『y(最後の警告)』

The Pop Group
“y”


「爪は、お風呂あがりに切るといいのよ」
 と、その女は言った。
 女は、いわゆる職場恋愛の相手で、それは俺の部屋での発言だった。免許取り立ての新人薬剤師だった俺は、配属された病院でよく薬を取りにくる彼女と恋愛関係に発展した。そうして付き合って間もなく、その発言を聞いたのだ。
 俺は反論した。爪をあらかじめ切っておいて、風呂に入って研磨するんじゃないか、という言葉でもって。しかしそれは俺の中の常識であって、彼女の常識はまるで逆だった。
「何を言うのよ。お風呂に入ると爪が柔らかくなるでしょ? だから切りやすくなるのよ」
 それを聞いて俺は、爪はパキパキ音を立てて切るものだ、などと反論を続けた。そんなことは個人の習慣の違いであって、別に重要なことなんかじゃない。しかし、その日の俺はやたらと彼女に食ってかかった。
 彼女が、俺じゃない誰かと、付き合っていることを知ったからだ。
 それを隠したまま、彼女は俺に爪の切り方を説いた。俺はそれにことごとく反駁した。その末に俺は彼女の恋愛沙汰を問い質し、暴いた。彼女は、やけにあっさりと俺から身を引いた。
 部屋から出て行く際に、彼女はもう一度言った。
「それでも私は、お風呂に入ってから爪を切るのよ」
 それが彼女の、俺への最後の言葉となった。
 翌日、彼女は妊娠を理由に退職した。俺はその事実を知らされていなかった。

 そんなことがあってから、俺はずっと、自分の爪に注意を向けている。もともと薬剤師という仕事柄、清潔にする必要がある。だからこそ爪もこまめに切るし、ましてや、爪垢などもってのほかだ。
 爪を切る度に、彼女の言葉が思い出される。
 あれから俺は、職場である病院の友人などによく訊いたものだ。爪を切るのは風呂に入る前か後か、と。返ってくるのは「前」というものばかりで、俺は自分の習慣の正当性を誇った。と同時に、彼女と別れたことが正解であり、俺こそが正しいと自分に思い込ませていた。
 しかし、それでも薬を取りにくる看護婦にひとり「後」がいた。
 だが俺はそいつに反駁するどころか、なぜか安心を覚え、奇妙なことに初対面であるのに交際を申し込んでいた。結果は惨々たるもので、気味悪がられたうえに浮気性だの軟派だのと陰口をたたかれることになった。
 それから俺は、無口になった。
 だが、それでも、俺の薬指には指輪が嵌まっている。爪の女――俺は別れた彼女をそう呼んでいた――に誕生日プレゼントとしてもらった指輪が。俺はそれを、恋人としての証ではなく、ただの装身具として嵌め続けていた。他の指に移さないのは、単純に薬指にしか嵌まらないからだ。それも右手では微妙に節の大きさが違い、抜くのにかなりの手間を必要とする。それだけの理由である筈だ。
 俺はふと、その指輪を眺めた。
 何の装飾もない、銀の指輪。俺の名前が彫られただけの、まるで鉛のような無骨な指輪。
 その指輪に関しても、噂が撒かれた。俺が爪の女に未だ未練を持っているだとか、ストーカーまがいの行為をしているだとか、最近産まれたという爪の女の息子の命を狙っているだとか……俺はそういった噂のすべてを聞き流し、また、肯定も否定もしなかった。
 この方が、楽だからだ。
 そういう噂がある限り、俺はあんな思いをしなくて済む。
 俺は人気を避けるようになっていた。職場から帰れば、ひとりで部屋に閉じこもっている。爪の女が好きだったランキング狙いのポップ音楽も聴かなくなり、寧ろ、一聴しただけでは解らないようなひねくれた音楽を好むようになった。気味の悪い音や、解りにくいリズムや、歌詞や歌を好むようになった。
 そういう音楽を聴きながら、俺は、じっと左手の薬指を眺めている。正確に言えば、その爪を眺めている。
 俺はその爪だけ、意図的に切っていない。今や五センチほどの長さに伸びてしまったが、薬指など日常では使う機会も少ないため、別段不便はしていない。しかしどこへ行っても、それを知られると奇妙な視線を浴びせられる。だがその視線にも慣れた。そういった視線を投げかける連中は、俺のことを知らないから奇妙な目付きをするだけだ。俺のことをきちんと知ってさえいれば、そんなこともない。
 俺のその爪は、試練の証だった。
 確かに、噂にあるように、俺は爪の女のことが忘れられない。未練がある。今まで付き合ってきた女の中で、最もセックスの相性が良かったからだ。性格の不一致など関係ない。さらに俺には、何かしかの動作を薬指で行う癖があった。エレベーターのスイッチ押下から、女性器の刺激まで。
 俺はその癖を、捨てたかった。
 なぜなら、その癖は爪の女を思い出させるからだ。俺の薬指は、爪の女の中を何度も掻き回していた。乾き、洗い流し、完全浄化された今でも、その指先に爪の女のぬくもりが残っている気さえする。あの柔らかく包み込むような、やさしい刺激が――俺は、爪を伸ばすことで左手の薬指を使うことは少なくなり、癖も消え、爪の女のことも忘れられると思ったのだ。
 だから指輪は、外すのが億劫でもある。いちいち伸びた爪に気を使いながら外すのも馬鹿げている。きっと指輪の下には垢が堆積していることだろう。だが、その指を使わなければ仕事にも関係ない。爪の伸びた薬剤師など見たことはないが、業務に支障はきたさないので、医師も婦長も別に文句は言ってこない。言ってくれば、その爪を伸ばしている理由をいちいち述べてやるつもりだ。しかしそれ以前に、気味悪がられて何も言われないのも事実だ。
 そんなことを考えながら、俺はヘロインをこぼしそうになった。
 俺の調合ひとつで、患者は命を保っている。その配合を意図的に間違えてやれば、それなりの結果を生むだろう。もし爪の女が入院でもすれば、俺は痛み止めのヘロインを倍ぐらい投与してやるつもりだった。だが爪の女は、出産さえも別の病院で済ませた。二度と会うこともないのだろう。
 それでも俺は、爪を切らなかった。

 ある日の俺は、爪の女を見た。
 いや、ひょっとすると、違う女かも知れない。どこかしか影のようなものを感じていた彼女とは余りにもイメージが違い、表情が明るかったからだ。彼女は似合いもしない爽やかな水色のシャツを着て、ベビーカーを押していた。そこには間違いなく生まれて長くない乳幼児が寝かされており、静かに眠っていた。彼女の顔は、余りにも爪の女にも似ていた。左耳の耳たぶにほくろがあるのも同じで、爪も綺麗に磨かれていた。
 だからこそ俺は、彼女の後を追った。
 彼女は俺に気付かず、ゆっくりとベビーカーを押していた。時折口ずさむ鼻歌は、最近人気のフォーク・デュオの新曲を歌っている。追っていれば夢は叶う、そんなくだらない歌だった。俺が爪の女に抱いている未練ほどに、くだらない内容のものだった。
 一度経由した公園で、彼女は近所の主婦と軽口を叩き合った。そうなのようちの主人帰りが遅いからちょっと心配で、そんなの新婚だから気になるのようちなんていつも朝帰りよ、でもおたくは出張続きだし仕方ないんじゃないの、それが出張ってのも怪しいのよね外に女でもいるんじゃないかしら、ああそれって一番心配ですよね、でもうちに限ってそれはないわだって主人はそんな器用じゃないものそれにあなた新婚だから浮気の心配なんてないわよ今が一番楽しい時でしょう、ええ毎日が楽しくってこの子の世話に悩まされることもありますけど、そんなの最初だけよ学校に入れば自分で何でもできるようになるから気楽なものよ、そうですね早く大きくなってほしいなぁ、でも小さい頃の方が可愛いものよ今は反発ばっかりしちゃってほほほほほ、ほほほほほ、ほほほほほ、ほほほほほ……俺はそんな実のない会話を、少し離れたベンチで一服しながら聞いていた。眩しい陽光と俺の視線は、鏡面になった黒いサングラスが守ってくれていた。
 会話を済ませると、彼女はまたベビーカーを押し続けた。俺もその後を追い続け、やがて新興住宅地の一角に辿り着いた。それぞれの家屋にゴミ捨て場が完備された、最近新聞でも取り上げられた「クリーン住宅計画」と題された人口楽園だ。
 その玄関口に消える彼女は、左手でドアを開けた。左利きであることまでも爪の女と同じだった。彼女が消えてから、俺は玄関の塀に張り付いた表札を見た――「中澤」――家族の名前などは印字されていない。その苗字が刻印されただけのシンプルなものだ。俺はその刹那、中澤という苗字を憎んだ。憎む意味がないことも知っていたが、隣りに中澤という人間がいれば、息の根を止めたいほど憎んだ。
 俺は周囲に人の気配がないことを知って、玄関の前に立った。
 そこには小さな覗き窓があり、訪問者の姿を見ることができる。新聞勧誘員の姿があれば、居留守を決め込むなど容易にできるものだ。俺はほぼ無意識に、ドアの脇に据えられたライオンを象ったインターフォン、その口に据えられたボタンを押した。凝ったスイッチに対してよくある呼び出し音が響き、俺は身を凍らせた。
 何を、やっているんだ。
 しかし俺は、動けなかった。彼女に会いたい一心と、会いたくない一心が互いに反抗し合っていた。その葛藤の末に肉体が選択した行動は、停止。そのまま、明らかに覗き窓から臨める場所に、立ち尽くすこと。
 覗き窓が、曇った。
 これは玄関の向こうにいる相手が、窓を覗き込んでいることを示す。それでも俺は、微動だにしなかった。それどころか顔の筋肉は微塵も動こうとせず、無表情を取り繕った。寧ろ、どの感情を表に出していいのかが解らなかった。
 一刹那の硬直、
 それは、覗き窓の向こうの影が消えることで解かれた。彼女は明らかに、覗き窓から俺を窺った筈であるのに、返ってきたのは無反応という反応だった。俺の中で疑念が確信に変わっていた。と同時に、その確信が俺にとってもはや無意味であることも解っていた。
 俺は玄関から離れ、その脇に小さく設けられたゴミ捨て場を眺めやった。そこには無防備に、家庭のゴミが袋に詰められて置かれている。俺はその縛り口を開けていた。なぜ自分がそうするのかも解らなかった。中は紙ゴミ、それもご丁寧にシュレッダーにかけられ裁断された紙クズばかりで詰められていたが、その奥に小さなビニール袋を見付けた。開けてみると、そこには使用済みで凝固したタンポンが三本入っていた。もう生理が来てやがるんだな、俺はその一本を手に取り、眺めやった。もはや血液とは思えない、黒に近い茶色をした細長い物体。触ってみると、それは枯れ枝のように硬く、同時に、少し柔らかかった。持ち帰りたい念に駆られたが、瞬時に俺の中で潮が引いていくように興味が失せ、袋に戻した。
 しかし、左手の薬指、その長い爪には凝固した血液の一片が剥がれたペンキのように張り付いていた。それを口に含みたいと思うと同時に、振り払い、俺はその場を後にした。
 ゴミ袋の口は開いたままだった。

 だが時というものは残酷で、少しすれば爪の女のことも俺の中では大した負債にはならなくなっていた。もはや俺が爪を伸ばしている理由は、癖の抹消という理由にだけ活かされることになった。
 そうしているうちに爪は十センチほどに伸び、それを保つのは俺の中でも苦痛となった。しかしそういう意味もない場合にこそ意固地が働くもので、俺は未だにそれを放っていた。様々の行動を薬指で行う癖も消え、今は中指が主流となっていた。
 そんなある日、風呂に入っている時、俺は剃刀を滑らせ、長い爪を切った。
 十センチもあった爪は半分ほどに切れてしまい、剃刀を洗うために洗面器に溜めておいた湯にその残骸が浮かんでいた。俺はその刹那、指に嵌まった指輪の方を心配していた。まさか傷が付いていないだろうな、削っていないだろうな、ましてや俺の名前が消えていないだろうな……だがそれは余計な心配であり、損害は俺の爪だけだった。俺は早々に風呂を出て、いい加減、その爪を切ることにした。
 爪切りを走らせ、俺は、その柔らかい感覚に違和感を感じた。
 乾いた爪を切るのと違い、果物の皮を切るようにあっさりと剥ける感覚。女の乳首を甘く噛むのにも似た感覚。爪の女の乳首にも似た感覚……。
 俺は、唐突に、虚無に襲われた。
 自ら意味を重ねていた爪。それを失った虚無。と同時に、今さらながら、爪の女を失った虚無。
 俺は虚無感に包まれながら、その爪を切った。それもミリ単位で、感覚を確かめるように少しずつ。その動作は長いこと続き、爪切りを押す度に、爪の女の顔が脳裏に浮かび上がった。そして切る度に、同時に、それは消えていった。
 途端に、指輪の意味が崩壊した。
 俺は指輪をつまみ、引き抜いた。そこには蓄積された垢がこびり付き、皮膚の色をどす黒く変色させていた。俺は知らない内に、修復不可能な無駄なものを溜め込んでいたことに気付いた。
「こんな物に、何の意味がある」
 俺は窓を開け、自分の名前が刻印された銀の指輪を捨てた。指輪は夜景にゆるく銀色の弧を描き、落下した。その背後に、ただ音楽だけが、鳴り響いていた。
 ポップ・グループのファースト・アルバム。
 俺はその演奏を止め、CDを取り出し、盤面に描かれたコラージュされた男の顔を眺めた。間抜けな表情だ、そう呟いて、そのCDをゴミ箱に投げ入れた。
 しかし耳には、ずっと音がこびり付いていた。左手の薬指に溜まった垢のように、しつこく、俺の耳には叫びにも似た声が鳴り響いていた。
“And we will not forget”
“And we will not forget”
 叫びはやがて自責となり、俺を苛んだ。
“All lovers betray”
“All lovers betray”
 しつこく繰り返される軽い気色悪い音が消えず、俺は、そのCDを取り戻した。
 そして盤面のコラージュ男を見詰め、
 長い間、くちづけた。

(了)