『亜麻色の髪の乙女』

ザ・ヴィレッジ・シンガーズ
『亜麻色の髪の乙女』
森園は小学生になる寸前、慣れ親しんでいた埼玉の一件家から、新宿区の片隅にあるマンションに越した。勤務先であるコンピュータ会社が東京進出をはかって新設した新宿支店、その総務課長への抜擢と共に、転勤を命じられた父親のためであった。
幼稚園までに慣れ親しんできた友人すべてと離別せねばならないという悲しみを、森園はかたくなに拒否した。しかしそれは、ひとりでは生きていけない幼児のわがままに過ぎず、母親の度重なる説得と父親の説教によって懐柔・矯正され、森園はやがて、入学した小学校に慣れていった。まるで転校生と変わらない自分の立場にはじめは違和感を拭えず、母親に甘え泣きしたこともあったが、気が付けば友人ができていた。
マンションの部屋についても、同様だった。かつての家屋に住んでいた頃、よく膝をぶつけて泣いた柱の角や、その枝を折って怒られてばかりだった、庭にあった梅の樹の代わりに、森園はスマートな印象のあるフローリングの床や、インターフォンといった、洗練されたものにシンパシィを抱いていった。合計四部屋から、父母の寝室、リビング、キッチンを兼用したダイニングの三部屋を引き、残ったもうひと部屋は母が使うとの予定を変更、森園の部屋として与えられた。彼は、自分が支配者となれるその空間をすぐに愛し始めた。
そして、そこに設置された大きな窓から見える風景を最も愛していた。
窓の向こうにあるのは、森園が住む機能性を重視したマンションとは対称的に、瀟洒で、有機質な高級マンションだった。ノスタルジックなレンガ風の造りを基調とし、そこから見える窓の殆どには観葉植物や花によって飾られている。こと彼の目を引いたのは、黄色い花瓶に一輪の薔薇が活けられた、自分の視界からやや斜め左下に位置する窓だった。
純白の、レースのカーテンが開かれたその奥では、誰かが毛並のいい猫と遊んでいる。森園は引っ越しにあたって近所に引き取られた雑種の猫を思い出した。茶色の縞模様だったため、トラと名付けて可愛がっていたその猫は、引き取られてすぐに新居から逃げ、やがて轢死体として発見されたという。両親は彼を悲しませまいと黙っていたが、彼は何とはなしに、トラの死を理解していた。
森園が唐突に湧いた悲しみからひそめた眉が、次の刹那には、見開かれた眼球に吊り上げられていた。
猫と遊んでいたのは、赤いリボンで長い髪を束ねた少女だった。
少女は猫を抱きかかえては逃げられ、笑いながらそれを追う。また抱きかかえては逃げられ、白いドレスの裾をつまんで走り出す。それをしばらく繰り返した後、少女はしばし姿を消した。森園の眉を強張らせる緊張が緩んだ頃、再び窓際に軽い足取りを運んだ彼女は、左手に青い花瓶を持っていた。彼女は不器用な手付きで黄色い花瓶から薔薇を引き抜き、新しい青い瓶に挿した。父親らしき人物の逞しい右手だけが現れ、彼女は黄色い瓶を渡した。そして新たな地を得た薔薇に、何ごとかを話しかけていた。やがて少女の口唇は語り口調の動作から、一定のリズムとパターンに則った開閉を繰り返した。どうやら歌い始めたようだ。
その様子を、森園はずっと見ていた。僅かに目を開けたまま、硬直したように動かない。いや、動かないのではなく、動けなかった。甚大な握力を有した誰かに頭部をしっかりと固定されているようで、自分の意志というものはそこに存在しなかった。
そこへ少女が、太陽の光を浴びるように頭部を少しばかり傾けさえすれば、視線がかち合うのは当然である。森園はずっと、その偶然を期待していた。
そしてそれは、真実となった。
森園から発せられた不可視の糸、そのもう一端を担う少女の汚れなき瞳に、森園は全身を震わせての動揺を現した。ちょうど一年前、誰でも一度は罹るという熱病に冒された時のようだった。頭頂から虚空へ霧の如く拡散する意識。血管を破裂させんばかりに弾ける血液。それらを司り、いたずらに森園の心を狂わせる心臓。それらがすべて、彼に恋という永遠の病を与えた。
少女が、微笑んだ。
森園は陽光を浴びたその輝かしき微笑みに、同等の返事を与える余裕がなかった。ただひたすらに動揺し、興奮状態にあった彼は、少女の目に届かぬどこかに隠れたい気分だった。彼は走った。父母が歓談する声が聞こえるリビングに、逃げるように走った。
そこでは、父が古臭いレコードプレイヤーの埃を拭き落としていた。母が待ち遠しそうに、胸に抱えた一枚のEP盤を見詰めている。ふたりは森園が部屋に走り入ってきたのを軽くあしらい、その作業を続けた。
プレイヤーをひと通り拭き終わると、父は母からレコードを受け取った。その間、ふたりは今までに見せたことのない、穏やかな笑みを見せていた。森園は二人がけの長いソファの中央に座り、何事が起きるのかと期待した。瞬きをするとさきほどの少女の残像が現れるので、目は見開いたままだった。
やがて回転するレコードから、落ち着いた弦の音が聞こえてきた。
亜麻色の長い髪を 風がやさしくつつむ
乙女は胸に白い 花束を
両親が、森園を挟んでソファに腰かけた。彼の頭越しにふたりは、昔を懐かしむようにして学生時代の話をする。森園はその声で歌を聞き逃すまいと、意識を集中させた。
薔薇色のほほえみ 青い空
しあわせなふたりは よりそう
森園は歌に出てくる亜麻色という色が解らなかったが、きっとあの娘のお母さんも亜麻色の長い髪なんだろう、そしてクッキーなんかを焼いてくれるのだろう、と夢想していた。
目を閉じて歌に聞き惚れる森園に、両親はあたたかい微笑みを注いでいた。きっとそうに違いない、森園は目を開け、自分によく似た母を見て、確信した。
彼女は毎日、ある程度決まった時間に姿を現し、窓際の薔薇の水替えや世話を済ませていた。その後は晴れていれば必ず窓から顔を出し、風にあたる。森園は毎日、彼女がその瞬間に見せる幸福そうな表情を見詰めていた。時折視線が合っては徴笑む彼女に、森園は二回に一度ぐらいの割合でそれに強張った引きつり笑みを返していたが、その後も、微笑みを返せなかった時も、彼女から発せられる親密な視線を拒むように窓から頭を引っ込めた。そして下から森園を見上げる形になる彼女の、その視界に至らないぎりぎりの場所から、続けて被女を見詰め続けた。
やがてふたりは、曖昧に思春期と呼ばれる時期に入っていた。それまでの間に森園は兄と呼ばれるようになり、その弟とされる幼児が、言語を容易に操るまでになった。
その頃でも、彼女は決まって窓から顔を出した。少し変わったのは、しばし風にあたった後、窓際に木製の折りたたみ椅子を運んできて、紅茶を飲みながらの読書に耽るのが増えたことだった。彼女の持つ本は時折数学の参考書となり、つまらない表情を浮かべることもあったが、殆どの場合は文庫本だった。なめし皮のカバーにきちんと包まれているのに、粗末な紙製の栞を使っている。何を読んでいるのかは判らなかったが、森園はそのたたずまいから、フランス文学やドイツ詩人の詩集であることを望んでいた。
さらに変わったことには、彼女は、上空を仰ぐようにして眺めていたその動作をやめた。つまり、森園に向かって微笑むことが皆無となっていたのだ。偶発的に視線が合うと、彼女は別のもの、壁か何かを見詰めているかのように少しずつ視点をずらし、やがては本にそれを戻した。その視界に、明らかに森園を認めているであろう時でさえも、彼女は微笑みはしなかった。
それが、思春期というものだった。
森園は彼女の視界ぎりぎりの場所で、自分の性器をまさぐる癖を身に着けた。時によっては、彼女が視線を上にずらしさえすれば自分の快楽を貪る姿が見えてしまう、という位置でも隆起する欲望を露出させていた。いとおしい人物に醜い姿を見られるかも知れない、という切迫感を、彼は快楽に変換していた。
学校帰りらしい制服姿の彼女を、見付からぬように追跡したこともあった。深い帽子を被り、同じアパートの住人を気取って、彼女が触れたオートロックの扉が閉まる直前に鋼鉄のノブをつかむ。まだ、あたたかかった。すかさずその感触を性器に運びたい衝動を抑え、やがて行き着いた部屋の表礼から、彼女の名前が堀越美知穂であることも知った。世帯主である父親の名前が真木夫であることを手がかりに、電話帳を懸命に調べあげ、その電話番号も知った。間違い電話を装い、何度か電話をかけたこともある。その際は必ずコードレスフォンを窓際に持ち込み、読書中の彼女が電話に向かう様子を確認した。堀口さんのお宅ですか、と白々しく問う森園に応じたのは、透き通る、ブイドロ細工のように繊細で綺麗な声だった。
マンションの入口に設置されたポストから、彼女宛の手紙を抜き取ることもしばしばあった。堀越家のポストは、0から7まである数字を右に3、左に3、最後に右に6に合わせて回せば開く。森園はそれを、美知穂を追跡した際に横目で確認していたのだ。学校からのものとダイレクトメールはすべて戻し、プライヴェイトな手紙だけを持ち帰った。セロファンテープやキャラクターのシールで封されたものは、指紋が残らぬようピンセットで剥がし、糊付けのものはディスカウントストアで買った、糊を溶かす溶剤を使う。いずれも痕跡が残らぬよう、慎重を要する作業だった。そうして開封した手紙は、父親が仕事のためリビングに置いたコピー機を使い、カラーコピーを取る。その後は開封前とまったく同じ様相に手紙を折り、封し、その日のうちに堀越家のポストヘ再投函した。
殆どの手紙は、女友達からの他愛ないものだったが、中には、恋文も混じっていた。森園はそれだけは返却せず、灰皿から憶えたての煙草の吸殻を棄て、そこで焼却した。それでも女友達の手紙に男子の固有名詞が頻繁に登場するようになり、やがて文面が慌ただしくなると、彼は堀越家のポストを探るのをやめた。ある種の諦めをもって、それを憧憬へと昇華させ、窓の外を眺め続けることにした。
やがて森園は大学受験に失敗し、短い浪人期間を経て、どうでもいい新設大学に入学した。校舎が通学に片道一時間半ほど要するために、弟をはじめ、家族全員がひとり暮らしを推奨したが、彼はその提案を拒んだ。
既に大学二年生だった美知穂は、相変わらず窓際の読書を習慣としていた。その時刻は大学の授業の有無によって多少の変化を見せたが、亜麻色の長い髪はしなやかで、絹のように滑らかな光沢を放っていた。
薔薇も未だに、一輪のままだった。
森園は読書好きの彼女にいつか贈るために、鳥の羽を象った金色の栞を買った。そして誰にも見付からぬよう、リボンをかけて梱包されたままに、天井裏に隠しておいた。
森園が四年生に進級した頃、美知穂がひとりで現れていた筈の窓際には、見知らぬ男が一緒にいるようになった。そして薔薇は、決まって二輪活けられるようになった。
美知穂の肩を抱く男は、逞しい体躯の持ち主だった。肩幅が彼女の倍近くあり、浅黒い肌と刈り込まれた短髪がその力強い印象を倍加させている。身を寄り添わせる美知穂も、悪い気はしないようだった。血管が透き通るように白い肌が、窓際に置かれた薔薇の如く、燃えあがっていたのだから。
彼らが時には口唇を奪い合い、時には抱擁し合う様を、森園は無感情で、冷ややかな視線をもって見詰めた。美知穂の習慣であった筈の読書は、まるで忘れられたかのように行われなくなっていた。なおさらのこと、時折わざとらしく空を見上げる美知穂の視線が、森園には苦痛となった。まるで彼女にとっての幸福、彼にとっての不幸を、見せ付けられているような気分だった。
だが変質的な愛を募らせることも、私的領域を強引に垣間見ることも、森園は敢えてしなかった。恋心がな失くなったわけではなく、手段としてのそれを憎んだためである。彼は思春期という魔物が促す衝動に、打ち負かされた自分を恥じていた。そして未だに、時折かち合う美知穂の視線に、甚大なる恐縮の念をさえ抱くようになった。今まで自分の犯した恋の罪が、許しがたい罪悪であるかのように思えて仕方がなかった。
その継続と反復にして時は過ぎ、卒業単位を満たしている森園は大学にまったく行かなくなった。高校を間もなく卒業する弟が、兄を慕う言葉をいっさい口にしなくなった。
森園は毎日、窓の外だけを見ていた。
父親が、死んだ。
父は癌と診断されてから入退院を繰り返していたが、森園は一度も見舞いに行くことはなかった。その間に行われた大学の卒業式も、出席しなかった。葬式が執り行なわれた日さえも、彼はずっと自分の部屋にこもっていた。そして今日も窓際に現れるだろう美知穂を待ち、喪服の襟を正していた。
隣りの部屋から、職にも就かず、家から一歩も出ない自分を、母親が愚痴混じりに嘆いているのが聞こえる。ああやって家から一歩も出なくなってもう半年以上経ってますよ、その口調は諦めの感が強く、それを聞かされている親族も、弟も、返答らしい返答はしていなかった。
親類縁者をすべて帰した後、母ひとりの部屋となった隣室から音楽が鳴り始めた。森園はその曲を知っている。遠い昔に、熱い胸騒ぎと共に彼の脳内に組み込まれた歌だ。
羽根のように丘をくだり やさしい彼のもとへ
明るい歌声は 恋をしてるから
母のすすり泣きが、きこえる。
父の遺品であるレコードを聴いて、母が涙を流しているようだった。
森園は、幼い頃は心をときめかせて聴いた筈のその歌が、やけに耳障りになっていた。美知穂に対する恋慕も、少しずつ、さ醒めていた。なぜ醒めているのか、それが森園には何となく解る。少なくとも、恋人らしき男が原因のひとつとなっていることは確実だが、それよりもっと根本的な、何かが、彼の心を燃える朝焼けから、もの悲しい夕暮れへと変えてしまっていた。そしてそれらは、よく似た性質のものだった。実際の朝焼けと夕焼けのように、一瞥しただけでは恋と判らない。朝焼けと思い、地平線を目指し走ってみても、やがて夕闇が自身を覆い始め、取って返すのに骨を折ることもある。しかし目を凝らせば、心を開けば、もしくは閉ざせば、自ずとその違いが明白となる。さらには、幾ら考えてみても時を待たねば判別不能な場合すらあるのだ。
ふと目前を、枯れ葉が、舞った。
その葉はかつて、風にも負けぬ緑々(あおあお)とした力と美の象徴であった筈だ。それが今は、ただ落下するだけ。老いた朽ち犬も同然と散ってゆく。森園は、じっと落葉を見詰めていた。やがてそれが見えなくなると、視線を向かいのマンションヘ戻した。
美知穂が、姿を現していた。
その隣りには、やはり逞しき恋人がいる。笑顔だ。恋人も美知穂自身も、憎らしいぐらいの笑顔だった。そしてふたりの前に、いつものように置かれている花瓶。白地に、底から淡いピンクが侵食しているような柄の瓶。その大地には、ひときわ大きな命、それに比べると小振りな命、そして、まだ咲きかけの小さな命。合計三本の薔薇が、輝くようなその赤さを誇っていた。
恋人が、美知穂の腹部をやさしく撫でている。
隣室から透かし絵のように伝わっていた母親の泣き声は、いつしかやんでいた。その代わりに、か細い、今にも途切れそうな歌声が聞こえ始めた。
薔薇色のほほえみ 青い空
しあわせなふたりは よりそう
注視すれば、美知穂の頬には稜線が見え始めている。栄光と衰退、成熟と腐敗、その中間地点に引かれる残酷な線。幻想、森園はそう、呟いてみた。見ていたのは夢。幻想。思い描く、乙女の面影。彼は理想というものが、その概念ごと崩れ去るのを感じていた。
それは実に、空虚な感覚だった。突如、自分の内臓がすべて抜かれてしまい、ただの空っぽな傀儡と化してしまったかのような。今まで実際に感じてきたものでは、高校三年間の終焉、そこに大学合格という実を結ぶことができず、浪人という暖昧な身分が決定した瞬間に、それは似ていた。魂というものが実在するならば、それが抜け出て、空をさまよ彷徨っている気分だった。
雑に伸びた髭をさすり、その感覚を指先で感じ取ることで、感覚を現実に戻す。左目の裏側が、やけに痛む。埃か塵が入ったのだろうか、左目だけが、充血して塩辛い水分を流していた。
だが、全身は、ひどく冷めていた。
高校を卒業した弟が、担任に薦められた大学進学を断って就いた職に慣れる頃、美知穂の姿が見えなくなった。薔薇は三本のままだったが、そのうちの一輪、二番目に大きいものが枯れかかっていた。その世話をするのは美知穂ではなく、逞しい男だった。
それでも、森園は毎日、窓の外だけを見詰め続けた。弟は大学まで卒業しても何もしない兄に苛立っている様子だったが、文句を言うのも面倒なのか、それとも言葉すらかけたくないのか、自分の部屋となったリビングで音楽ばかり聴いていた。その漏れ来る音を防ぐため、森園は、部屋のドアの前に板を置いた。部屋から出る折にはそれをいちいちど退かさなければならなかったが、減多に部屋を出ないので、面倒ではなかった。
そのままの状態が続き、一か月強が過ぎると、美知穂が戻ってきた。
森園は、閉じかけていた目を見開いた。彼女の胸には、白い百合の花束が抱えられている。花束には白いポストカードが飾られ、ひときわ大きな字で、おめでとう、と書かれている。美知穂はそれを取り外し、枯れかけた薔薇と引き替えに百合の花束を花瓶に挿した。花瓶は、青い透明のものだった。
そこヘ、逞しい男が現れ、手の空いた美知穂に何かを渡していた。白い包みのようなそれには、よく見ると、顔があった。それは指をくわえ、美知穂によく似た目を輝かせる、赤子だった。
ふたりはそのまま、笑い続けた。
その光景を見る森園は、無感情だった。
だが新たにあつらわれた百合は、不似合いで、そして短命だった。ひとたび純潔の喪失を知った乙女がその純粋さを失うが如き早さで、幾日も経たぬうちに、花弁の先から茶色く濁っていった。それと呼応するかのように窓際に現れる美知穂は衰弱していき、痩せ細り、やがて再び、姿を現さなくなった。
百合はそれから、手入れもされなくなった。ただ衰弱するばかりで、やがて、その花から葉まで、すべてを死滅させた。
短命の百合を片付けたのは、逞しい男だった。彼は黒い礼服を着て、その表情を沈鬱なものにして花を取り替えた。
黒い花瓶に挿された薔薇は、二本だけだった。
それ以来、美知穂は窓際に姿を見せなくなった。代わりにそこに現れるのは、急にその逞しさを失っていった男だったのだが、やがて小さい、まだひとりでは生きていけない少女に変わった。
森園はそれでも、毎日、窓の外だけを見詰め続けた。
少女は、ひとりで歩き始めると、いつまでも歩き続けた。
少女は、誰かに話すことの次には、ひとりで歌うことを憶えた。
少女は、幼稚園の制服を自慢するように着込み始めた。
少女は、日曜日でも赤いランドセルを背負って笑っていた。
少女はその間、毎日薔薇の世話や水替えを欠かさなかった。
美知穂は、やはり姿を現さない。彼女を待つだけの森園も、顔には皺が目立つようになり、髭はだらしなく胸まで伸びていた。頭髪は白髪混じりに乱れ、背の中腹にまで達している。服など数年間、取り替えたことがない。風呂にいつ入ったかも、忘れてしまった。母は死に、弟は既に彼を見捨て、妻と息子をもうけて別居していた。
そこには、森園がひとり。毎日窓の外を見詰め続ける、老人のような生活を送る森園がひとり。かつて恋した乙女も、現れなくなった。肉体は醜く朽ち、皮膚は骨にぴったりと付着している。用足しや食事のために歩くには、杖が必要だった。両親の遺産や保険金の残りを使い、食事はすべて、どこかしこに注文している。自分の部屋だけが蜘蛛の巣や黴に侵食されながらも、若い頃のまま残っている。
いや、変わっていないのは、部屋だけではない。そこに潜む森園も、容貌こそ変わりさえすれ、その本質だけはまったく不変のままであった。
見よ、
彼は一心不乱に、窓の外を見詰めている。ノスタルジックなレンガ調から無機質な灰一面に変わった壁、その一部の新しくなったアルミサッシ、そこに飾られたレースのままのカーテン、その下に置かれた青い花瓶、それに挿された二本の薔薇。
そして、そのそばで童話を読む、純白のドレスに身を包んだ、赤いリボンで長い髪を結んだ汚れなき少女を。
そのドレスは、かつて幼い美知穂が着ていたものだった。リボンも、ともすると同じ物かも知れない。それらのかつての所有者は、決して姿を現さなくなってしまった。夢みていた幻想は、幻想のままに、脆く崩れ去ってしまった。彼が恋した乙女は、乙女にあらず、枯れ葉同然に散っていった。
だが森園は、満足だった。
本当の亜麻色の髪の乙女が、とうとう現れたのだから!
彼の視線は、一心に乙女に注がれていた。亜麻色の髪の乙女はその視線に気付くでもなく読書を続けていたが、やがて、飛来する鳥を追って見上げた視線の先に、森園を認めた。その異様な風貌にも、乙女はたじろがず、薔薇色の微笑みを送ってきた。森園はそれに満面の笑みを返し、ややあって、ゆるく手を振って応えた。
いよいよだ。
森園はゆっくりと立ち上がり、埃を被ったぼろぼろの椅子を持ち出した。手を置いて力を入れ、まだ彼の体重を支えるだけの強度を保っていることを確かめる。無事が判明するとその上に乗り、部屋の中央にある天井裏への隠し板をずらした。その奥に手をやり、しばらくまさぐった後、箱を取り出す。虫か何かに食われた跡が目立つリボンを剥がし、腐りかけた包みと箱を破り捨てると、その中には、未だ黄金の光を放つ鳥の羽があった。かつて、乙女の母である美知穂に贈ろうと購入したものだった。森園はそれを右手の親指と人差し指で抱え、眺め見た。そしてそれを亜麻色の髪の乙女に渡す自分の姿と、喜んで受け取る彼女の笑顔を想像した。微笑まずにはいられなかった。かねてからの想いを達成する自分と、亜麻色の髪の乙女とに。いよいよこれを渡す時が来たんだ、森園は数年振りに言葉を発し、声に出して、笑った。
それと耐久度の限界を超えた椅子が悲鳴をあげるのは、ほぼ同時のことであった。
(了)