『ホープ』

Lars Janson Trio
“HOPE”


   一

 その頃私は、重度の不眠症に悩まされていた。
 入院すら考えた精神の病は、通院と投薬により快方に向かった。しかし、精神が安定してくるや否や、次には睡眠のバランスの崩壊が待っていた。
 別段、寝過ぎているというわけでもない。普段は午前八時頃には起きていて、眠れる時は何時間でも眠れる。しかし、眠れない時は睡眠導入剤を幾らかっくらっても眠れやしない。大量に睡眠導入剤を服用しておきながら、眠れず、次の日まで起きていることもある。また、多量の睡眠導入剤を服んで眠ると、なぜか逆に睡眠時間が短くなるのも悩みの種だった。
 主治医には、眠りのバランスが悪いということで相談しているが、どうにも薬を出し渋り、軽いものばかり処方されているような気配もある。長いこと睡眠導入剤を服んでいると、その強弱や系統なども少しは素人目にも判ってくるものなのだ。その点、私の主治医はとにかく薬を軽くしようという方針らしい。不眠に悩んでいることを訴え始めたのは以前通っていたクリニックだったが、そこではハルシオン、アモバン、サイレース、ロヒプノールの四種類の睡眠導入剤が処方された。だのに、今の主治医はそれをことあるごとに減らし、遂にはハルシオン一種類だけになってしまった。
 私の不眠症が幾らか改善されてきたのもある。それは、薬を服まずとも眠れる時もあることが判断材料となって、私が睡眠導入剤を溜め込むことを恐れた主治医は薬を減らしたのだろう。しかし、その薬を使わず眠れるのは症状が安定していた頃にはほぼ毎日だったので、次第と私の手もとには睡眠導入剤が残るようになった。それでも私は不眠を訴え、未使用の睡眠導入剤を数え切れないほど溜め込んでしまった。いざ、眠れない時が来ると思うと、手もとにある程度のものがなくては不安なのだ。
 しかし最近の私は、落ち着いてきた睡眠が再び乱れ、過去に処方された薬の余りまで引っ張り出す始末となった。主治医には、もちろん以前処方された薬を追加して服んでいるなどとは言わない。今後も、睡眠の度合いによって薬を追加してもらったり、削られたりするだろう。

   二

 病院へは、私は二週間に一度、火曜日の午後に診察を受けていた。日によって医師が異なるので、主治医となった医師に合わせて通うことになる。
 もう三年も精神科通いをしている私には、しかしこの今の病院が一番馴染み深かった。それまで点々としてきた病院、クリニックの類は、なべて狭く、喫煙所もない有様だったので、大きくて新しい造りの(近年、建て替えたばかりだという)病院は、待合室にソファが多く設置され、居心地もよかった。
 しかし病院というものは、とかく待たされるものである。込んでいる時でも症状の軽い患者ばかりであれば順番が回ってくるのは早いが、それほど込んでいなくとも独白が長く被害妄想の酷い患者が多いと一時間以上は待つことになる。現に私は、待合室で二時間も待たされ、持ってきた文庫本を読了してしまったこともある。それなのに診察は五分程度で終わり、処方箋を書いた紙を持っていった薬局でも待たされる。自立支援医療制度の世話になっている私は、負担額は一割で済むので時間の浪費もやむなし、と思ってはいるが、それにしても二時間は待たせ過ぎであろう。ようやくして訪れた診察では、主治医が、お待たせしました、しか言わなかったのも私の不満である。
 待ち時間、私は文庫本を読みながら、ふとその手を休める時がある。それは、受け付け嬢の石垣さんを眺める時だ。
 石垣さんはこの病院の受け付けになってから日が浅く、まだ数ヶ月しかその姿を見たことはない。新人らしい初々しい雰囲気が、しかししっかりと業務をこなす手腕と相俟って、儚くも頼もしくも思えた。ゆるやかな流れの長髪は若干ヘア・カラーか何かで染めてあり、病院の必要以上に明るい照明に照らされて輝いて見えた。切れ長の瞳は意志の強さを見せており、すっきりとした顎、そこに這う紅を差した口唇などは、非常に整ったものだった。また両頬に多少のそばかすらしきものが見えるのが、彼女のあどけなさを強調していた。
 そんな石垣さんは、誰にも、私にも、とびきりの笑顔をくれる。笑顔で、お大事にどうぞ、などと言われると、その余韻で薬局の待ち時間も気にならなくなるほどだった。
 そうして私は、いつしか石垣さんに淡い心を寄せるようになった。

   三

 私の病は、不眠症だけではない。寧ろそれは、核たる病の副作用的なものだ。
 私は、診断書付きの統合失調症だった。鬱病だった私は、次第に幻聴や幻覚に悩まされるようになり、いつしか鬱病は快癒され、代わりにしつこい統合失調症という病名がのさばることとなった。通院と投薬のお陰で、幻聴や幻覚はまったくなくなった。それでも、医師はリスパダールを処方し続ける。治りかけこそ服んでほしいんですよ、と説明されたが、毎食後の服用はともかくとして、睡眠前の一錠はもう不要ではないか、と反論もした。それは睡眠導入剤は軽くしようとする主治医にしては慎重な、それでも続けてください、というひとことで収束を見た。
 精神科に通い始めた頃はアモキサンやパキシル、デプロメールやワイパックスなど、様々に薬を変えられて、どれが合う薬なのか、言わば実験されていた。次第に自分に合う薬が決まってくると、あとは量が多少に変化するようになった。そうして薬を減らす方針の現在の主治医のもとでは、私は、デパスとリスパダール、テトラミドにパキシルといったあたりで薬が落ち着いた。もっとも、落ち着くまでは処方箋の変化が激しく、アモキサンを一食後に三錠服んでいた頃もあった。あの頃は副作用の眠気に勝てず、当時勤めていた会社の会議中に眠ってしまったことがある。契約社員だった私は、それを理由に一年で契約を打ち切られた。そして無職となり、闘病生活が始まったのである。
 私は既に、常人と変わらないほどに回復していた。主治医からも「アルバイトぐらいだったら働いても大丈夫でしょう」と言われ、長い闘病生活に終わりが見えたような心持がして嬉しかった。しかし私の就職活動は、なかなかうまくいかなかった。
 求人広告で見かけて応募した老人介護施設では、一を訊くと百の言葉で返してきて、その百をメモに取るよう強要する女の先輩がいて、それが私の教育係だった。しかも十人以上の老人が寝泊まりしている施設で、各老人の違いや衣服の収納場所をまたこと細かに教えられる。それらを、たったの二日間で私に教え込もうとしていたらしい。研修期間中に私は復帰後の仕事に適さないと判断、辞めてしまった。たった二日でおむつの世話までできる筈がない。
 次にまた求人広告で見かけて電話したのは、倉庫整理のアルバイトだった。時給が千円という部分に食い付いたのだが、アルバイトなのに三、四時間もの残業が当たり前のようにあり、定時で終わることはなかった。最初こそは給料につられてやる気だったが、コンクリートの地面に十時間も立ちすくめでいるのには、足の裏が悲鳴をあげた。そのうえ軽作業と広告には書いてあった筈なのに、重いものを運ぶ重労働だった。私は筋肉痛と足の疲れが取れない日々が続き、一週間もせずにそこも辞めてしまった。どうせ音をあげるだろうと思っていたのか、辞める電話をした時の応対はやけに冷静で横暴な口の利き方だった。
 それらの失敗から、私はこと就労に関して臆病になってしまった。日曜日の求人広告を敢えて無視し、見ても私にそぐわない仕事ばかりだと決め付けた。私には三年ほどコンビニエンス・ストアで働いた経験があるので、近所のコンビニエンス・ストアで短時間のアルバイトをしたいと思っていたが、それも連絡先だけはチェックしておきながら、携帯電話を手にしては置いてしまう毎日だった。私は以前、人件費を削って従業員に無理を強いていた店で客から何度も手酷い仕打ちを受けていたので、接客がトラウマになっているのであった。
 就労せねばならないというストレスからくる、酷い下痢にも悩まされた。毎日正露丸を服んでも治ることはなかった。また元来よりのコーヒー好きがそれに拍車をかけた。
 就労の意思あれど、実質なし。そんな宙ぶらりんな状態が医師に労働許可をもらって以来、何ヶ月も続いた。

   四

 私は、一年間ほどデイ・ケアという、社会復帰のためのリハビリめいたものに参加していた。
 デイ・ケアとは、病院が精神的な病を抱える患者などから希望者を募り、週に何度か集合させて音楽鑑賞や絵画、習字、陶芸、運動など様々なプログラムをこなすものだった。五、六時間ほどの拘束時間で、昼食が付いてくる。ひきこもりになるのではなく、定期的に出かけ、プログラムをこなすことによって欠落した社会性を修復するという目的のものだった。
 しかし私は、最初こそかなりの鬱状態だったので意識していなかったが、慣れてくるうちにこのデイ・ケアが鬱陶しくなった。それほどの負担ではないにせよ、金を払ってまでする価値のある魅力的なプログラムであると思えなかった。また、心の病を抱えた人間が殆どなので、コミュニケイションにも齟齬が生じた。
 芸能情報をチェックして情報通振っている男、障害者年金をパチンコに回している男、体重百キロを越えているのに口癖がダイエットという女、人の話を聞かず自分本位でしか喋れない女、四十過ぎで少女趣味の衣服を着る肩幅の異常に広い女、リスト・カットの体験談を自慢気に話しては傷跡を誇らしげに見せる女、流行りの邦楽しか聞かないくせに音楽通振っている男、暴走族の総長だったことを威張りマナーを守らない男、醜く肥った容姿にもかかわらず手当たり次第に女を口説こうとする男、うがいの音から挨拶から何から何まで大仰なデイ・ケア歴二十年というデイ・ケアひきこもりの男……そうした人々を、私は意図的に避けた。それでも近寄ってくる連中には、冷ややかな対応で済ませた。しかし皮肉の味も知らない彼らは、自分が疎まれていることにさえ気付けない様子だった。
 彼らは、私とも対話できる比較的症状の軽い者もいたが、重度の者は世間一般で言う狂人だった。私は、この狂人ばかりの空間から早く抜け出たかった。ここにいては病がまた頭をもたげてしまう、とも思った。朱にまじわれば紅くなる。私は、鬱状態から脱するまで一年間、デイ・ケアに耐えた。空々しいラジオ体操や自分でもできるウォーキング、私も苦手だが周囲はもっと運動音痴なバスケットボール、深い話ができない浅い交流、ひとりでいられる煙草の至福の時間……すべてが、苦痛だった。鬱状態から脱出できたのには感謝しているが、それは一概にデイ・ケアとそのプログラム、交流が役立ったとも思えない。私の、脱したいという気持が病からも抜け出す気概をくれたのではないだろうか。
 デイ・ケアに行く際、病院の受け付けでよく石垣さんに会った。手帳を受け取ると石垣さんはいつもの笑顔で「行ってらっしゃい」と言ってくれた。その笑顔と言葉があってこそ、私は憂鬱なデイ・ケアの一年間を乗り越えられたのだと思う。

   五

 無職でも、病人でも、恋心というものは関係なく発生する。
 私は、今明らかに石垣さんに恋をしていた。デイ・ケアに通わなくなった私に、石垣さんは「今日は診察だけでいいんですか?」と訊いてくれた。しかし私は、はい、と無骨に答えてしまった。そこにはある種のてらいがあったためだ。私は石垣さんを意識する余り、碌にその整った顔も見られなくなってしまった。しかし私のことを憶えてくれていることを思うと、心なし嬉しかった。
 ある日私は、コンピュータで散文を書き終えてのち、コーヒーと煙草で一服しながら、ふと、ある文書の作成に入った。もう十年以上も昔に書いた憶えしかないもの、それは恋文である。
 それは無論、石垣さんに宛てたものだ。しかし私は一介の精神病者で、石垣さんはその病院の受け付け嬢でしかない。そこに関係性を作るのは難しいと思われたが、恋文は、造作もなく書き上げられた。日頃散文を書いているのが役に立ったのかも知れない。
 恋文は、しかしなるべく恋心を匂わせないように書いた。読む人が読めば恋文だと解ろうが、さらりと読むと日頃の感謝を述べているだけにも読める。臆病な私は、彼女を想う心をあらわにするのを恐れた。結果、あなたの笑顔に救われています、だとかいった、まるで有名人へのファン・レターのようなものに仕上がった。
 それでも私は、その仕上がりに満足していた。だが、この恋文を渡せるかしら、と不安にもなり、なかなかプリント・アウトできずにいた。もし仮に渡すとなっても、手紙を渡すというのは余りにも気恥ずかしい。
 その時、聴いていたジャズのCDが目に止まった。デンマークのラーシュ・ヤンソン・トリオというピアノ・トリオの作品で、デンマーク・グラミー賞を獲得した『ホープ』という作品である。ピアノ・トリオというと、とかくピアノがでしゃばりがちだが、この作品は静謐なピアノにまじってベースが唸ったり、静かにドラムが活躍していたりもする、さすがグラミー賞を受けただけはある完成度の高い作品だった。
 これだ、と私は思い、プリント・アウトした恋文を折ってCDケースの中に収めた。このCDをプレゼントするのだ。そう思うと私は、石垣さんがそのCDを聴きながら恋文を読む場面が想像されて、微笑みを禁じ得なかった。
 恋は盲目、とはよく言ったもので、私は、失敗を想定していなかった。石垣さんがCDのプレゼントを拒否するのを、まったく思っていなかったのである。恋をすると、人は底知れぬ勇気と自信が湧く。そのため私は、早くも石垣さんと友人になったあとのことを夢想していた。しかし、やはり盲目ではあっても薄目には光の恐ろしさが解るもので、受け取ってもらえなかったらどうしようか、受け取ってもらえても返事も何もなかったらどうしようか、などと小心者の私は途端に不安になった。そして恋文を書いた自分を、自分に酔った大胆な行動だと思った。
 だが『ホープ』のジャケットに描かれた掌の絵を見詰めているうちに、この「希望」というタイトルが、自分のこれからとるであろう行動には相応しく思えた。

   六

 火曜日の午後、父親の車に同乗し、病院へ向かう。その私の手もとには、診察券やら手帳やらと共に、恋文を中にしたためた『ホープ』が握られていた。
 十五分ほどの病院までの道のりが、やけに長く感じられた。私の手は初夏のせいだけではなく汗ばみ、心は緊張で爆発しそうになりながら、しかしどこか冷静に客観視している自分もいた。車内は、ラジオの料理番組が流れている。父親との会話はない。嵐の前の静けさ、という思いがした。
 父親は操車場で車を停めると、私を降ろして、家に戻った。診察が終わってから電話で迎えにきてもらうことになっている。
 受け付け時に渡すべきだ、と私は考えた。午後の診察が始まったばかりのこの時間では、石垣さんがひとりで受け付けを担当している。また、診察が始まる前なのでさほど忙しくはないらしい。診察後ではファイル整理や金の勘定などで忙しくなり、渡すタイミングを逸してしまう。
 病院の自動ドアをくぐり、すぐそばにある受け付けのカウンターを見る。蘭のいけた花瓶の脇に、銀色の髪留めをした石垣さんの顔が見える。石垣さんは私を見るなり、こんにちは、といつもの笑顔を投げかけてきた。口もとのえくぼが妙にくっきりと見えた。
 丁度、受け付けをしている患者はいない。私は石垣さんの前へと平生を取り繕って踏み進み、まず手帳と診察券とを提出した。
「診察、お願いします」
 はい、石垣さんは快活な返事をする。
「今日も診察だけでいいんですか?」
 ええ、と私は答える。
「デイ・ケア、終わりにしたんですよ」
 挨拶から、会話に持っていくことができた。そうなんですか、と石垣さんが応じたところで、不意に闖入者が現れた。精神病患者らしい老婆である。老婆は保険証の提出を忘れたらしく、あのねえすいませんねえこれねえ、と呟きながら、よろよろと手提げ鞄をカウンターに置いた。それからゆっくりとそれを開き、保険証を探す。しかしその動作が余りにも緩慢なので、私はその場を立ち去らねばならない気分になった。受け付けは済ませたのだから、もう立ち去るしかない――持っていたCDを、落としそうだった。
 私は、無常な感を抱きながら、とぼとぼと椅子に座った。老婆は保険証が見付かったらしいが、何か聞き取れない声で質問をして石垣さんを困らせている。老婆は耳が遠いらしく、石垣さんの、これは期限が切れてるから新しいの持ってきてください、という声がはっきりと聞いて取れる。それでも老婆は聞き分けなく、これ新しいのだけど、などと詰め寄っている。
 その場の空気にいたたまれなくて、私は喫煙室へ入った。喫煙室には誰もいなかった。ひとりで煙草を喫っていると、またふつふつと勇気というか欲望のようなものが湧き上がるのを感じた。私は気が急いて半分ほど喫って煙草を棄て、ロビーに戻った。
 老婆は、いなくなっていた。チャンスだ、私は石垣さんのもとへと歩み寄った。石垣さんはまだ仕事がないらしく、新たな患者が受け付けに来るのを待っている。今しかない、私は、CDを持つ手に力を込めた。
「石垣さん」
 はい? と石垣さんは振り返った。恐らく患者から名前で呼ばれることは初めてなのだろう、どこか緊張した面持ちだった。
「これ、受け取ってください」
 私は、上着で指紋を拭き取って、『ホープ』を差し出した。石垣さんは突然のことに、え、と小さく言葉を発し、しばし無言になった。
「でも、頂戴するのも悪いですし……」
 石垣さんは、遠慮しているのか、嫌なのか、うつむきがちにそう言った。私は、CDを石垣さんが空で泳がせる両手の前まで付き付けて、
「あなたに、聴いてほしいんです」
 と、半ば強引にCDを手渡した。
 すいません、ありがとうございます、石垣さんは嬉しいような、困ったような表情で私を見た。早計だったか、と私は今になって己れの行いを恥じた。しかし、CDを渡すという目的は達せられた。自然、内封した手紙も読まれることだろう。私はそれを思うと、よろしくお願いします、と不可解な挨拶をしてその場を去った。石垣さんの表情は見られなかった。
 落ち着きを取り戻すために再び喫煙所に入り、もう一服した。晴れやかな、しかし曇ったような心持だった。私は自分の大胆さに呆れ、またひとりで喝采した。

   七

「気分はどうですか」
 ええ、落ち着いています。
「眠れてますか」
 基本的に薬を服めば眠れますが、眠れない時もあります。
「食欲はありますか」
 あります。最近肥ってきちゃって。
「何か気になることはありますか」
 うーん、別に、ありませんね。
……医師は、毎回同じ質問をしてくる。それに私は、その場その場で取り繕った回答を返す。
 睡眠導入剤のストックが欲しいので、毎日薬を服んで寝ています、と答える。さらにここのところ不眠が酷くなったことを告げると、それじゃしょうがないなあ、と言って医師はハルシオンだけだった睡眠導入剤にユーロジンを追加した。普段は余った睡眠導入剤を混入して服んでいるため、ハルシオン一錠ではがぜん足りないのだ。
「仕事はどうですか」
 医師がそう質問した。私は、デイ・ケアを辞めるためにアルバイトを始めたと嘘を吐いた。それだけデイ・ケアから抜け出たかったのだが、ソーシャルワーカーから医師にまで話は伝わっていたらしい。忙しいけど何とかやっていますよ、と私はさらなる嘘を吐く。そうですか、医師はメモを取り続けた。
「はい、いいですよ」
 医師の言葉に従い、私は、ありがとうございました、と述べてから診察室を出た。
 と、私は再び緊張を強いられることになった。会計は石垣さんが行うのである。呼ばれるまで時間があるので、またも気分を落ち着かせるために煙草を喫った。中年男性ふたりがパチンコの話をやかましく喋っていたが、私の耳にはまるで聞こえなかった。煙草の喫い過ぎで胸やけがした。
 私は緊張を隠すため、文庫本を読んだ。それは志賀直哉の短編集だったが、ちらと見える石垣さんの顔が気になって一編も読み切れなかった。小僧が寿司を食べている場面で文庫本を閉じた。
 やがて、私の名前が呼ばれた。しかしそれは石垣さんの声ではなく、もうひとりの、鳥のような痩せぎすの女性だった。会計は結局彼女により済まされ、私は、石垣さんと話せなかった。
 残念なような、安心したような妙な心持でカウンターを離れると、石垣さんの声がした。
「お大事にどうぞ」
 振り向くと、石垣さんはいつもの笑顔だった。私はこの時初めて、CDを渡せたことを喜んだ。

   八

 それから何事もなく二週間が過ぎ、再び私は病院へ通院することとなった。
 普段のように父親の車で送ってもらい、病院の自動ドアをくぐる。この二週間、私の心中は穏やかではなかった。私の拙い手紙を読んだ石垣さんが、どのような反応を示すかが気がかりだったためだ。連絡先を表記していなかったため、無論連絡が来る筈もない。とすれば、今日の石垣さんの対応で彼女の気心が知れるというものだ。
 受け付けに、いつものように石垣さんはいた。私が、診察お願いします、と言って手帳と診察券を差し出すと、あ、はい、と、石垣さんはやや狼狽したように応じた。その一瞬間が、私には無限に感じられた。その反応を見て、やはりあのような手紙を渡すべきではなかったか、と今さらのように後悔した。
 持参した文庫本を読む気もなく、時間は過ぎた。普段はちらりと石垣さんを見やるが、今日はそんな余裕もない。ただ、自分のしてしまったことを恥じて悔いていた。
 名前が呼ばれ、診察に入った。いつもの質問。いつもの回答。しかしひとつ違ったのは、医師が、私の顔を見てこう言ったことだ。
「今日は何だか元気がないね」
 図星を言い当てられて、私は一瞬、怯んだ。しかし冷静を取り繕って、仕事で疲れているんです、と嘘を吐いた。
 それでも、会計の時はやってくる。しかも今日はすいているので、先日の鳥のような女性はおらず、石垣さんひとりで受け付けを行っている。石垣さんに対面するのは、間違いなかった。
 石垣さんの声で、名前を呼ばれた。私は小さく、はい、と元気なく立ち上がり、惨めな気分で石垣さんのもとへ歩いていった。会計を済ませる石垣さんの声は冷静だ。ひるがえって私は、千円札を出す筈が間違えて一万円札を出してしまったり、うろたえていた。
「お大事にどうぞ」
 石垣さんは、やはり笑顔だった。手帳に診察券、処方箋の紙を受け取り、私は淋しい気分で近くの薬局まで歩いた。
 その時ふと、手帳に何か挟んであるのを見付けた。領収書でも差し挟んだかしら、と開いてみると、そこには、見慣れぬ水色の便箋があった。もしや、と私は勇んでそれを開き見た。すると、それは石垣さんからの手紙の返事だった。

「お手紙とCD、ありがとうございます。
 私の笑顔に励まされるとか、嬉しい内容でとてもありがたいです。
 CDも、大人な感じでいいですね。
 私には付き合って一年になる彼氏がいるんですけど、彼も気に入ってくれました。
 調べてみたら、ラーシュ・ヤンソンってピアノ界のホープだとか言われているそうですね。
 これをプレゼントしてくださるなんて、センスのいい方だとふたりで言っていました。
 これからも、患者さんたちを安心させるような笑顔でいたいと思います。
 今後ともよろしくお願いします」

 私は口唇を開いたまま、閉じられなかった。
 石垣さんには恋人がいた。そんなことも計算に入れなかった自分が、ただただ情けなかった。自然と、目頭が熱くなった。私は負けたのだ、そう思うと、薬局へ向かう足も重くなり、涙がこぼれそうになった。いや、実際私は泣いていた。処方箋を記した紙が、一滴、雫に濡れている。ただそれきりだった。悔しいが、認めざるを得ない現実に、私の涙はとどまった。
 石垣さんは、私のファン・レターのような恋文を、それこそファン・レターとして読んだのだろう。そして、ラーシュ・ヤンソンのたおやかなピアノの調べを恋人と肩を合わせながら聴いているのだろう。もはや、私は悔しくなかった。ファン・レターのような書き口を選んだことを、寧ろ正解だと思っていた。私は恋に破れたのではない、石垣さんのいちファンとして、手紙を送っただけのことだ。
 しかし胸にふつふつと湧き上がってくるこの感情は、抑えられなかった。嫉妬? 憎悪? 自虐?……どれもがあてはまり、どれもがあてはまらなかった。私が精神病患者だからいけないのか、と自分を責めさえした。しかし石垣さんは精神病院の受け付けなのだから、精神病患者にも偏見はないと思われる。
 私は、恋に恋していたのだ。石垣さんを意識しておきながら、結局は自分のことばかり愛していたのだ。だから彼女に想いのたけを正直に打ち明けることもできず、姑息な書き口の手紙とCDの贈り物などという手段を選んだのだ。CDとて、自分の趣味の押し付けではないか。私は彼女に恋しているように自分を仕向け、自分を慰めていたのだ。
 何という、愚か者だ。
 私は、その場に立ち尽くした。雨が降ってきた。しかし傘もない私は、その場で頭髪が重くなるのを感じるばかりだった。

   九

 それからも、二週間に一度、病院へは通い続けている。
 無論、石垣さんとも会う。あの手紙のやりとりがきっかけで、多少雑談もできるようになった。
「お元気ですか」
「気分はいいですね」
 だがそこに、以前のような燃える情欲はない。
 彼女に恋人がいたとしても、『ホープ』をふたりで聴いていても、これでいい、と私は思う。
――これでいい。

(了)