『恋のハレルヤ』

黛ジュン
『恋のハレルヤ』


 冬の東武練馬は夜だった。僕は大学の研究室で時間を潰し、バスもなくなった時間に徒歩で自分の部屋へ向かっていた。ちんぴら達が若い女性を口説いたりしている。僕はそれを見て見ぬ振りをして足早に部屋へ向かった。
 部屋へ向かう途中には、単車線の踏切があった。幸い電車は来ておらず、僕は踏切を難なく渡ることができた。踏切沿いには様々な店が並んでいる。焼き鳥屋、ホルモン焼き屋、居酒屋、そしてラーメン屋。居酒屋は学生達で盛況のようだったが、ホルモン焼き屋はお陰で客足が遠のいているらしい。焼き鳥屋は既に閉店の準備をしていた。
 さて、残るラーメン屋は豚骨スープが売りの店なのだが、今日、十五日はサーヴィス・デイらしく、「本日限定」と銘打たれたのぼりが一杯三百十五円だと知らせていた。晩飯がまだの僕は、そこで腹を満たそうと思ったものの、財布を持っていない。どうやら部屋に置き忘れてきたらしい。今日は午後からの講義で、その後は研究室でお茶など飲んで時間を潰していたため、金を使わなかったので気付かなかったのだ。ラーメン屋は閉店の十時半まであと二時間ある。僕は急いで部屋へ引き返すことにした。
 部屋へ到着すると、そこはマンションだった。こんな高級なところに住んでいたかしら、と思いつつも自分の郵便箱を開ける。すると、その狭い中から潰れたカップ焼きそばがわらわらと出てきた。丸型、角型と三個ずつ入っている。どうやら試食のテスターにでも選ばれたらしい。一緒にその通知らしい紙切れも入っていたが、僕は食料を得られたことだけを喜んだ。そこへ丁度帰ってきた厚塗りの化粧の中年女性が、あらお宅も? あたしの郵便箱にも入っていたのよ迷惑ねぇこういう贈り物って、と言ってきた。僕はこの焼きそばがありがたかったので、迷惑ではない。しかし近所付き合いの体裁もあるので、そうですよねぇ、などと返しておいた。焼きそばを郵便箱の上に置いて片付けようとすると、そのうちひとつから液体ソースがこぼれてくる。どうやらパッケージが破損しているようだった。
「こんなことをしている場合じゃないんだ」
 僕は格安のラーメン屋のことを思い出し、焼きそばを再び無理矢理郵便箱に詰め込んでラーメン屋へ向かった。部屋に戻っていないのになぜかロング・コートのポケットに財布を持っている。見ると、千円札一枚と小銭のみの所持金。これで何とか事足りるだろう、と僕はラーメン屋までまっすぐの道を歩き始めた。
 道を歩いていくと、高層マンションが幾つか並んでいる。そのひとつを横切った際、上空から水分が飛来した。それは焼きそばの棄て汁かと一瞬思ったが、アンモニアの匂いがしている。それに大量だ。誰かがマンションの一室から窓を開けて放尿しているらしい。僕は「馬鹿野郎、便所でやれっ」と怒鳴って尿のシャワーを通り抜ける。着ていたコートが、特にフード部分がびちゃびちゃになった。
 そうだ、と僕は思い付いてコートのポケットから携帯電話を取り出し、春樹に電話をかけた。ラーメン屋が今日限りの安売りをしているのだ。友人にもその恩恵を授かってもいいだろう。春樹は近くのアパートで仁美と同棲している。携帯ではなく、部屋の電話にかけたためにもしかすると仁美が出るのではないか、と、かけてから不安になった。僕は彼女に仄かな恋情を抱いていた。しかし春樹は友人だったため、仁美を奪うような剛毅なこともできず、ただ春樹を介して仁美に出会えることを喜びとしていた。だが、電話に出たのは春樹本人だった。僕は安堵してすかさずラーメン屋の安売りを告げて誘おうとしたが、春樹は電話に出るなり「明日のこと憶えてるか?」と切り出した。明日のことなど失念していた僕は面食らい、続く春樹の言葉を待った。「明日、上板橋の喫茶店で呑む予定だろ? 忘れたか?」忘れていた。所持金が千円ちょっとの状態で、そんな会合に参加できるだろうか。僕はお金が、と言おうとしたところで、春樹は「じゃあな、よろしく」と電話を切った。ラーメン屋のことは言えなかった。
 道を線路沿いにまっすぐ歩き、踏切の近くまで戻ってきてようやくラーメン屋に到着した。閉店まであと一時間半ほどある。余裕だ。暖簾をくぐり、ガラス戸を横に流して店に入ると、丁度以前音楽系出版社のバイトでお世話になった田代さんが食事を終えて帰るところだった。僕は彼と会うのも久し振りで、挨拶したが、無視されてしまった。やはり職場が終わると他人なのか、と僕は少し淋しくなった。田代さんの天然パーマが大きく揺れて見えた。
 中に入ると、中央には円卓があり、そこに禿げ上がった親父と脚を痛めて杖を突くお袋が座っていた。ふたりはラーメンを食べ終わってビールを一杯呑んでいるらしい。こりゃあタダ酒にありつけるチャンスかな、と僕はお袋の隣りに座り、ラーメンを注文しようとした。しかしその途端、ふたりは帰ろうとする。ふたりの奢りで、酒がタダで呑めるチャンスなので止めるが、逆に外に連れ出されてしまう。ラーメンの注文さえできなかった。お袋にコートが濡れていることを指摘され「誰かが高い部屋の窓から小便してたんだ」と説明する。親父はそれを聞いて「災難だな」と笑っていた。
 親父はタクシー運転手で、店の前に停車していたタクシーの後部座席に僕を乗せて、お袋がナビ・シートに座り、この三人でどこかへ出発することになった。飲酒運転を指摘すると「この程度の酒じゃ酔いに入らねぇよ。それにこのあたりはお巡りもいねぇし」と親父がスピードを上げた。
 マンションからラーメン屋へ向かったまっすぐの道を、さらにまっすぐ進んでいく。ワイパーが動いているところを見ると、小雨が降ってきたようだ。やがて林の中を通り、隣り町まで来てしまった。交差点に差しかかり、僕はそこで奇妙な建物を見る。壁がガラス張りになっている郵便局だ。ガラス越しに服を着たマネキンが数体、三人ぐらいの本物の人間と一緒に立って郵便物の仕分け作業をしている。マネキンはよく働く。ともすると人間より的確に郵便物を仕分けしていく。見た目ではまるで、どれがマネキンでどれが人間かも判らない。
「どこへ行くつもりなんだい?」
 僕は運転する親父に訊いた。すると親父は、隣り町の上板橋にある系列店のラーメン屋へ行くのだと言う。そこでも今日はラーメンが三百十五円で、しかもビールが格安らしい。アサヒのスーパードライの三百五十ミリ缶が一本百円で呑めるらしい。親父いわく「さっきの店じゃ本気で呑もうとしたら何千円もかかるぜ。こっちの店は人に奢ってもいいぐらいの店だ」とのこと。
「ああ、奢りで酒が呑める」と嬉しくなると、雨がやんできた。霧雨だったようだ。霧がかかる道をタクシーは飛ばしていった。
 車内にはラジオがかかっていた。古いポップスの特集らしいが、時折演歌も流れる。それに耳を傾けていると、DJらしきテンションの低い男が次の曲を紹介した。
「次は、黛ジュンさんで『恋のハレルヤ』です。こちらも先程流した『夜明けのスキャット』と同じ頃ですか。懐かしいですね。当時私は大学生で、この曲が大好きでした」
 DJの思い出話が続いている。ラジオは野球中継ぐらいしか聞かない親父が珍しいものを聞いているな、と思うと、お袋のリクエストだったらしい。私ね若い頃この人に似てるって言われたことがあるのよ、とお袋ははしゃいでいる。脚の痛みは引いたのかと訊くと、杖がないと歩きづらいが痛みはなくなった、という返事がきた。僕はお袋のはしゃぎようから完治も遠くはないな、と思った。その間に歌が始まっていた。

 ハレルヤ 花が散っても
 ハレルヤ 風のせいじゃない
 ハレルヤ 沈む夕陽は
 ハレルヤ 止められない

 先程の郵便局がまた見えた。道に迷ったのか、と親父に訊くと、警察がいるから迂回して行くんだ、と返事があった。今は作業が終わったのか、人間の姿はなく、マネキン達だけが暗闇の中でぼうっと突っ立っていた。僕はコートを着たままなのに気付き、暖房は入れないのかと訊こうとしたが、親父が警察の見張りを避けて苛立っているようなのでやめることにした。

 愛されたくて愛したんじゃない
 もえる想いを あなたに
 ぶっつけただけなの

 親父の運転が荒い。見ると、親父はどこから持ってきたのか缶ビールを呑んでいた。飲酒運転を注意した矢先に酒を呑み出す親父を、僕は少し恥ずかしく思った。しかしその血が流れている証拠か、助手席のお袋がよこした缶ビールを僕も呑んだ。麦の味がした。飲んだことはないが、尿の味に似ていると感じた。そういえばコートにかけられた小便は既に乾いていたが、不思議とアンモニアの臭いはしなかった。

 帰らぬ あなたの夢が
 今夜も 私を泣かす

 親父は迂回を続けている。目的地のラーメン屋にはいつ到着できるのだろうか。お袋もビールを呑み始めた。空っぽの胃袋にアルコールを流したせいか、タクシーがバックで走行しているように見える。その証拠に、さっき見たばかりの郵便局がまた見えてきた。今度は、マネキンもいない。ガラスの向こうには閑散とした何もないフロアが広がっているだけだ。試しにバック・ミラーを見てみると、しかしタクシーはきちんと前に進んでいた。僕はビールをまた胃に流し込んだ。不意に、マンションの郵便箱に置いてきたカップ焼きそばが泥棒に盗まれるのではないかと不安になった。僕には金がないわけではない。しかし、今回の格安ラーメンを巡るように執着心が少し強いだけだ。同時に春樹との明日の約束も思い出したが、それはどうでも良いことのように思えた。
 間奏に、しゃがれたサックスの音色が響いた。この曲にサックスなんてあったかしら、と僕は原曲を思い出そうとした。しかし耳につくサックス(どうやらテナー・サックスのようだ)がうるさくて、思い出せない。この曲に不似合いなサックスはやたらと饒舌で、まるでフリー・ジャズの演奏が紛れ込んだようだった。僕は原曲の雰囲気を記憶から引き出すのを諦めた。ダリの絵を鑑賞しながらモネについて論議しているような不毛な気分だったからだ。
 僕は気分直しにビールをもうひと口飲み込んだ。すると、ビールだった筈の缶は小さなコーヒー缶に変わっており、予期せぬカフェインの味に襲われた。途端に気分が悪くなった。そういえば、僕は小さい頃からタクシーの車内に漂う独特の臭気が苦手だった。しかし親父のタクシーにはそれは感じない。親父の体臭なのか、機械油の染みたタオルを嗅いでいるような感覚がして、それは僕にとって不快ではない。お袋が歌い始めた。どうやら歌に入ったようだ。

 愛されたくて愛したんじゃない
 もえる想いを あなたに
 ぶっつけただけなの

 お袋の声は、黛ジュンの明るい声にそっくりだった。まるでカラオケのエコーが強くかかっているかのように、それも機械処理されたフェイド・アウトが絶妙にかかっているかのように、お袋と黛ジュンの歌声が車内に響いた。容姿は似ていたと言っていたが、と僕はお袋の口もとをバック・ミラー越しに見た。六十を過ぎているのに真っ赤な口紅を塗りたくっている。声まで似ているとは知らなかったな、僕はコーヒーを飲んだ。今度は胃が拒否反応を示さず、苦味がゆっくりと降りてきた。

 夜空に祈りをこめて
 あなたの名前を呼ぶの

 急に、霧が晴れた。するとタクシーは、上板橋に入っていた。親父は警察の見張りをうまく避けたようだ。現に、僕が明日春樹と呑む予定の喫茶店が右手に見える。喫茶店の名前は「ライラック」といった。アンティークな佇まいに趣味のいい音楽が流れ、文人気取りになれる喫茶店だったが、いつの間にか営業方針を変えたのか、こんな夜にも営業しており、会社帰りらしきサラリーマンふたりが千鳥足で出てきた。
「明日、ここで友達と呑むんだ」
 僕はタクシーがライラックを通り過ぎる時に、そう言って右手の親指で店を指差した。そうか、親父はそう呟いたきり、黙り込んだ。もともと余り喋る方ではない親父だが、黙るとヤクザの親分のような貫禄が漂い、話しかけづらくなる。お袋も黙った。ラジオは消えており、車内に沈黙が漂った。
 気まずさから携帯電話の時計を見ると、壊れているのか、まだ九時になっていなかった。まるで霧の間に時間が逆転していたかのようだ。
「おまえ、酒ばっか呑んで躰は大丈夫なのか」
 親父が低い声で言った。病気のこともあるからあんま呑むんじゃねえぞ、その声は仁侠映画を観ているかのような気分にさせた。僕はある病気を患っている。ペシミストがよくかかるという「カンダタ病」だ。この病気はしばしば鬱状態に伴って現れ、自分自身、世界、将来などについての悲観的考えが支配的となる。認知療法や投薬など幾つかの手段で治療が施されるが、僕は薬を服んでいる。その薬が肝臓に結構な負担をかけるため、一般にはアルコールは禁じられている。しかし僕のカンダタ病は快方に向かっており、医師から日常生活には影響がないと診断されているので、多少のアルコールは大丈夫だと思っている。そういうふうに自分で判断してしまうのも、カンダタ病のせいでもあった。この病気はエゴを強化させる。ペシミストにとってエゴというものは宇宙の塵にも等しく、同時に、地球にとっての太陽ぐらいに巨大でもある。不条理な病だった。この病に、僕は大学入学と時を同じくしてかかってしまった。原因は予備校時代に関わった、見知らぬ娘との性交にあったようだ。カンダタ病は風邪のように、他人に移すと治ると言われている。あのゆきずりの娘は、今頃大学生活を謳歌しているのだろう。
「着くぞ」
 親父が、唸った。するとタクシーのライトに照らされ、向かいにラーメン屋が見当たった。親父は猛スピードで店の前の広くはない駐車場にタクシーを走らせ、ドリフト走行するかのように尾を引いて停車した。見ると、駐車スペースぴったりにタクシーは停車している。酔っていながらこの腕前、僕は親父を見直した。
 タクシーを降りると、両親は既に千鳥足だった。親父は禿げ上がった頭頂部まで紅潮していて、お袋は口紅の境目が判らなくなるほど顔を赤くしていた。僕は居酒屋風のラーメン屋の入り口まで、ふたりの背を手でゆっくりと押していった。
 居酒屋風の入り口とは裏腹に、中に入ると、そこは西欧風の家具屋のような整然とした佇まいだった。店員もウェイターのようにめかし込んでおり、それでラーメンを運ぶ姿にギャップを覚える。しかし居酒屋風の外見は間違っていないようで、入るなり案内の店員に「三名様っすね?」と軽い言葉をかけられて、僕はどこか安心した。
 案内された席は、トイレのすぐそばのアンティークなテーブル席だった。隣りの席との間には人工の蔦が絡まる格子が置かれている。椅子も立派なもので、まるでワインでも頼まなければいけなさそうな雰囲気だが、周囲の客は皆歓談しながらラーメンを啜っている。僕は溜め息を吐いてロング・コートを脱いだ。
「オーダーは何になさいますか?」
 馬鹿丁寧な口調で、長髪を結んだバーテン風の店員が訊いてきた。酔っ払っている両親と即席に話し合い、三百十五円の豚骨ラーメンを三つと、アサヒのスーパードライを十缶注文した。できあがるまでしばらくお待ちくださいませ、またも馬鹿丁寧な口調で店員が去っていった。
「先生に聞いたんだけどさ、カンダタ病、もう全快に近いってさ」
 そうか、親父は煙草を探して躰のあちこちをまさぐりながら応えた。僕はコートの内ポケットからクールのボックスを取り出し、親父の口もとへ一本運んだ。続いてライターを探したが、なぜか親父の口によこした煙草には火が点いていた。
 その煙草が消えるより早く、会話が続くよりも早く、ラーメンはできあがった。入り口で僕達を迎えた威勢のいい店員が、へい豚骨三丁お待ち! と言いながら次々と三杯のラーメンをテーブルの上に置いた。ラーメンは豚骨の細麺で、きくらげと生姜だけが乗ったシンプルなものだった。ほどなくしてビールも十缶届き、熱いできたてのラーメンが少し冷めるまで三人でビールを呑んだ。さっきまでフラフラしていた両親は、不思議なことに呑めば呑むほどシャキッとしてくる。一本空ける頃には顔の赤みまで引き、まるで呑む前に戻っていた。
 いざラーメンを食べようとすると、麺が白滝になっていた。しかし豚骨の味は濃厚で、麺が白滝だろうと味わえる。逆に歯応えがあってうまいとさえ感じられた。少し食べてから親父は豆板醤を、お袋は辛味噌を、僕は摩り下ろしにんにくを、それぞれ山ほど入れて味を変えて楽しんだ。
 あとは卓上のビールの群れを片付けるだけだ。すっかり顔色の良くなった両親は、陽気にビールを味わった。僕もつられて口へ運ぶ。すると不思議なことに、ビールを呑むごとに両親の姿が薄くなっていく。その代わり、それに重なって何かの影が浮かんできた。ビールをひと缶空ける頃には、親父は春樹に、お袋は仁美に変身していた。
 見ると、店内もいつの間にかライラックのそれに変わっている。しかしシックな店内は猥雑な雰囲気に変わっており、僕らの陣取るテーブルの横には円形のステージのようなものがあった。そこにダンサーなりが出てきて、踊りや芸を披露するらしい。ライラックも変わったな、と嘆きつつ、僕はビールを呑んだ。春樹と仁美も新たな缶を開けていた。携帯電話を見ると午後五時半頃で、日付けが変わっていた。小さな円卓上にはビールが五、六缶残っている。ライラックでこれだけ呑むと高いんじゃないか、と不安になった僕は自分の財布を見てみたが、五万円入っていた。
 脇のステージにダンサーがひとり、現れた。極楽鳥の尾のような飾りを頭と腰に巻いて、あとはラメの水着だけという簡素でいながら派手な出で立ちだった。春樹は、いいぞ! と囃し立てた。仁美は気怠そうにバージニアスリムに火を点けた。僕は突然の出来事に戸惑い、慌ててビールを呑み直した。もはや水のようだった。
 ダンサーが現れたと同時に、耳にしたばかりのような気がする軽快な音楽が流れた。

 ハレルヤ 花が散っても
 ハレルヤ 風のせいじゃない
 ハレルヤ 沈む夕陽は
 ハレルヤ 止められない

 ダンサーは音楽と歌に合わせて腰をくねらせ、胸を突き出し、妖艶な踊りを披露する。春樹はこれに熱中して、僕と会ったばかりなのに口も利かずにその仕草を見詰めて固唾を飲んでいる。そのとぼけた顔付きが間抜けに見えた。仁美は飽き飽きしたような感じで、細い煙を吐き出しては腕を組んだり、円卓の上で休ませたり、僕を不意に見詰めたりする。視線が合うと、仁美は妖しげな目付きで微笑んだ。左眼の下にある小さな泣きぼくろが大きく見えた。まるで僕の一方的な恋情を知っていて、弄ぶかのような視線だった。

 愛されたくて愛したんじゃない
 もえる想いを あなたに
 ぶっつけただけなの

 歌詞が、妙に引っかかった。ダンサーは自分の両胸を揉みしだいている。今にも水着を脱ぎ出しそうな雰囲気になった。春樹はのぼせた顔でステージを見詰め、仁美は対面で僕がビールを口に運ぶのを眺めている。おまえ達の交際に文句があるわけじゃない、ただこの想いを知ってほしいだけなんだ、そんなふうに歌詞を変えて仁美に口走りたくなった。仁美は僕の気持を知っているかのように「何か言いたいの?」と囁いた。僕は無言で、しかし慌てて首を振った。ふふ、と微笑んで仁美は煙草の灰を灰皿に落とした。それとダンサーが細長い煙草をくわえる(火は点いていない)のは同時のことだった。

 帰らぬ あなたの夢が
 今夜も 私を泣かす

 ビールが空になった。空き缶を円卓に置くと同時に、ダンサーが胸の水着を剥ぎ取り、客席へ放り投げた。春樹はややあってそれに飛び付き、客のごった返す群れに飛び込んだ。春樹がいなくなった隙に、仁美は僕へ顔を寄せた。「あたしのこと、好きなんでしょ?」小悪魔のような微笑みを浮かべて、仁美は僕の耳もとでそう言った。ダンサーは両乳首を両掌で隠すようにして腰を振り続ける。群集は水着の奪い合いになっているようで、やった、だとか、よこせ、といった怒号が飛び交っている。全員、酒が入っていてなかなか諦めない。
「してあげても、いいのよ」と言って仁美は、円卓の下で僕の膝あたりに手を運んだ。僕の太腿をくすぐるように、仁美の掌は動く。やめろ、とは言えなかった。なぜなら、触ってほしかったからだ。まるで何も履いていない太腿をいじられるかのように、生々しい感触だった。灰皿で休んでいる仁美の煙草がぐんぐん灰になっていく。春樹が戻ってきやしまいか、と思ったが、どうやら群集の中に落ち着いたらしく、群れの中からステージに声援を送っている。勃起中枢がゆるやかに、しかし急速に反応した。仁美の手が中枢に触れるか触れないかのすれすれの動きをして、僕の煩悩をますます刺激する。
 いつの間にか、僕の下半身は裸になっていた。それも違和感なく、まるで最初から裸であったかのように。仁美の手は僕の中枢を唐突に握ってきた。硬くなってるじゃない、そう呟きながら、仁美の指はそれぞれが別の生き物のようにねっとりと動き出した。ステージではダンサーが紫や赤に照らされる乳首を見せ付けるように踊り、遂に腰の水着に手をかけた。群集がどよめいている。僕は冷静を装ってクールを一本取り出し、火を点けた。仁美の指の動きに遠慮がなくなる。子供が猫の尻尾をいじるように、執拗に、小刻みに肥大した僕の核を弄ぶ。

 愛されたくて愛したんじゃない
 もえる想いを あなたに
 ぶっつけただけなの

 ダンサーがとうとう腰の水着を脱ぎ、また客席へ投げ入れた。今度は、水着を取り合う気配はさほどなく、群集は露わになったダンサーの股間に視線を注いでいる。逆三角形に手入れされた陰毛が、ピンクの照明で輝いて見えた。仁美の手がゆるやかに上下運動を始める。ダンサーはひらひらと掌を泳がせ、開脚して陰部をちらつかせた。照明が白に変わり、ピンクの陰唇が見えた。ダンサーは惜しげもなくそれを開いてみせて、腰を上下に揺さぶる。闇よりも深い闇が、真ん中にぽつりと小さく花開いていた。仁美の上下運動が激しくなり、もう一方の手が中核の根もとをこすった。ダンサーは口にしていた細長い煙草を抜き取り、躊躇することなく陰部にゆっくりと差し込んだ。煙草を包んだ花が揺れている。ダンサーは手を後ろにやり、煙草の差さった陰部を客席へ突き出した。

 夜空に祈りをこめて
 あなたの名前を呼ぶの

 不意に、僕の背筋を何かが走った。
 その何かは僕の全身を俊敏に駆け巡りやがて全神経を凝縮するように中核へ集めた。僕は全身が短く痙攣し白い欲望が核の先からほとばしるのを感じた。同時にダンサーが陰部に力を込めて煙草を吹き矢のように飛ばした。客席はその濡れた煙草を求めて混乱した。僕の先端から解放された欲望は円卓の下で曲がった弧を描き床へ飛び落ちた。こぼれる液体はそれにとどまらず僕の核をいじっていた仁美の両掌をも汚した。感覚でそれを感じ取った仁美は僕の虚ろな眼を見て、ふふ、と微笑んだ。その笑みはあどけない子供のように汚れなく純粋で性のすべてを悟りきった娼婦のように淫靡だった。煙草の味がしない。仁美の手は果てた僕の中枢をそれでもいじり続け粘り気のあるしかし敏速な手付きで上下運動を続けた。僕はまた何かが今度はゆっくりと背筋を這い上がるように昇ってくるのを感じた。それはまるで真夜中に背中から巨人になるかのようなゆったりとした恐ろしい切迫感で僕を満たし尻の穴をぎゅうううっと締めた。僕は、あ、と短い呻き声をあげた。それと同時に背中を這い回っていた快楽の悪魔が全身を締め付けるかのように僕を真空パックで閉じ込めるかのように空き缶を潰すように煙草を揉み消すように花を摘み取るように一刹那に封じた。そうしてセカンド・エクスタシーは僕の中を貪るように僕を空っぽにして意識を飛ばし全身からすべての力を奪った。
 意識が閉じる中、ダンサーの闇より深い闇に自分の視界が吸い込まれて消えていくのが解った。

(了)