『クワイエット・ライフ』

Japan
“QUIET LIFE”
あなたがあたしである限り、あたしはあなたであり続ける。
そんな簡単な命題を、しかしあたしは、持ち続けなければいけない。なぜならこの躰は借り物のようなものであって、本当はあたしのものじゃないからだ。
あたし――恵という名のあたし――が現れたのは、いつの頃からだっただろうか。
あたしの最も古い記憶は、中学生になったあたしの躰がいじめられている姿だった。それも陰湿ないじめで、給食の残りを机の中に入れられたりとか、靴を片方だけ盗まれたりとか、そういった犯人が歴然としない、うっすらと近付く暗闇のようないじめだった。
そのうちに、あたしは、あたしとして誕生してしまった。
そう、「してしまった」のだ。
あたしは自分のしてきたことがわからない。ただ確実なのは、ここにいるあたしはあたしであって、あたしでないということだ。借り物の躰で、時折、思い出したようにあたしはあたしとしてよみがえる。そうしているうちに、あたしは、あたしに「恵」という名前を付けた。その一文字が、メグミという呼び名が、借り物の躰の中に「すっ」と入り込んできたからだ。この躰の本当の名前や生き方が、別にあるのは知っている。けど余り興味はない。あたしは、あたしとして生きていくことにしか興味がないからだ。
あたしは目が醒めると、大抵はアパートの一室、あたしの躰が借りた部屋で寝そべっている。何かしかの音楽が流れていることも、しばしばある。あたしの躰は嗜好が古いらしく、七十年代のロックがよくかかっていた。でも、あたしは音楽には興味がない。ただあたしは、あたしとして何ができるか、だけに興味があった。
そうしてゆるやかに目醒めた後、あたしは街にぶらりと出かけ出す。お気に入りのワンピースを着ていこうと思うものの、躰に合わせて仕方なくパンツ・ルックで出かける。
世の中は、便利になったものだ。何が便利かというと、ユニセックスが認められる世の中になっていることだ。男が女っぽい、女が男っぽい服装をすることが、それほど珍しくなくなっている。そのお陰で、あたしはあたしであり続けることができる。もともと、顔立ちが女らしいことも幸いしているのだろう、ビラを配っている人に、女性専用の金融なんかのビラを渡されることもよくある。だからあたしは、念入りに化粧をして街を闊歩する。あたしがあたしであるために。
その日も、あたしは狭い部屋の中でゆるやかに目醒めた。
あたしの躰は音楽だけじゃなく趣味が古くて、インテリアなどもセンスがない。インド風のエスニックな服もダサいものばっかりだ。その中からあたしは黒のパンツとお気に入りのワンピースを見付け、着替えることにした。鏡で見たあたしは、明らかに男の顔をしていたので、念入りな化粧もした。
左腕が痛む。
あたしの左腕には、手首から肘にかけて、ひどいアームカットの跡がある。あたしがあたしでない時に、この躰がずたずたに切り裂いた跡だ。それは何かの文字のように見えるけど、あたしには読めない。いつまで経っても傷跡が消えないということは、あたしがあたしでない時に、恵というあたしじゃない時に、跡をなぞるように傷を深めているのだろう。
見れば、新しい傷が増えている。そこが針で刺されるように、ちくちく痛む。でもあたしはこの痛みが嫌いじゃなかった。寧ろ、普段は眠っている自分が目醒めている証として、心地よくも感じられた。
傷を覆うように長袖のシャツを着て、黒いパンツを履く。その上からワンピースを被り、鏡で服装と化粧の具合をチェックする。
よし、
あたしは、自分に自信を持たせるかのように呟き、帽子を被りながら部屋を出た。
あたしがあたしでいられる時間は、長くはない。
いつも数時間程度、あたしの躰が眠っている間にあたしは目醒める。だから夜になることが多く、その日も、夜中の二時になってあたしは目醒めた。
ここのところ、夜の街を歩くのがあたしの日課になっている。夜の街は好きだ。昼間の雑踏とは違い、沈黙がそこを支配しているから。だから、酒に酔った学生などに出くわすと気分は一気に興醒めする。でも、今日はいつもの静かな夜だったから、あたしは不愉快な思いをせずに夜の街を闊歩できた。
晩夏の涼しい風が、頬を撫でる。あたしは短い活動時間を有意義に過ごすために、早足で街を歩いた。これといって、目的の場所があるわけでもない。だから手狭な範囲をぐるぐると歩き回る程度なのだけれど、これが実に気持ち良かった。普段は恵として存在できないあたしが、恵というあたしになれたことを実感できるからだ。
時折出くわす人々が、みんなあたしを「女」と認識して去っていく。これが何よりの快感だった。念入りなメイクをしたかいがあった。または、自分の顔立ちに感謝した。その快感をより求めて、あたしは街の中心地にある広場へと繰り出した。
そこには、自分の才能を信じて疑わない弾き語りや、深夜の甘い会合を楽しむカップルなどがたむろしていた。あたしはまず、聴衆もいないのに歌をガナる弾き語りの前へ歩いていった。弾き語りは、客が来たかと思い込んでよけいに熱を入れてガナり出す。曲を演奏し終わってからタオルで額を拭き、弾き語りはあたしに言った。
「お姉さん、リクエストある?」
お姉さん、
あたしは思わず、その場に突っ伏して笑った。お姉さん、だって。こんなあたしをつかまえて、お姉さんだって。可笑しくてたまらなかった。弾き語りは不可解な顔をして、しゃがみ込んだあたしを蔑むように見ていた。しかししばらくするとまた、何かの曲をガナり出した。
あたしは満足だった。これだけでも、きょう覚醒した価値があったというものだ。あたしは足早に弾き語りから離れ、カップルの前を通って、早くも帰路に着く。この覚醒が長続きしないことを知っているからだ。
帰り道でも、すれ違った何人かはあたしを違和感なく通り過ぎた。あたしを、「女」として見ている。それが嬉しくてあたしは歌い出したくなったけど、あたしは何にも歌を知らなかった。部屋にある古臭い音楽のCDやレコードはいっさい聴かないし、あたしがあたしであるうちに聴いた歌は、弾き語りのガナり声ぐらいだ。だからあたしは、黙ったままにこにこしながら家路に就いた。
木造のアパートに到着した頃には、あたしが覚醒してから三時間が経過していた。そろそろだ、あたしは今にも崩れ落ちそうな脆い階段を昇りながら、あたしがあたしでなくなっていくのを感じていた。
青い光が、うっすらと視界に入る。太陽が姿を現そうとしている。
部屋に戻るなり、あたしは、着替えもメイク落としもできないまま、ベッドに倒れ込んだ。
そして、意識が小さく収束していくのを感じ、暗い闇のなかに引き戻された。
目醒めると、おれは身に憶えのない恰好で、化粧をした状態だった。
おれは前日、眠る前に寝間着に着替え、多量の睡眠薬を服んで薄くアームカットしていた記憶がある。それからはすぐに眠り込んでしまったようで、まるで記憶がない。ズボンとワンピースを着た憶えも、化粧をした憶えもない。だというのに、鏡で見たおれはまるで女装するかのように、それらを施されたままだ。
何があったのか?
記憶がない。眠っていたのだから当然と言えば当然だが、そうなると眠っている間に女装したということになる。そんな馬鹿な話はない。しかし、おれが女装して眠っていたというのは事実だ。
混乱しそうになったが、とりあえずはいまの妙な恰好を払拭するのが先決だった。おれは鈍い痛みを訴える頭を押さえながら部屋着に着替え、流しで顔を洗った。
こんなことが、月に何度かある。おれの記憶が飛んで、気が付いたら女装して眠っていた、ということが。それについて当初のおれは「馬鹿な真似のひとつでもしてみたくなったのかな」と自己肯定したが、余りにもそれが続くので不安になった。眠っている間のおれは何をしているのか。おれは夢遊病者ではないのか。様々に考えたが、どうしても根拠なり解決策なりが見出せない。
だからおれは、考えるのをやめた。おれはこういう癖がある人間なのだと認め、すすんで化粧を落とすことで解決することにした。
頭痛がする。記憶によると、多量の睡眠薬を服みながら、おれは浴びるように酒を呑んでいた。そのせいで二日酔いにでもなっているのだろう。おれは頭痛薬と抗鬱剤を口に放り込み、バーボンで空っぽの胃に流し込んだ。
アルコールの発する熱が、咽喉を刺激する。おれはこの目醒めのひと口が、たまらなく好きだった。精神科医からアルコールを自重するように言われているが、やめられない。それはアームカットと同じで、自分が生きていることの自己証明にもなるからだ。
左手を見る。そこには、カッターナイフで傷付けた痕跡が生々しく残っている。「さくら」と書いたつもりだったが、文字が角張り過ぎてよく読めない。
何か音楽を聴こう、おれは部屋の隅に置いてあるCDラックから、今朝の気分に相応しい一枚を選ぶべく立ち上がった。またしても鈍い頭痛。よろめきながらCDラックに辿り着き、おれは無造作にCDを手に取っては引っ込めた。ソフト・マシーンは重過ぎる。ルー・リードなんてどうだろう? いや、ロック過ぎる。ジェネシスは? また眠ってしまいそうだ。いっそ七十年代から遠ざかってみよう。後期のロキシー・ミュージックなんてどうだろう? 気分じゃないな。もっとこの、身に憶えのない女装を着飾ってくれるような音楽がいい。
それじゃあ、
と、おれが手に取ったのは、ジャパンの『クワイエット・ライフ』だった。
これこそ、こんな朝に丁度いい。化粧もそうだし、何より憂鬱な朝にぴったりだ。おれは早速『クワイエット・ライフ』を手に取り、プレイヤーにセットした。
冒頭を飾る、ディスコテックなビート。おれはバーボンを手にして、再びキャップを開けた。ドラムの音がフェイド・インしてくる頃、口にしたビンからバーボンが咽喉へ侵食する。憂鬱な歌声が響くなか、再びキャップを閉める。
おれはしばし、「クワイエット・ライフ」の音に耳を傾けた。ダンサブルな曲調がどこか、うら淋しくきこえる。
カーテンの隙間から、光が漏れ入ってきている。「フォール・イン・ラヴ・ウィズ・ミー」が始まった頃、おれはその光を埋めるべくカーテンを引っ張った。光に触れていたくない。おれは、漆黒のなかに沈んでしまいたい。「絶望」のピアノの調べが染み込むように耳に入ってくる。
何て完璧なアルバムだろう、
おれはこの朝にぴったりな一枚を、虚空に音消える拍手喝采で賞賛した。素晴らしい、俺はにやりと笑って「絶望」の消え入りそうなヴォーカルを耳にした。自殺したくともできない、何度やってみても死を恐れて引き返してしまう、自称自殺志願者にはもってこいのアルバムだ。
続く「イン・ヴォーグ」で、おれは意識が消えかかっているのを感じた。寝ぼけ眼で空っぽの胃に流し込んだバーボンが、再度の睡眠を呼びかけていたのだ。どうせやることもない、愚図なこの躰のこと、もう一度眠ってしまっても構わない。働くことさえ困難になった、アルコール中毒で鬱病で、無職のおれには。
おれはベッドによじるように乗りかかり、布団もかけずに眠った。『クワイエット・ライフ』は、眠っている間のBGMにすることにした。
再び目醒めると、聴いたこともない音楽が鳴っていた。
あたしの躰がかけたのだろう、憂鬱な音楽。アップ・テンポなのに歌手の歌声が憂鬱で、ねじれるような歌い方をしている。時折「ハロウィーン」ときこえるが、英語の歌らしくそれ以外はよく聞き取れない。
あたしが眠っている間、あたしの躰が音楽をかけることはしょっちゅうだ。時にはいまのように、かけっ放しであたしに意識が切り替わることもある。けれど、そういう時に鳴っていたのはいつもゴテゴテしたジャズみたいな音楽だとか、浮遊感を催す音楽だ。
きょうは違った。ビートが強調された、明らかに年代の違う音。最初に耳にした時には、ダンス・ミュージックかと思ってしまった。これはあたしの音楽知らずが呼んだ結果だけど。
何のCDだろう、あたしはテーブルに目をやった。この躰は、音楽を聴く時には必ずと言っていいほどケースをテーブルの上に置く。現に、白をバックに片手を挙げる男のジャケットをしたCDケースがバーボンのビンの横に置いてあった。あたしはそれを手に取って、しばらく眺めた。その間に曲が変わったらしく、今度は穏やかな反復音がこだました。
ジャケットには「JAPAN」とロゴが入っている。ケースの横を見ると、「QUIET LIFE」と記されている。そこまで確認したところで、また憂鬱な歌声が入ってきた。でも、今度の歌はどこかトーンが明るい。サックスの音色なんかも入っていて、さっきの曲とはまるで違う。
あたしは、歌を知らない。
だから少し、この歌に耳を傾けてみることにした。
悪くない。
穏やかなホワホワした音がゆるく続いて、ぼんやりとしたヴォーカルが被さる。プレイヤーの表示を見ると、この曲はアルバムの六曲目らしい。ブックレットをケースから引っ張り出し、曲名を確認する。「オール・トゥモロウズ・パーティズ」という曲らしかった。あしたのパーティー、あたしは呟いてみた。悪くない、と思う。これがあたしの歌への目醒めになるのかな、なんて思いながら、その曲を聴いていた。しかし曲は終わってしまい、退屈な次の曲、「異邦人」という曲に変わってしまった。あたしはもう一度、「オール・トゥモロウズ・パーティズ」をかけた。これがどんな曲で、誰が作ったものかも知らない。でも、悪くない。音楽知識のないあたしには偉そうな誉め方はできないけど、悪くない、と思う。ナヨナヨしたヴォーカルも心地好く耳に入ってくるようになった。
あたしはぎこちないながらも、その歌をうたってみることにした。ねちっこい憂鬱なヴォーカルに合わせてだから難儀だったけど、次第に自分がうたえてくるのが解った。何度もリピートした。悪くない、とあたしは思った。こんなふうにうたえるのって、悪くない。歌詞の意味も解らないけど、この歌は悪くない。
あたしは陽気な気分になって、躰がリズムをとっているのに気付いた。こんな気分は初めてだ。じんわりと、躰のなかが暖まってくる感覚。これも悪くない。寧ろ、躰にぴったりの箱をあてがわれたかのような居心地のよさを感じる。
うたえるのって、悪くない。
あたしは、きのうの夜に遭遇した、あたしのことを「お姉さん」と呼んだ弾き語りを思い出した。彼は歌をガナっていたけど、こうしたソフトな歌を知らないのだろうか。そう考えると弾き語りのガナり声が哀しいものに思えてきた。歌を知らないってこんなに淋しいことなのか、あたしはベッドの上で膝を抱えながら、うたうのをやめて曲を聴き入った。
次第に、躰が重くなる。
あたしがあたしである時が、また終わろうとしている。短い覚醒だった。次はいつ目醒めるのだろう、と思いながら、あたしは手にしていたブックレットをテーブルの上に置いた。
「オール・トゥモロウズ・パーティズ」のゆるやかな旋律が、再び意識を閉じていくあたしを包んでいた。
悪い夢を見ていた。
悪魔によっておれの躰がふたつに切り裂かれ、それぞれに意志を持ってしまう夢。片方は鬱屈な男で、もう片方は明るい女。その二体がいがみ合い、ひとつになれずに足掻く。やがて天使が現れ、左手に持ったたいまつの火を二体にともし、二体は燃やされて灰となる。天使は右手に持った剣の先を灰に突き刺し、灰はその剣に吸い込まれるようにして消えていく。天使の顔がクローズアップされ、醜く歪み、どろどろに溶けておれを切り裂いた悪魔に変わる。そして悪魔は叫ぶ。
「ふざけるな、おまえの思う通りにはさせないからな!」
そこで、目が醒めた。
服が、寝汗で僅かに濡れている。晩夏とはいえ、きょうは気温が高い。おれはまだ頭痛のする頭を揺らし、ゆっくりとベッドから降りた。
曲は、丁度最後の曲、「アザー・サイド・オブ・ライフ」になっている。ははは、これはちょっとした笑いごとだ! 何という皮肉で、相応しい目醒めだろう? 厭世観剥き出しの歌詞と暗い曲調とが、いまのおれにぴったりではないか!
おれはいつもの癖で、目醒めのひと口を楽しむためにバーボンを手に取った。しかしキャップを開けながら、CDケースから出した憶えのないブックレットがテーブルの上に置かれているのに気付いた。おれはまた、おれは呟く。おれはまた、夢遊病の虜になっちまっていたのか。
バーボンを口にする気分ではなくなり、キャップを閉め、テーブルの上に置く。おれは誰なんだ? 不意にそんな疑念が湧いた。眠っている間のおれは誰なんだ? いつも何をしているんだ?
耳の裏側あたりから、囁くような声がきこえた。
「あたしは恵」
「素敵な名前をありがとう。お陰であたしはあたしとしてやっていけそうだわ」
「『オール・トゥモロウズ・パーティズ』って、いい曲ね。気に入ったわ」
だがおれには、それはまるできこえなかった。
おれは気分直しに、やっぱりバーボンを呑むことにした。キャップを開けているうちにCDは再生が終わり、リピート機能が働いて冒頭の「クワイエット・ライフ」のディスコテックな旋律が始まっていた。ビンをぐいと持ち上げ、喇叭呑みする。熱い鉄の塊を呑み込んでいる気分だった。
おれはおれだ、
他の誰でもない、おれはバーボンのビンをテーブルに置き、煙草を探した。
脳裏に微かに、また声がきこえてきた。
「ふざけるな、おまえの思う通りにはさせないからな」
しかしおれは、それを無視して煙草を探した。
(了)