『ガウチョ』

Steely Dan
“GAUCHO”


 冴えない奴だ、自分でもそう思う。
 書類ひとつすら碌に書けないし、営業なんてやらせた日には、契約のひとつも取れやしない。叱られちゃあ忘れ、忘れちゃあ叱られる。そのうえ楽しみといえば、帰ってからの酒ぐらいだ。あとは音楽、それぐらいだ。
 どうして今の仕事をしているんだろう? そりゃあ大学の先生のコネで入ったからだ。それぐらいしか選択肢はなかったし、別に嫌でもなかった。自分の居場所さえどこか確保できれば、それで上等だと思っていた。
 なのに、印刷会社だもんな。どうしてここに入ったかなんて、まったくの愚問だ。大学の先生が美術の先生で、その先生が社長の先輩だった、それだけのことじゃないか。美術の先生だからこそ授業で目立っていた僕を推薦したんだろうし、何より、テストで試されるデザイン力があると見込まれたからだろう。いい広告が作れるんじゃないか、と期待して。
 だけどそれだったら、僕にデザインの仕事をさせてほしいんだ。基礎とか言って、広告やデザインに関係ない仕事ばかりやらされたら嫌になるよ。そもそも、デザイン力を買ったなら、どうして広報部じゃなくて営業部なんだ? 先生が僕を推薦した意図が解りかねるよ。
 営業部とは言っても、小さな会社だからね。広いフロアが区分けされていて、その部分部分に部門が分けられているだけだ。そんな大仰なことじゃない。いつだって広報部の連中に仕事を押し付けられるし、社長の姿も常に視界に入り込んでくる。社長も直接は言わないけど、僕のことを随分と恨めしく思っているだろうな。いや、恨めしいのは僕じゃなくて、彼の先輩である先生のことかな。本当はクビにしたくても、できないんだろう。先輩の力というのは強いみたいだからね。だからこそ僕も、コネで入ったからこそ、ずっと辞められずにいるわけだ。
 今も、社長がこっちを睨んでいる。僕が仕事してるかどうか、見張っているのだろう。僕は書類を書いている振りをしているけど、本当はいたずら書きをしているだけだ。欲しい物とか、今晩のおかずに必要な具材とか、そういうものをメモしているだけだ。だってコネだから、基礎知識がまったくないんだからね。なのにいきなり営業させられたって、何も身に着かないよ。
 考えることといえば、仕事と関係のないことばかり。帰ったら何を聴こうとか、あの画家の展覧会に行きたいな、だとか。そういえば電話代もまだ払ってなかったっけな。今日の帰りにでもコンビニに寄るとしよう。
 社長が席を立った。まずいまずい、メモをしまって、書類の上にペンを置いておくか。考えがまとまらないとか言えばいいだろう。どうせクビにはならないんだから……

 帰ったら帰ったで、急に何もやる気がなくなってしまう。どうしてだろうね? 会社ではいろいろと考えていたのに。安心して忘れる、というよりは、気が抜ける、といったところかな。
 煙草が、やけにまずい。そういえば最近、ずっとそう思っている。夕食だってそうだ。何でも「いい」と思ったことがこのところ、ずっとない。いつからだろう? 半年ぐらい前からだ。半年前といえば、僕が今の会社に入った頃だ。
 車内で唯一仲がいいと言える女の娘は、それがストレスによるものじゃないかって言っている。そんなこと、解ってるさ。仕事のことは考えちゃいないけど、辞めることは、半年前からずっと考え続けているからね。だけど仲がよくても、会社の人間には言えない。ただでさえ、コネだってことで疎まれているんだから。先輩面さげた連中が、僕のことを明らかに弄んでいることからもそれは解るよ。基礎のない人間に無理な仕事を与えて、失敗する様を見て楽しんでいるんだから。社長も社長だよ。それを止められるのは社長しかいないのに、僕にそういった仕事を与える承認の判子をいつでも押すんだから。
 この間の仕事も、酷かったな。日帰りで山梨に出張させられて、翌日は朝から出社だもんな。そのうえ出張の理由といったら、ぶどう園の写真を撮ってこい、というものだった。そのうえ、焼きあがった写真を見せたら、日付が入ってるから使い物にならない、と言われて写真はすぐにシュレッダーに直行した。それでまた、撮り直しの出張だ。締め切りが近いからって、そのすぐ翌日に。これを使え、と言ってカメラを渡したのは先輩なのに。あとはシャッターを押すだけだから、と言ってたのに。あげくの果てには、撮り直した写真も使われなかった。そのぶどう園の主が趣味で公開しているホームページの画像を、許可なしに使うことになったから。そうだ、僕がぶどう園に着いた時も「聞いてない」なんて怒られたっけな。てっきり、社長が主に話を通していると思ったのに。
 まったく、酷いものだ。
 音楽をかけても、楽しくなれない。何も、気分転換になるものがない。
 しょうがない、散歩でもしてくるか。だけど雨が降っているようだ。傘は折りたたみ傘しかないし、靴は革靴しかないし。でも、ずっと部屋に閉じこもっているよりはいいだろう。たまには雨だっていいものだ。少し肌寒くなってきたからな、春物のコートを出そう。秋だけど、似たようなものだ。花が咲くか、枯れるかだけの違いだ。別に構わないだろう。明日は休みなんだし、風邪ぐらい引いたって、どうせ寝るだけなんだからいいだろう。
 おっと、コーヒーを飲み忘れていた。猫舌だからって、放っておき過ぎだよ。すっかり冷めて、水で溶かしたようになってしまった。まあいいさ、胃に入れば何だって一緒なんだから。今度は忘れ物はないな? よし、それじゃあ出かけるか。
 ああ、今度は玄関の鍵を持ってきてないや……

 この古本屋も、しばらく振りだな。この街に来た頃、それはつまり入社直後は、よく来たものだけど。半年のうちに、随分と様相が変わったものだ。今は古本屋なのか、中古CD屋なのか判ったものじゃない。でも、選択肢が増えた分、まだいいかな。
 本は、興味が失くなったな。学生の頃は毎日読んでいたのに、最近はテレビぐらいしか見ない。字といえば、会社の書類ぐらいだな。適当に悩んでいる振りをした報告書だとか、真っ白なのも気が引けて、でたらめを書いておいた営業報告だとか。きっと漢字も忘れているんだろう。今まで学んだものが、こうやって消えていくのは虚しいものだ。しょうがない、本はもういいや。CDを見て回ろう。
 邦楽ばっかりだな。それも、カラオケで大人気の。あ、これは最近有名なアイドルグループの新作か。もう中古で出ているのか。移り変わりが早いものだな。確かにみんな可愛いけど、それだけだもんな。歌を出すこと自体無理があるんだって。その隣りは、ここのところずっとランキング一位のバンドだ。昔は化粧とかしてたのに、今は男らしさを取り繕っちゃって。そういえば解散説も浮上している、なんてことをワイドショーで言っていたな。別にどうだっていいや。僕の明日が変わるわけじゃないもんな。
 洋楽でも見てみるか。ダンス音楽ばっかりだな。何でこんなものが流行るんだろう? 邦楽と一緒なのに、英語だから、という理由でもてはやされているんだよな。同僚が言ってたっけ。このグループの歌が歌えるようになった、って。そんなこと自慢になるんだろうか。だったら僕にビートルズでも歌わせてくれればいいのに。まあ、ダンス音楽じゃないと意味がないんだろうな。基準がよく解らないよ。
 おや? スティーリー・ダン? 見憶えのある名前だな。ああ、そうか、ユウキが好きだったバンドだ。学生の頃よく聴かされたっけな。そんなに強くなかった酒を呑まされて。お陰で今は、随分と強くなってしまった。それにしても安いものだな、どれも九百八十円か。ひとつ買ってみるかな。思い出混じりに聴いてみるのもいいだろう。
 どれにしようかな? ええっと、これは見たことがあるぞ。あいつが珍しく、レコードでも持っていたアルバムだ。ジャケットがいい、って言っていたっけな。プレイヤーも持っていないのに。よし、こいつにしよう。それにしても妙なタイトルだ。ガウチョ? 何だかガチョウみたいだな。面白いからこれにしようか。
 最近やけに金遣いが荒いようだな。昨日も確か、衝動買いでお香のセットなんか買ってしまった。お香も、ユウキは好きだったっけな。よし、それじゃ今夜は、お香を焚きながらこれを聴くか。明日の休みに備えて、夜更かしでもして……

 このお香、何の匂いだったっけな? まあいいや、焚いてみよう。ついでに一服しよう。いや、ちょっと待て。窓際で喫わなきゃいけない。管理人がうるさいからな。入居の際にも煙草を喫うか訊かれたものだ。その時はごくたまに、なんて嘘を吐いていたけど、本当は、大の煙草好きなんだから。でも、出かける前は忘れて部屋の中で喫っていたな。それじゃ構わないか。もう面倒だ、何だっていいよ。
 この匂いは……バニラだな。まったく、安物のお香なんて買うもんじゃないよ。ビンに詰められて、ラベルも何も貼ってない。これじゃ解らないけど、安かったからまあいいか。それに、この匂いは嫌いじゃないからね。
 そうだ、CDを買ってきたんだ。聴こう聴こう。このラジカセも音飛びが酷くなってきたから、ちゃんと再生されるか解らないけど。CDや本は平積みになっているし、フライパンは傷だらけだし、買わなきゃいけないものがたくさんある。でもいいか、金を使うことぐらいしか、どうせ余興になることはないんだから。
 あ、この曲やっぱり、聴いたことがあるぞ。思い出した、「バビロン・シスターズ」か。そうだそうだ、この曲のサビのところで、ユウキはいつもシェキッ、とか言って僕のことを指差したっけな。懐かしいな。あ、酒を呑もう。酒も昨日買った、焼酎がある筈だ。ユウキに教えられた安い焼酎が。何で割ろう? 冷蔵庫には何も入ってないし、かといって、雨の中コンビニや自販機まで歩くのも億劫だし。いいや、外を歩いて寒くなってきたから、お湯割りにでもしよう。その方が安くつくしね。あれ? ポットにお湯がない。しょうがない、沸騰させなきゃ。とりあえずは乾杯したいものだ。
 そんなことをしているうちに、次の曲になったようだ。これも聴いた憶えがある。何だったっけな? まあそのうち、サビに入れば解るかも知れない。新しいポットは調子がいいな。もうすぐ沸くみたいだ。あ、これはサビだな。そうかそうか、「ヘイ・ナインティーン」だ。共通の話題も碌にないユウキと、仲良くなったきっかけがこの曲だ。集団であいつの部屋に押しかけた時にこれがかかっていて、僕が誉めたんだ。それからだったっけな。よし、曲名が解ってすっきりしたところでお湯も沸いた。さて、焼酎でも呑みますか。つまみはないけど、構わないだろう。何といっても、どうせ明日は休みなんだから。
 空きっ腹に焼酎は効くものだな。胃に染み渡っているのがよく解る。感覚が鋭くなってるのかな。そういえばお香の匂いも、やけに心地好く感じる。何だか嬉しくなってきたな。おや? また次の曲になっていた。曲調がゆったりとしたものばかりだから、ちょっと聴いただけじゃ気付かないものだな。しかもこの曲は、憶えがないぞ。しょうがない、ブックレットでも広げてみるか。「グラマー・プロフェッション」? タイトルさえも聞いたことがないな。前の二曲は聴いた憶えがあるのに、どうしてだ? そうだ、ユウキはよくベスト・テープを作ってたっけ。スティーリー・ダンだけでもベスト選曲のカセットテープが何本もあって、そればっかり聴かされていたんだった。それにこの曲は入ってなかったんだろうな。そのテープのお陰で、あいつは音楽仲間のヒーローだった。選曲のセンスがいい、なんて言われてね。あれ? お香の匂いが消えているぞ? そうか、燃え尽きたんだ。それじゃもうひとつ焚くとしようか。この象の形のお香立ても、使い込めば使い込むほど匂いが染みて、お香のヤニも染みて、味が出るなんて店員さんが説明していたからな。
 つまみがなくても、酒というものは呑めるものだな。それも、やけにうまく感じられる。社長が言っていたな。酒はひとりで呑んでこそ味が解るものだ、なんて。社長の言葉で納得できるのは、それぐらいか。あとは会社を興した人間の薀蓄ばかりだったから。今の曲は何だろう? 「ガウチョ」? これがタイトル曲か。もう、どうでもよくなってきたな。早くも酒が効いてきたのか、何だか投げやりな気分になってきたよ。よし、この勢いで二杯目いこうか。お湯割りしかできないけど、やっぱり、胃に入れば一緒なんだから。おっと、焼酎の割り合いが多くなった。これも、まあいいだろう。わざわざ別のグラスに入れ直すのも面倒だ。呑んでみよう。くわあ、効くなあ。香りも強いよ。お香と混じって、何だかくらくらする匂いになってきた。そういえば今日、オフィスに見知らぬ女の娘がいたな。あの娘は誰だろう?
 こんなに酒が進むなんて、久し振りのことだ。いつもは考え込みながら呑んだりしているから、どうしても酒がまずくなるし、休み前でもないと、中途半端な量で止めなきゃいけないからね。今日は水みたいに入ってくる。「タイム・アウト・オブ・マインド」というこの曲みたいに。何だか微笑みたくなってきた。ひとりで酒を呑んで、昔を懐かしんで、微笑んでいるなんて奇妙な光景だけど。誰もいないんだから、いいだろう。
 次は? 「マイ・ライヴァル」か。昔を懐かしむには、いいタイトルだ。僕はいつでもユウキをライバル視していたっけ。ユウキの方が見てくれだって格好いいし、卒業後も、ちゃんと自分のやりたかったDJの仕事なんか選べてさ。それに比べて、僕なんか惨めなものだ。卒業寸前にあいつと喧嘩して、そのまま別れちゃってさ。会社のそばに引っ越したら、友人なんかできやしない。ああ、この曲を今、ユウキと一緒に聴きたかった。それで、おまえは僕のライヴァルだ、なんて言ってみたかった。普段はライバル、って言うけど、この曲を流しながら、ライヴァル、なんて言ってね。まあ今となっては、それは叶わないことなのかも知れないけど。地団太踏むぐらいしかできないのかな。それもユウキと解り合えないことと、ユウキに勝てないままでいることの両方に。
 結局僕とユウキは、まるで違う世界の人間だったのかな。話題なんか碌に合わなかったし、何もかもの好みも違っていたし。解り合えていたのが、ほんの一時の偶然だったのかも知れない。酒も入っているし、夢みたいな気分だ。ユウキと少しでも解り合えていたことが、やけに誇りに思えるよ。きっと僕が女だったら、あいつに恋していたんだろう。やけに曲が、染みるものだ。「サード・ワールド・マン」か。もう最後の曲なんだ。最初の二曲しか聴き憶えがなかったな。いろいろと思い出せるいいアルバムだと思えるけど、どうしてユウキは、僕にこのアルバムを聴かせなかったんだろう?
 そうか、
 CDが終わるように、僕らの関係もいつか終わる。それがユウキには、解っていたんだ。だからこそ、ユウキが思ういいところを取り上げたテープを聴かせてくれたんだ。自分を全部さらけ出したら、嫌な部分も見えて、仲が裂けてしまうから。そうして、ただの想い出になってしまうから。
 そんなことは、考え過ぎかな? いけない、随分酒が効いてきたみたいだ。明日はせっかくの休みだっていうのに、これじゃどこにも遊びに行けない。あれ? 休みだから寝ようと思っていたんだっけ。いや、やっぱり出かけることにしよう。天気予報じゃ明日は晴れると言っているし、公園のベンチでうたた寝でもしようか。買ったばかりのこのCDと、ポータブルプレイヤーを持って。煙草を忘れちゃいけない。酒を教えられる代わりに、僕がユウキに教えた煙草を。
 何だか、嬉しくなってきたぞ。そして楽しくなってきた。今なら、何だってできる気がする。社長が目の前にいれば退職願いだって出せるし、先輩に喧嘩を吹っかけることも、仲のいいあの娘に告白だってしてやれる。これだから酒はやめられない。ようし、何かしでかしてやるか。
 何をしよう?
 そうだ、あいつに電話でもしてみよう。もう半年経っているんだから、あいつだって熱が冷めているだろう。それに会社に入って、大人になっているだろう。あいつのことだから、僕のような子供じゃないあいつのことだから、気にするなよ、なんて言ってくれるかも知れない。そうして久し振りに会って、酒でも呑みながら、煙草を喫いながら、想い出話でもできるに違いない。何も怖がることはないんだ。もう振り出しに戻っているんだから、あとは上昇するだけだ。ようし、酔った勢いだ、やってしまおう。
 でもその前に、もう一杯だけ呑むとしよう。ひとりで乾杯だ!

(了)