『3RD』

Soft Machine
“THIRD”
[2004年08月09日(月)]早朝
「消えてなくなりたい」
職を失い
音楽の道を失い
文学の道にも挫折し
大切な人の信頼を失い
大切な友を失い
酒に溺れ
鬱に冒され
薬に塗れ
中傷され
否定され
生きるあてもなく
死ぬ勇気もなく
ただ生きている現在
ああ、いっそ
消えてなくなりたい。
……そんなくだらない詩を吟じたところで、おれは、死ぬしかないと思った。
くだらない原因で職を失い、大学出身のプライドが邪魔をしてアルバイトもできない毎日。酒に溺れ、鬱病に冒され、処方される薬は次第に増えていく。一時期の生業としていた音楽業界の仕事の口もなくなり、大学の頃に志した文学の道も花と散り、持てる文章力が衰退していく一方。睡眠薬の過剰摂取による健忘と夢遊病から、大切な友人に心ない電話をかけてしまい、信頼も失った。インターネット上では、おれを否定や中傷する者が少なからずいる。リストカットした両手の傷はどれも浅く、再び睡眠薬に溺れるのも恐れている。死ぬほどの勇気はなく、しかし絶望するほど生きていない。
窓の外からは学生の喧騒や社会人のカラオケが聞こえる時間帯。おれはそのアルバムを久し振りに聴いた。ソフト・マシーンによるジャズ・ロック史上の名作『サード』を。こんなにも音楽というものが豊穣であることを、おれは忘れようとしていた。窓の外が薄紫になっていく。おれは部屋の灯かりを消した。伸びやかなベースとファズのかかったオルガンが音楽をリードしていく。正確なドラミングとフリーキーなサックスがそれに被さる。その表情は実に豊かで、感情や意味というものが音に備わっているとするならば、生命の誕生も死滅もそのあいだも、その音楽には詰まっていた。
外の喧騒が、静まった。時刻は、完全に夜から朝になった。青い光が部屋に満ちていたので、嫌になっておれはカーテンを閉めた。おれは漆黒の中に埋もれていたい。というより、おれには光を浴びる資格などない。大切な友を失った哀しみは、歩む道を間違えた捻挫は、無情にも連ねられる罵倒は、おれから、光を受ける資格というものを奪ってしまう。おまえは所詮一介の道化師、そう思ってみたところで、この道化は踊ることさえできない。
すべてが、否定の方向に向かって動いていた。おれの存在を、おれの価値を、おれの意味をすべてが否定していた。唯一『サード』だけは、おれに関係なく実り豊かな旋律を聴かせてくれている。おれは憧れた、音楽という表現手段を持つ人間達に。文学は、志すには門が狭過ぎる。音楽は、評論するには若過ぎる。ヒュー・ホッパーのベースはなぜもこう、伸びやかで魅惑的なのだ? マイク・ラトリッジのオルガンはなぜもこう、幻惑的で高尚なのだ? エルトン・ディーンのサックスはなぜもこう、おれのこころを掻き立てるのだ? ロバート・ワイアットのドラムはなぜもこう、体内に鼓動を宿してくれるのだ? その奇跡の集合体を、おれは羨んだ。
そこへ聴こえてきたのは、ワイアットが歌う「八月の月」だった。
幻想的なオルガン、正確なリズム・ワーク、ヴォーカル・ラインを強調するベース、すべてが完璧だった。まるで夢遊病者のおれのように響くワイアットの浮遊感ある歌声は、おれを見事に幻惑する。まるで「おれが此処に居ても仕方がない」ということを如実に語っているような演奏だった。おれはまた、左手に一本の傷を走らせる。深く切ってしまったそこからは白い脂肪分が溢れ出て、酒に肥ったおれの醜さを露呈させていた。
この文章を打っているのは、誰なのだろう?
おれか? ああ、おれだ。しかしその認識が、まるでない。自殺寸前の感情とは、このようなものだろうか。おれは首を吊って死んだ親戚を思い出した。親戚は、おれの家に車を停め、近くの電柱で首を吊った。涎糞尿にまみれたその死体を、おれは見てしまった。目は白く剥き、舌は顎の下まで伸びている。あれからだ、おれが自殺という行動を意識し始めたのは。窓の外はすっかり白んでいた。
最初に自殺未遂をしたのは、いじめに遭っていた小学校の頃だった。高い場所から飛び降りれば死ねると思い、近所のアパートの三階から飛び降りた。しかし茂みに身を落とし、おれは親にも気付かれない程度の軽症で生きてしまった。次に自殺未遂をしたのは、大学生のことだった。図書館から恰好付けで借りてきた、ニイチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を読み、「超人」の項を読んでおれは死ぬしかない、と思った。おれは生きていても超人には成れない、だからおれは死ぬまでのあいだしか生きる価値を与えられていないのだ。そしてその価値は、誰にとってもまるで無い。おれにとってもまるで無い。おれは右手に肉切り包丁を走らせた。しかし骨が見えただけで、訪問してきた友人にそれを止められた。そのおれの友人とは、或る女だった。
その女のことは、今でも愛している。おれの「愛」とは、即ち、「相手のために死んでも構わない」というものだ。
これであれば、兄弟愛も人類愛も定義できる。それはおれが生きているあいだに、唯一、見出せた「生悟り」だった。最も不足しているからこそ、得てしまった真実。それがおれにとっての「愛」だった。それを感じられたのは、おれの一生のなかで三人の女、あと、たったひとりの男だけだった。
ワイアットの詠唱じみた歌が終わり、演奏は、ホッパー作曲のミニマルなものに変わっている。だがおれはそれも、嫌いじゃない。寧ろ好きだ……好き? 「好き」とは「何のこと」だ? 単純な「感情の推移」を話してどうする。これは「遺書」なのだぞ。はは! 「遺書」さ。そうさ。これは「遺書」なのさ。おれから、おれに捧げる「遺書」なのさ! 或る阿呆が一生を送り、しかし中座したことへのレクイエム、自己文学、自己音楽、自己批判、自己否定、自己肯定、そして自己満足。そのための「遺書」であるのさ!
音楽は、静かなピアノに変わっている。ああ! 何とむごたらしいおれなのだろう! 自意識過剰の自己愛者、それこそがおれだ。おれは誰にも愛されない代わりに、誰かを愛し続けた。そして自分を愛した。しかし今や、おれは誰もおれ自身も愛せなくなっている。サックスとオルガン、ベースの絡みが、再び耳にきこえてきた。おれは誰かを愛する振りをして、常に自分だけを愛してきたのだ! おまえだってそうだろう? 誰かを愛することで、自分を慈しんでいるのではないか。愛とは欺瞞だ。完璧な愛など存在しない。結局は、自己肯定と自己否定のあいだで突然変異した産物だ。馬鹿馬鹿しい。おれは愛など語れやしない。おれ自身が愛を知った振りをして、知ろうととなかったのだから、当然のことだ。
親戚のデス・マスクが、唐突なまで鮮烈によみがえる。ああおれは、数時間後にはああした顔をしているのか。親愛なるデス・マスク。滅びゆく時代へのレクイエム。目指したものはユートピアではなくデストピア。探し物は血に染まった自分の腕。純然たる苦しみ。執拗なまでの退廃的悦楽感。ボオドレエル、ヴォルテエル、ショオペンハウア、自己に溺れた者達よ。
演奏が終わった。
おれは繰り返して聴く余裕など無く、オーディオの電源を落とした。
これがおれのレクイエム。
おれはおれをおれの手で殺めるべく、肉切り包丁を打ち落とした。左手の甲から先がずだりと「剥がれ落ち」、皮一枚を残しておれの左掌は無くなった。驚くほど、血は出ない。まるで「血流が其処で止まって居るかのように」骨と肉と皮と血が見える。飽き足らず、おれは左肩にも包丁を走らせた。比べものにもならない鮮血がほとばしり、おれの部屋にあるゴダアルの『気狂いピエロ』のポスターを赤に染めた。肩から落ちた左腕は、ごとりと大袈裟な音を立ててベッドから落ちる。左手を動かそうとする感覚は未だに残り、既に存在していない左手が、なぜか動いている気がする。左手で右手の包丁を持とうとした。しかし、おれに左手は無かった。包丁は足もとに転げ落ち、おれの右足に少しの傷を作ってベッドから転げ落ち、皮肉にも切断された左手の上に刺さった。そのさまを、おれは笑った。可笑しかった。なぜか、可笑しかった。自分に酔って自分の左手を切断した自分を、おれを、おれは馬鹿だと思った。すべてはおれの自我肥大からの産物だった。おれの肥大した自我は愛だ哲学だと唱えつつ、結局は自分の左腕を切断することになったのだ。皮肉な結果であり、当然のことでもあった。自分を愛するがゆえに、自分を殺めることになった。いや、死にはしない。おれはこれからも生きていくのだろう。左手を失った哀れな人間として、これからも生きていくのだろう。それに同情する奴など、誰も居ない。おれが愛した人間達も、おれの醜い姿を見ればおれから呆れて離れていくだろう。いいことだ! おれに期待する方が間違っている。おれは見ての通り、醜い人間だ。おれのたましいは腐っている。おれにこころは存在しない。おれはそう育ってしまった。いや、そんなつもりはない。しかし、確実におれのなかにそうした部分が存る。おれのなかに、まるで別人格かのように別のおれが存在して居る。それが誰なのかは解らない。しかし、おれであることには違いない。おれがおれの腕を切り落とした、おれ自身であるということは。
それからおれは、病院に搬送された。
アルコールと睡眠薬の過剰摂取、さらには、医師にはまずバレないようにしているが(此処の詳細は確証と成るから書くべきではないな)、スピード。それらが折り重なった異常な嘔吐感が、隣室の住人に救急車を呼ばせた。幸か不幸か、夏場なので入口を開け放しておいたため、それが隣室の住人に発覚した。幸いなことに、スピードは丁度使い切り、消化された頃のことだった。そのためおれを診断した医師は、鬱病とノイローゼとアルコール中毒と睡眠薬過剰摂取と自殺逃避願望の権化という、素晴らしい診断結果をくれた。成る程、其処に薬物依存は見付からなかったのだな。医師がその判断を見逃したことに、おれは感謝した。
おれは現実には切り落としはしなかったものの、左手に肉切り包丁で多くの傷を作ってしまったため、一時的に入院させられている。寧ろ、ノイローゼの方が重要なのだろう。精神科医が一日に三度も訪れてきた。その搬送先の病院で、おれはこの文章を入力している。ノートPCを持っていたのが幸いだった。こうして書き改めていると、まるでつい数分前のことのように、自分の文章に酔って反芻される。
おれは確かに、左手を切った。
しかしおれの左手は、切れなかった。
不意に脳裏に、おれを戒める声が、きこえた。
「いい加減に気付いてよ」
「あたしは、あなたなのよ。あなたは、あたしなの。あなたのなかに居るのは、あなただけじゃないの。あたしも居るのよ」
「いつまでもあたしを否定しているといいわ。でもね、あたしはまたあなたが浅い眠りにやられた時、出てくるからね。あなたの築き上げた交流をずたずたにしてあげる。そうでもしないと、あたしは、あたしじゃなくなるのよ。あなたが音楽も文学も書けない今、あなたがあなたじゃなくなって居るように」
「あたしは、あなたのなかに居るあなたを否定する存在。何とでも呼んで頂戴」
おれは彼女を、
そう、きっと「彼女」だろう、
おれのもうひとりのおれを、「恵」と名付けた。
(続)