきた。一日に十回とか、二十回とか。メールを送ってくれればいいのに、必ず電話だった。だからあたしは、メールで電話ばかりされても出られない、とやんわりと断った。しかし、それを送信した直後に男から電話がかかってきた。メールを送れる状況だから電話に出られるとでも思ったのだろうか? でもあたしは、電車での移動中だったので出なかった。もし出られる状況だったとしても、出なかったかもしれない。
 そんなある日、珍しく男からメールが届いていた。それによると、精神の病にかかって会社を退職せざるを得なくなった、とのことだった。ひょっとすると精神の病というものについての相談の電話だったのかもしれない、と、あたしは少し済まなく思った。
 メールも、頻繁に送られてくるようになった。何々という薬を処方されているだとか、二週間に一度クリニックに通っているだとか、次の働き口を探す気力も湧かないだとか、そういったことばかりだった。あたしは、明るく微笑んでいた男を思い出して、刹那くなった。それは同情だったかもわからないし、メール攻撃を浴びていることへの苛立ちだったかもわからない。でも、男は変わった。それだけは、メールの文面でも、時々残される留守番電話でもわかった。ネガティヴなのだ。活路を見出そうという姿勢がないのだ。
 男のメールと電話は、執拗に続いた。あたしは、そのストーカー的な電話を徹底的に無視することにした。それでなくても、仕事と生活をすることで手一杯だった。喫茶店ではアルバイトなのにチーフに昇格したために、以前より仕事が多くなった。私生活では、母がパートを辞めて内職するようになり、金銭面でますます困ることになった。家事もあたしがやるようになり、時間もなくなった。男にかまっている暇などなかった。
 だけどある日、また入っていた男の留守番電話を聞いて、あたしは慄然とした。
「睡眠薬を二百錠服んだ。手首も切った。俺はもう駄目だ」
 力ない、寝ぼけたような口調のそれは、あたしを幻滅させるのに充分だった。あたしは速攻で留守録を消去し、両手を頭に抱えて床に座り込み、悩んだ。どうしてあの人はそんなことをしたの? どうしてあたしにそんな報告をするの? あたしがあの人を救えると思っているの?……あたしは、何度か男に電話しようとした。でも、できなかった。薄汚いアパートの一室で手首から血を流し、睡眠薬過剰摂取で意識を失った男。その情景が浮かんできて、あたしは男の死の証人になるのが怖かった。関係性を問われるのも嫌だった。縁を切りたかった。いっそ、そのまま男が死んでしまえばいいとさえ願った。
 しかし男は、死ななかった。
 男がまたメールを送ってきた文面によると、意識が混濁しながらも男は何人かの友人に同様の電話をかけたらしい。そのうち、男の実家の近くに住む旧友が事態を深刻にとらえて、深夜、男の部屋まで車を走らせた。そのまま昏睡状態の男を車に乗せ、地元の病院に緊急入院させたという。そこで胃洗浄を行い、睡眠薬が洗い流された。手首の傷も、中枢神経までは達しておらず、出血もすぐに止まって、大事には至らなかったという……それを淡々と伝えるならまだしも、男は、それを体験できたことを誇るような文面で書き連ねてきた。
 あたしはそこで、男からのメールを着信拒否することにした。しょせん、この程度の男だったのだ。本当は弱いくせに、強がってばかりの虚勢。それが男の実態だった。あたしが抱かれたのはそんな男じゃない、もっと優しく、男らしい、強い男だった。男の幻影が、崩れた。
 メールを着信拒否にしてから、電話の回数も減った。愚鈍な男も、着信拒否されたことで自分が嫌われていると気付いたのだろう。やがて電話はかかってこなくなり、電話まで着信拒否しないで済んだ。
 それから、数年が経った。
 あたしの母は癌で亡くなり、あたしは、男が住んでいたような安アパートにひとりで住んでいる。給料と生活費の面から喫茶店は辞めて、廃棄弁当がもらえるコンビニでアルバイトするようになった。そうして日々を暮らしながら、あたしは夢を追っている。いまはわからない、でもきっとある夢。あたしにしかない、あたしにしかできない夢。それが何なのか、どんな犠牲を払わなければいけないのか、どんなことが待ち受けているのか、すべてがわからないけど、あたしは前に進んでいる。そう思わなければ、あの男のようにネガティヴになってしまう。
 やがてコンビニでも、チーフに昇格した。アルバイト代も上がった。廃棄弁当のおかげで食生活には困らなかった。お客様面する客が多く、辟易したけど、無表情で機械的に接することでどんな嫌な客もスルーできた。八時間労働でも、食事はレンジで済むし、銭湯は近くにあるし、時間的な余裕も喫茶店時代と較べるとかなりできた。
 その余裕が、あたしの気を変わらせた。
 男に、電話してみようと思った。あたしは部屋で仕事終わりのビールを呑みながら、アルコールが効いてきたため気が大きくなっていたからかもしれないけど、男に電話をした。するとプツンという機械音がして、人工的な声が響いた。
 この電話は現在使用されておりません。
 あたしは、酔いが醒めた。あれだけあたしにしつこく電話しておきながら、電話番号を変えたの? あたしを抱いておきながら、あたしに何の連絡もなく? そりゃあメールを着信拒否にしたのはあたしの方だけど、あれだけしつこく電話してきたんだったら、あたしに未練のひとつぐらいあってもいいじゃないの。あたしは、はっきり言って嫉妬のような感情を抑えられなかった。でも、あたしには男と共通の友人がいる。その男友達は、男の会社の同僚だけど、あたし以外では唯一男と親しく、会社を辞めたあとでも連絡を取り合っていると聞いた。あたしはその男友達に電話した。三回コールが鳴って、はい、と男友達が出た。
 男の名を告げる。あの人どうしてるの? とそっけなく訊くと、男友達は急に黙った。様子がおかしい。何かあったの? と続けると、実はさ、と男友達は話し始めた。あいつ、何度も自殺未遂して、去年本当に死んじまったんだ。
 あたしは、電話を落としそうになった。死んだって? 苦しまぎれに問いただす。事故だったんだ、と男友達は話し始めた。あいつ睡眠薬をたくさん服んで街をふらついててさ、ヤクザにぶつかったんだよ。それでシメられて、ボコボコにされていっそうフラフラになって、車道に出ちまったんだ。そこへ四トントラックが突進してきて、急ブレーキをかけたけど、間に合わなかった。からだはぐしゃぐしゃで、ただの肉の塊だったっていうよ。もちろん即死。検死もされて、多量の睡眠薬が胃から出てきて、自業自得ってことで裁判にもならなかった。保険金も出なかった。それで両親はもめて離婚寸前だっていうし、兄弟は結婚して家庭できてて無関心だし、淋しい最期だったよ。
 男は、死んでいた。
 あたしは、男友達の電話を切って、呆然と座り尽くした。あたしにしてみても、自業自得と思うかもしれない。あたしにあれだけ迷惑かけたんだから、死んだっていいと思っていた。でも、現実に死んだと聞かされると、ショックだった。あの夜が、男に抱かれた夜が、思い出された。あの夜の男は、紳士だった。あたしの限界を越えさせようとしなかった。優しかった。それがこんなになるなんて。
 あたしは、電話にちっとも出なかったことを悔やんだ。もうちょっと、あたしが余裕を持てば、男は死なずに済んだかもしれない。あたしが悪かったのかもしれない。あたしは残った缶ビールを飲み干し、右手で潰した。こんなふうになっちゃったんだ、あたしはつぶやく。こんなふうに、ぐちゃぐちゃになっちゃったんだね。
 一時間ぐらい、座ったままだった。涙も出なかった。怒りもしなかった。ただ、無感情だった。
 そこに、薄い壁の向こうから、隣室の音楽が聞こえた。さっきまでレゲエっぽい音が鳴っていたのに、急に優しい波のような曲に変わっている。深い歌声とリズム、ブラスが包み込んでくれるような音楽――それはラジオらしく、波が引くように曲が終わると同時に、DJのスピーチが始まった。
「いかがでしたか? UB40で『好きにならずにいられない』でした」
 好きにならずにいられない、
 あたしは、そこではじめて、泣いた。好きだったんだ。嫌いなふりをしても、結局、あの男が好きだったんだ。あたしは、あたしを憎んだ。あたしの過去を傷付けた男を憎み、またいとおしく思った。頬が、燃えるように熱かった。孤独を感じた。広い宇宙に、たったひとりだけ取り残されたような気がした。
 次にもし、あの男に会えたら、とあたしは泣きながら思った。
 もう一度、愛し合いたい。
 でもそれは、叶わないこと。あたしはただ、意味もなく、泣き伏した。
 朝日が、昇りかけていた。

(了)