『13』

The Doors
“13”


   上

 その頃光井は、ドアーズに惚れ込んでいた。
 ファーストとセカンドをカップリングし、何曲か削ったブートレッグのCDを買って以来、それが海賊盤だというのにもかかわらず、聴き惚れていた。大学の友人達にもドアーズの素晴らしさを吹聴し、特に「ハートに火をつけて」のオルガン・プレイを絶賛していた。
 光井の友人である堀越は、AORを中心に聴いていたためにドアーズのサイケデリックな演奏には難色を示していたが、光井の絶賛する音楽を否定もせず、自宅に招いては、AORのCDを聴かせながらドアーズの魅力について耳を傾けていた。
 光井と堀越は、大学に入学して以来の友人だった。好む音楽は異なれど、共に音楽好きということもあって意気投合し、互いのアパートの部屋に入り浸っては音楽を聴く毎日を送っていた。
 堀越はトトやスティーリー・ダンなど、テクニックに裏付けされた大人の雰囲気を醸し出すロックを好んでいたが、光井はグレイトフル・デッドやジェファーソン・エアプレインなどサイケ趣味のロックを好んだ。光井と堀越は互いに好む音楽を誉め合い、または罵り合い、そして一年が過ぎた。
 原付の免許を持っていたふたりは、堀越がアルバイト代でアメリカン・タイプのバイクを買ったのをきっかけに、バイクで走るという共通の趣味も見出した。いつも堀越が先を行き、光井のスクーターが後を追うといった形でのツーリングだったが、時には一日をかけて富士山を見にいったこともあった。
 バイクで出かけることが多くなったある日、堀越の誘いで光井は古着屋へ一緒に出かけることになった。丁度替えのジーンズを欲しがっていた光井は、堀越の先導するバイクを追って渋谷まで走った。当時彼らは東武東上線沿線に住んでいたため、結構な道のりだった。
 古着屋で堀越がTシャツを物色している間、光井は店頭に飾られたレコードを眺めていた。
「ジーンズ買うんじゃなかったのかい」
 堀越がレコードを熱心に眺めている光井の肩を叩いた。光井は、あれ、と言ってレコードを指差した。
「ドアーズのレコードなんだ。たぶん、オリジナル・アルバムじゃなくてベストか何かだよ」
 光井が指差した先には、なるほど、ひときわシルエットの大きな男が虚空に大きく浮かんでいるレコードが飾られていた。その下にはメンバーらしき三人の男が映っている。否が応でも、ドアーズの中心人物が誰か知れるジャケットだった。
「あのデカい写真は、ジム・モリソンなんだ。ドアーズの中心人物で、詩人なんだ」
 光井は熱心に、レコードを見た。その熱心さに参ったかのように、堀越はレコードを指差し、言った。
「こっち、買うかい?」
 悩んだ挙句――店内を徘徊してもすぐにそのレコードのもとへ戻ってしまう――光井は、レコードを買うことに決めた。ジーンズは諦めた。二千円という、中古レコードとしては高めの値段だったが、光井は満足気だった。
 帰りは、レコードはメット・インにも入らないのでスクーターの両足で抱えるようにして運んだ。警察に見付かれば減点ものだったが、光井は、ドアーズの聴いたことのない曲も含まれているそのレコードを、早く聴きたい一心でアクセルを回した。
 そのベスト盤、『13』は、ドアーズの五枚目のアルバムまでからのセレクションだった。「ジ・エンド」などの大曲は収録されていないが、小曲群を光井はことのほか楽しんだ。中でも「タッチ・ミー」はホーン隊などが加わった、他の曲とは毛色の違うものだったが、即座に彼のお気に入りになった。
 堀越から借りっ放しになっているポータブル・レコード・プレイヤーで、光井は毎日『13』を聴いていた。「ハートに火をつけて」の軽快なオルガンで始まり、「名もなき兵士」の銃砲音で終わる構成も、彼の気に入った。ロック雑誌の類を読むと、このベスト盤は契約上編まれたもので、ドアーズの核たる部分を表していないと酷評されていたが、それでも光井はそのレコードが飽きなかった。
 針を下ろす瞬間、プチッという接触音、曲に混じるスクラッチ・ノイズ――光井はそれを、懐古趣味であることは解っていた。CD全盛の時代、レコードを熱心に聴くなど時代に逆行している。しかし、恐らくレコード・マニアには解るのだろうそれを、光井は楽しんだ。
 そうして光井は知らなかったドアーズの曲を知り、やがて、オリジナル・アルバムも中古CDで買い揃えるようになった。そうなると、全曲がCDに収録されている『13』は無用の長物となる筈だった。しかしそれでも、光井は思い出しては『13』を聴いていた。まるでそこが自分の原点であるかのように。プレイヤーを貸してくれている堀越には悪く思っていたが、なかなか返せなかった。
 しかし未CD化のレコードを購入した堀越は、光井にプレイヤーを返すよう命じた。光井は仕方なく、しかし堀越に感謝しながらそれを返した。堀越の購入したレコードは、聞いたこともない名前のAORデュオだった。それから光井は『13』を部屋の壁に飾って拝むようにした。ジム・モリソンの姿が部屋を恰好よく見せた。
 この頃、光井と堀越の間にはある女が介入していた。宮脇という肉感的な女で、律子と呼ばれていた。
 律子は光井の友人だったが、彼を介して、堀越も友人となった。すると律子は、光井に見せたことのない大胆な行動をとるようになった。喩えば三年から始まるゼミを、親しい友人もいないのに堀越と同じクラスにしたのだ。そこには光井もいたが、律子の友人と呼べる人物は彼らふたりぐらいだった。目的は、堀越である。甘いマスクで女子からも密かに人気があった堀越は、しかし付き合っていた女と別れたばかりだった。光井は酒で彼を慰めたが、律子は彼に迫ることで隙を窺った。
 律子は器量は決してよい方ではなかったが、女の好みが多少ズレていると言われる堀越は、段々とその気になってきた。以前から律子の多情振りを知る光井は、あの女はやめておけ、と忠告していた。しかし、人間の劣る部分と優れる部分は紙一重である。堀越は律子を、多くの恋を知る素敵な女性として見るようになった。
 堀越と律子が恋人として付き合い始めてから、光井はひとりで部屋にたたずむことが多くなった。以前のように、堀越と酒を呑み交わすことも、一緒に出かけることもなくなった。光井は孤独を知った。そして壁にかかった『13』を見ては、それを堀越と古着屋で買い求めたことや、彼にプレイヤーを借りていたことなどを思い出し、溜め息を吐いた。
 光井と堀越は、すっかり疎遠になった。ゼミで会っても挨拶するぐらいで、堀越の隣りには常に律子がいて、懸命に話しかけている。光井の入る余地はない。光井も他のゼミ生と仲がよくなり、より堀越と離れていった。
 その日光井は、ゼミが始まるより早めに教室へ入ろうとした。するとそこには、堀越と律子だけが来ていた。入りにくい雰囲気を感じ取った光井は、廊下で煙草を喫うことにした。光井が煙草に火を点けた、その時である。教室内から律子のやけに大きな話し声がした。
「あたし、光井君のこと好きになれないな。あの人他のゼミ生と仲よくなって、調子に乗ってるみたいなんだもん」
 光井は、くわえた煙草を落としそうになった。
「光井は……まぁ、そういうとこあるかなぁ」
 堀越までが同調していた。
 終わった、と光井は思った。堀越は完全に律子に染められてしまった。もはや以前のように親友を気取ることもできない。それどころか、もはや友人ですらないのかも知れない。
「そういや、おまえのことはやめておけって光井が言ってたことあるよ」
「ええ? そうなの? やっぱあたし、嫌いかも」
 まるで味のしない煙草を喫い終えても、教室に入る気分にもなれなかった。
 光井はその日のゼミをさぼった。学内の喫茶店に入り、悲嘆に暮れながらコーヒーを飲んで、無碍に時間を潰した。
 それから、光井と堀越は挨拶すらしなくなった。ゼミの呑み会があっても、堀越と律子は出席しなかった。そのうちに四年になり、就職活動が落ち着き、卒業を迎えた。卒業式後の謝恩会でも光井と堀越は離れていた。
 そうして、光井の大学生活は終わった。

   下

 椎名町のショット・バー、「レッド・インク」に光井は仕事帰りに寄ることが多くなった。
 光井の仕事場は池袋にあった。江古田に住んでいた彼にとっては少しの寄り道になるが、週に一度は帰りに椎名町で降車していた。まるで絵に描いたようなマスター面をした、鼻の下に髭を生やして長髪のマスターがおり、彼が大学時代の杉本という女講師の友人で、その紹介から訪問するようになった。光井とそれほど齢も離れていない杉本は池袋に住んでおり、光井におんぶされて帰ったこともあった。それほどに酒に酔える、いい雰囲気の店だった。
 店ではジャズが中心にかかっていた。その夜はセロニアス・モンクのピアノがメロウなムードを醸し出し、思わず酒の進んだ光井はドライ・ジンを呑み干してマティーニを注文した。
「マティーニって、カクテルの王様っていって、その店の基準が判るって言うわよね」
 杉本が、マティーニを待つ光井に言った。
「そうなんですか。寿司屋の玉子みたいなものかなぁ」
 そうかもね、杉本は細い煙草の煙を吐いた。
「はい、マティーニ」
 うちの店はお眼鏡にかかるかな? マスターは笑いながらマティーニを差し出した。逆三角形のグラスが、透き通って光っている。光井はグラスの中に沈んだオリーヴをつまみ上げ、かじった。果肉の酸味がマティーニと混じって味覚を刺激する。
「うちのマティーニはレモン・ピールとか入れずに、ドライでもない、ストレートな味わいが特徴だよ」
 マスターはそう言って、つまみのチーズを切り始めた。光井がマティーニをひと口呑み、うまい、と応える。そうかい、マスターはチーズを小皿に取り分けながら笑った。
「実はね」
 マスターは、チーズを乗せた小皿をふたつカウンターに置きながら、まるで秘密を囁くように言った。
「近々、銀座に移店するんだ」
 ええっ、杉本が驚いて煙草を落とした。光井も銀座という響きに呆然とした。
「僕の知り合いがね、店を閉めるんで、その店舗を譲ってくれるんだよ」
 ビルの地下なんだけどね、とマスターは髭を揺らした。すごいじゃない、杉本は憧れるような目付きになり、銀座ねぇ、と呟いた。光井は、マティーニの味を忘れそうだった。
「ちょっと遠くなるけど、銀座じゃ、こういうお店は流行るんじゃないの?」
 気を早くした杉本は、こういう感じのお店にするのよね、とマスターに訊いた。ああ、とマスターは答える。
「ちょっとしたステージもあって、小さいバンド演奏とかも呼べそうなんだ。レコードだけじゃなくて、生演奏も楽しめる店になるよ」
 いいじゃない、杉本は拍手してマスターを祝福した。光井も嬉しい心持になり、マティーニを一気に呑み干した。こういう時はビールですね、三井は笑って、マスターに生ビールを注文した。ありがとう、マスターはただ、笑い続けていた。
 それから一ヶ月ほど経った秋のことである。
 土曜日の休みに、光井は惰眠を貪っていた。午後三時頃、枕もとに置いていた携帯電話が鳴って光井はようやく起床した。
「もしもし?」
「あ、光井君?」
 電話の主は杉本だった。
「今日からね、レッド・インクの銀座での営業が始まるの。さっそくお祝いに呑みにいかない?」
 寝惚けた頭で、光井はマスターが銀座への移店を打ち明けたのを思い出した。途端意識が明瞭になり、いいですね行きましょう、とふたつ返事で了承した。
 何かお祝いを、と光井は部屋を探したが、生活必需品ばかりが見当たって、レッド・インクの雰囲気に似合いそうなものがなかなか見付からない。この中に何か、と光井は押し入れを開けた。まだ出すには早い冬用の布団や、まるで使っていない掃除機などが詰め込まれている。すると掃除機の脇に、それはあった。
「これなんか、丁度いいかな」
 それはドアーズの『13』だった。処分しようにも思い出があり、かといって手もとに飾っておくには複雑な心境になってしまうため、押し入れにしまっておいたのだった。古いジャズとかかかる店だからこれも似合うだろう、と光井は『13』を取り出し、一度ジム・モリソンをじっと見詰めてから、着替えることにした。
 レコードを小脇に抱えた光井は初めて行った銀座の地下をさんざん歩き、どの出口から出ればいいのか迷った末、何とか地上に出た。丁度その時、出口のすぐそばに建っている三越からパッヘルベルの「カノン」が鳴り始めた。ここで合ってるな、光井はできたてのレッド・インクのウェブ・サイトから印刷した地図をもとに、歩き出した。
「銀座ユニーク・ビル」という雑居ビルに、レッド・インクはあった。一階はアジアの輸入雑貨屋で、その片隅に地下への階段とレッド・インクの看板があった。仄かな明かりがともる階段を降りていき、アンティークなドアを開ける。すると、そこには椎名町のレッド・インクとほぼ同じ空間が広がっていた。ただ違うのは、店の奥に小さな円形のステージがあることと、今日は軽快なボサ・ノヴァがかかっていることだった。
「待ってたわよ」
 杉本は、先に着いてカウンターでマルガリータを呑んでいた。よく来たね、マスターも変わらず笑顔でグラスを拭いている。
「銀座、初めてだからすっかり迷っちゃいましたよ」
 とりあえずビールね、光井は杉本の横のスツールに座りながら注文した。コロナがあるけど? マスターはグラスを置き、金色に透き通るビンを見せた。コロナ好きなんですよ、光井はマスターの握るコロナを指差して、それ戴きます、と返した。
 カットされたライムをビンの口に差したコロナが差し出される。最初にコロナっていいですね、光井は尻ポケットから煙草を出しながらマスターと杉本にそう言った。
「コロナって、砂漠で迷って咽喉がカラカラになった時に呑むと一番おいしい飲み物だって、何かの本に書いてあったわ」
 初めての銀座で迷った光井君にはぴったりじゃないの? 杉本は笑った。そんなあ、光井は煙草に火を点けながら笑い返す。
「あ、そうそう。マスター、これお土産」
 光井は煙草をくわえながら、抱えていた『13』をマスターに手渡した。
「おっ、ドアーズじゃん」
 もらっていいの? マスターは光井の顔を覗き込むように見た。開店記念、光井は笑顔で応える。そこに過去への想いはない。それをマスターに渡すことで、思い出は既に払拭された。ありがとう、マスターはボサ・ノヴァのレコードを止め、『13』をさっそくターン・テーブルに乗せた。
 乾いたドラムの音、続く流麗なオルガンの響き。この六十年代の音楽は、店の雰囲気にも合っていた。光井はライムをビンの中に落としたコロナを呑みながら、ドアーズのアルバム全部買っちゃったから、とレコードを手放した理由を述べた。これ「ハートに火をつけて」だね、いいねえ、マスターは上機嫌そうに微笑んでいる。
「レコードのお返しに、一杯奢るよ」
 マスターはワイン・セラーを探り始めた。
「この店の名前、レッド・インクっていうのは、アメリカのスラングで赤ワインのことなんだ。ふたりとも、たまにはワインも呑んでみないかい?」
 スペインの赤ワインなんかいいんじゃないかな、マスターはそう言って褐色のビンを取り出した。いいですね、そう応じて光井はコロナをひと息に呑み干し、もう一服して煙草を消した。杉本もマルガリータを呑み終え、お願いするわ、とワインに備えた。
 コルクを抜く小気味よい音が響き、やがてワイン・グラスに血液よりも紅い液体が注がれていく。開封したてで注がれるトクトクトク、という音が味への期待をそそった。
「ワイン、安いのしか呑んだことないけど、味解るかな」
 光井はそう呟いてから、ひと口呑んだ。滑らかな咽喉ごしと多少の酸味がある舌触りが味覚を刺激する。
「これ、うまい」
 マスターは、それはよかった、と満面の笑みを浮かべた。
「ワインは相性だからね。その人によって、合う合わないがはっきり分かれる。安いワインでも合えばすごくおいしく呑めるし、そういうのが解らなくて値段にばかりこだわる人もいる。要は、自分に合ったワインを選ぶことだよ」
 光井君にはスペインのワインが合うんじゃないかな、ボトルに栓を入れながら、マスターが言った。確かにおいしいわ、杉本もグラスを傾けながら満足気だった。
「あ、乾杯忘れてたわ」
 杉本が思い出したように言った。マスターも一杯どう? そう続けると、マスターは微笑みながら自分のグラスにワインを注いだ。杉本が音頭を取る。
「それじゃあ、レッド・インク銀座進出を祝って――」
 乾杯、
 三人のグラスがかちりと音を立てた。
 そうして、レッド・インクの銀座での営業は始まった。
 それからしばらく経っても、光井は銀座という場所になかなか縁がなく、以前の椎名町のように気軽にレッド・インクには行けなくなっていた。しかし翌年の六月、銀座で仕事があったのをいいことに、一杯呑んで帰ろう、と、光井は傘を差しながら久し振りにレッド・インクを訪れた。
 しかし、店の看板がなくなっていた。不審に思い、地下に降りると、鍵のかかったドアには「都合により閉店いたしました」という張り紙が貼られていた。
 光井はもはや、『13』に関するすべてを、失ってしまった。
 堀越も、マスターも所在が判らない。すべては風のように、去ってしまった。

   結

 そんな思い出から、光井は、インターネットの検索により『13』の画像を発見し、プリント・アウトして、手持ちのドアーズのCD音源から『13』をCD−Rで復刻した。
 今も、それは時々聴く。思い出されるのは、懐かしくも薄ら淋しい、追憶ばかりである。

(了)