『勝手にしやがれ』

Sex Pistols
“NEVER MIND THE BOLLOCKS”
あたしは、馬鹿な女だ。
高校中退なので最終学歴は中学だし、専門学校にも行かないでろくに定職にも就かなかった。何度か就職したことはあるけど、それも全部パンエ場とか飲み屋とかガソリンスタンドとか、就職試験も学歴も何も要らない、バイトの人たちばっかりのところだ。親も親で、あたしが何度辞めてもすぐに代わりになる働き口を探してくれた。
でも、全部長く続かない。飽きちゃうか、何か大きなトラブルを起こして辞めてばっかりだった。中でも一番問題になったのは、何か月か前まで働いてたスナックで、常連だったヒロシというやくざ者、というよりちんぴらとあたしが恋仲になったことだ。
ヒロシは何十万もツケがたまっていて、ヒロシとできているあたしは毎日店の女の子やママにヒロシの居所を訊かれ、愚痴や文句を言われ続けた。でもあたしは変に弱気で、そういうことを言われたらすぐに泣きそうな顔になっでしまう。これはあたしの性格で、それまでの職場でも何度もそんなことはあった。何か言われると自分が馬鹿にされてるような気になって、しかもそれが自分の失敗とかを叱られてるんだったらああなんてあたしは馬鹿なんだろう、って必要以上に自分を責めて泣いてしまう。
そんな泣き虫のあたしは、ある日個人的にあたしを呼んだヒロシに連れていかれ、狭いアパートに一緒に暮らすことになった。どうしても断れなかった。別に断る理由もなかったし、ただこれで働かなくていいんだな、なんて楽な気分でいた。もともとあたしは水商売には向いていなかったみたいで、固定客もヒロシぐらいしかつかめなかった。
最初は、うまくいってた。ヒロシもきっと少ししか会えなかったあたしとずっと一緒にいられるから楽しかったんだと思う。毎晩あたしを抱いてくれたし、給料だってそんなに多くないみたいなのにいろんな物を買ってきてくれた。その中にはあたしが小さい頃から欲しかったカナリヤもあった。
ヒロシはガードマンみたいな仕事をしてると言ってたけど、きっとやくざだと患う。はっきりとそうは言わなかったけど、似合わないパンチパーマやヤンキーが出世したような私服を見れば、どこかの組の下っぱだってすぐ判る。現に、兄貴分だっていう人とヒロシが一緒に帰ってきたことがあって、おおヒロシいい女じゃねえかやらせろよ、なんて言われたこともあった。そしたらヒロシはへい解りました、なんて言って部屋から出ていった。あたしはただおろおろするばかりで、顔とか手の甲に大きないぼがたくさんあるその人に抱かれてしまった。すごく嫌だったからなるべく思い出さないようにしてるけど、その人の手が胸を揉んだり頬をすり寄せられたりする度に、いぼが移らないかって心配ばっかりしてたことだけは憶えている。
いい物はみんな兄貴に渡すようになってるんだ、いぼの人がいなくなってから戻ってきたヒロシはあたしに謝りながらそう言った。そうしねえと俺兄貴達に殺されちまうかも知れねえからな、そんなことを言ってたけど、それじゃあたしも「物」でしかないんだろうか。そう言おうとしたけどヒロシが一生懸命謝るので何も言わずにヒロシがお詫びに買ってきたクッキーを食べていた。
それから、おかしくなった。
あたしは何人もの男に抱かれることになったし、その度にヒロシは黙って部屋から出ていった。何かおかしい、そう気付いた時には遅かった。どうやらヒロシはあたしを提供することでお金をもらっていたらしい。そのお金であたしにお詫びを買ってきて、服とか化粧品を買って、それでまた足りなくなったらあたしを抱かせる。あたしが前に働いていたスナックの支払いなんか最初から払うつもりはなかったらしく、貯金もなかった。
それに気付いてからあたしは、素直じゃなくなった。弱気ではあったけど、ヒロシの言う通りにはしなくなった。素直に兄貴に抱かれろよ、と言われても泣きながら部屋を出ていったり、ヒステリーみたいに叫び狂ったりもした。そうしたらヒロシも兄貴分から評判が悪くなったらしく、あたしをだんだん手荒に扱うようになった。
それでもヒロシは、昼間は一応は出ていく。あたしは全然聞かされてないけど、きっと組の方で何か仕事があるんだろう。その間に、カナリヤと一緒にいるのがただひとつの楽しみになった。
あたしはカナリヤをピィちやんと呼んでいた。小さい頃から飼ったらその名前にしようと決めてたからだ。ピィちやんは綺麗な黄色い羽をしていて、高かったんだぞ、とヒロシに何度も言われた。特別な種類なのかどうかは知らないけど、とにかく綺麗だ。ベランダの窓に吊るされた鳥籠の中に入っていて、あんまり鳴かない。鳥籠が小さいからほとんど飛ばないで、ずっと止まってうつむいてばかりいる。
ピィちゃんを見てるだけで、あたしはずいぶん気が楽になった。でもそうしてるとヒロシのことを忘れてる自分に気が付いて、それじゃあたしはどうしてあの男と一緒になったの、と自問して気が重くなる。その答えは、ほんとに簡潔だ。あたしはただ、働かないで生きていくためにヒロシについていった、それだけのことだった。
ここを出たい、そう思い始めた。でもあたしは気が小さいからそんなこと言えるわけがない。それにもし、出るなんて言ったらヒロシはあたしをどうするだろう。もしかしたら兄貴分の誰かにあたしを献上するかも知れない。そうしたら元も子もない。
でも、あたしはきっといつかここを出ていく。そして今度はちゃんと働いて暮らそう、その時は、そう信じて疑わなかった。
ヒロシと一緒に住み始めてもうすぐ一年という頃、あたしはずっと自分の体調が悪いのに気付いた。食べてもやたら戻すし、やたら動く気がしない。もともと洗濯とか料理はしてなかったけど、コインランドリーとかコンビニに行くのでさえ億劫になった。
お風呂に入って、原因が判った。おなかの下の辺りが少し張っていたからだ。
食べ過ぎたのとは違う。食べ過ぎたら胃が膨れるんだけど、それより少し下のところが滑らかに膨らんでいる。太ったのかな、なんて考えることもなかった。
妊娠した、
それも、誰の子か判らない。
それに気付いても、あたしは怖くてヒロシになかなぁ言い出せなかった。怖い、っていっても何が怖いのかよく解らない。赤ちゃんを堕ろすのが怖いのか、赤ちゃんを殺すことになるのが怖いのか、もしかしたら産むことになるかも知れないから怖いのか、理由は解らなかった。でも、怖かった。
だけどヒロシもそれを誤魔化せるほど馬鹿じゃない。あたしは痩せてたから、さすがにおなかの膨らみが目立ち過ぎるようになった頃、俺の子か、なんてぶっきらぼうに訊いてきた。でもあたしはどう答えていいか解らない。ずっと数人の男に抱かれてきたわけだし、ゴムを使った人なんていなかったから誰の子かも判らない。だから素直に判んない、と答えたら、ヒロシはいきなりあたしの頬を殴った。馬鹿野郎女だったら誰の子かぐらい判るもんじゃねえか、なんて目茶苦茶なことを言ってあたしが何を言っても相手にしてくれなかった。そして不機嫌になって、勝手にしやがれ、とだけ言って出ていってしまった。
あたしはどうしていいか解らなかった。これからおなかの赤ちゃんをどうしていいかも、今のあたしがどうすればいいのかも。スナックにはまるで風邪を引いて病院に行くようにしょっちゅう堕ろしてる女の子もいたけど、あたしにはそんな勇気もない。誰かに助けてもらいたくても、両親とか友達には妊娠したなんて言えない。ヒロシのことも説明しなくちゃならないし、そうなるとあたしが水商売してやくざの下っぱのヒロシにつかまった、なんてことも言わなくちゃならない。
混乱したあたしは静かな空気が苦しくて、古いミニコンポに入ったままのCDをかけた。すごい音量でギターの音が始まる。あたしは慌てて音を小さくして、それがヒロシが去り際に言い残した言葉と同じタイトルの『勝手にしやがれ』っていうアルバムだって気付いた。セックス・ピストルズのCDだ。それからあたしはピィちゃんの鳥籠につかみかかった。ピィちゃんなら何を相談しても大丈夫だからだ。ねえピィちゃんあたしどうしたらいいと思う? そう訊いても、もちろんピィちゃんは答えない。答えるどころか、元気がなかった。うなだれるような格好になっててエサも食べてないし、水さえも飲んでいない。どうやら病気みたいだった。
ますますあたしはどうしていいか解らなくなったけど、そこにヒロシが酔って顔を真っ赤にして帰ってきた。あたしがぐしょぐしょに泣きながらヒロシにすがったら、ヒロシはあたしが妊娠したことですごく悩んでたと勘違いしたみたいで、これでおまえが誰の女か解ったか、なんて言ってなぜかにやにやしている。あたしはピィちゃんを助けたくて首を振って、ピィちゃんが病気なの助けてよう、って泣きすがった。そしたらヒロシは急に不機嫌な顔になってあたしを蹴った。それも、赤ちゃんがいるおなかを蹴った。
「てめえの赤ん坊よりも鳥一匹の方が心配なのかよ」
そう言って今度は倒れたあたしの頭を蹴った。どうやらヒロシは彼の子供ができたかも知れないのにそれよりピィちゃんを心配するあたしが気に食わなかったらしい。あたしは泣きながら、鳥は一匹じゃなくて一羽なのにな、なんて思っていたけどもちろん言わなかった。
いきなり、ヒロシが鳥籠を開けた。そして弱って動けないピィちゃんを右手でつかんであたしの目の前に差し出した。その時ピィちゃんは糞をしてしまい、床にそれが落ちてあたしの顔に少し跳ねた。ああもうこれだから鳥ってやつは、食った物がすぐ消化できる仕組になってるから嫌なんだ、ヒロシはやたら早口で、あたしに教えるように言った。
ヒロシはやたら鳥に詳しくて、それから骨の構造について自慢気に演説し始めた。鳥の骨は中空ハニカム構造っていってな、飛びやすくなるように隙間だらけなんだよ。ヒロシがそこまで言うと、あたしは悪い予感がした。ヒロシの手の中で力なくもがいている小さなカナリヤ、ピィちゃんが不意にどこかへ飛んでいっちゃうような、いや、正確にはそうじゃなくて、不意に姿を消しちゃうような、言葉にもできないような不安があたしに何かをせかすように、全身を包んでいた。
あたしの悪い予感はよく当たる。小学校から帰ってきたらお爺ちゃんが死んでたのも、お兄ちゃんが受験ラッシュの最中に自殺したのも、家が火事になったのもみんな前の日か数時間前に悪い予感がしていた。そういう時はいつも背中がぞっとして、いつもちょっとだけおしっこが漏れた。今も、下着がやけにあったかくなってるのが解る。嫌だ、嫌だ、嫌だ、あたしは声に出して言った。
今回も、悪い予感が当たった。
鳥の鳴き声とは思えない、プギャ、っていう動物みたいな声を出して、ピィちゃんは動かなくなった。同時にメキッっていう何かが析れる音も聞こえる。あたしはとっさに、目をつぶった。
ヒロシが、ピィちゃんを握り潰した。
「鳥なんか、飛べねえなら死んだ方がマシなんだよ」
残酷な顔もせず、ヒロシは笑う。まるで小学校の時にあたしのスカートをめくったクラスの男の子みたいに、軽いいたずらをしたような表情だ。あたしは急に、ヒロシを恐れた。下っぱとはいえ、ヒロシもやくざだ。きっと人も殺してるだろうし、鳥なんか憐れむ必要もないんだろう。
でも、あたしは飛べない鳥は死んだ方がいいなんて考えは賛成できなかった。自由を奪われてたって、喩えばずっと部屋に閉じ込められたままだって、人間なんかは最終的には生きたいと願う筈だ。それはきっと、鳥なんかでも同じに違いない――でも、ヒロシを目の前にしてそんな強気なことを言える筈がなかった。
それにあたしは、飛べないカナリヤと同じだ。ヒロシにいっさいの自由を奪われ、毎晩彼とその兄貴分を慰めるためだけにあたしは生きている。だけど鳥と人間が決定的に違うのは、意志があることじゃないかと思った。つまり、人間は抵抗することができるし、あたしも抵抗することができる。今のあたしは、自分の意志を捨ててるだけだ。自分から籠に入ったのに、ヒロシに籠に入れられたと思ってるだけだ。
そんなとめどない考えが、ピストルズのがなり声をバックにあたしの頭の中に展開する。ギターのジャカジャカいう音がまるで直接脳に伝わるみたいに響いてくる。
不意に、猫の話を思い出した。猫は自分の子供が病弱だったりしょっちゅう人間に手を出されたりすると、その子をぜんぶ食べてしまうという話だ。その話をあたしは自殺する前日のお兄ちゃんから聞かされて、悪い予感がしたんだった。今思うと、その猫の気持ちが少しだけ解る。母性本能みたいなものなんだろうけど、あたしはそれをうまく説明できるほど頭がよくなかった。それに、日の前でピィちゃんを握り殺したくせに音楽にのせてからだを揺らしているヒロシを、どうにかしなくちゃならない。
殺そう、
そして埋めよう。人の骨か犬の骨か判らないぐらいバラバラにして埋めよう。
ヒロシがピィちゃんを床に投げ捨てて、やっぱシド・ヴィシャス最高だぜ、なんて言いながら冷蔵庫から焼酎の小ビンを出した。てめえ寝っ転がってる暇あんならつまみでも作りやがれ、そう言ってあたしをまた蹴ろうとする。そこであたしは無意識におなかを手で守ってしまったのが、さらに気に食わないようであたしはまた頭を蹴られた。
あたしは台所まで這っていって、そこで立ち上がった。包丁を出して、考える。あたしはほんとにヒロシを殺す勇気があるんだろうか。だいたい殺したあとはどうすればいいんだろう。赤ちゃんを産むか堕ろすかさえ決めてないし、今はピィちゃんが殺されたことであたし自身がすごく混乱してる……でも、確かなことはひとつだけあった。ヒロシを、どうにかしなくちゃいけない。
ヒロシは上機嫌な様子でテレビをつけて、ナイターを見ている。アンチ巨人のヒロシは巨人が横浜に三点差で負けてるのを見て喜んで歓声をあげていた。
我慢すれぱ、こんな風景をずっと続けることができる。そうだ、あたしは何もヒロシを殺さなくても生きてくことはできるんだ。それにヒロシと一緒にいれば働かないで済むし、赤ちやんだって堕ろした人はたくさんいる。そう考えれば、平穏な暮らしを続けることはできるんだ。兄貴分に抱かれることを我慢して、きちんとゴムさえ使えば、このままずっと楽に生きていけるんだ。
そう考えた、その時だった。ヒロシが振り向きもしないで、細い舌を長く出したまま床に落ちたピィちやんを指差して言った。
「そいつでヤキトリでも作れねえかな」
あたしのなかで、何かが弾けた。
殺そう、やっぱり殺そう。包丁で刺し殺して、バラバラにして埋めよう。犬の骨か猫の骨か鳥の骨か人の骨か解らないぐらいバラバラにしてすり潰して埋めよう。それも遠くに、電車で半日ぐらい離れた場所に埋めよう。それであたしは、ここから逃げよう。やくざ者ひとりぐらいいなくたって世間は騒ぎはしない。殺そう、ヒロシを殺そう。ピィちゃんが殺された痛みを教えてやろう。
殺そう、
あたしは、包丁を持った。なるべく音を立てないようにすり足になって身を低くし、ヒロシの背後に近付く。ヒロシはナイターを見ながら、バックに流れるピストルズを歌っている。アナァキィフォオザユウウィケイ、気持ちよさそうに首を左右に振っている。パンチパーマが揺れるのは醜い、その時あたしはそう思った。やめよう、という気にはなれなかった。元気だった頃のピィちゃんの姿が目に浮かんで、なぜか悔しくなってくる。こんな男に飼われちゃったからピィちゃんは殺されちゃったんだ、そう思うと引き下がる気にはなれない。両手で前に構えた包丁を確認する。刃渡り三十センチぐらいの長い包丁、これなら心臓だってひと突きだ。イズカミサムタイアンメェェイビィ、ヒロシは相変わらずあたしに気付かない。今まであたしを抱いてきた数々の兄貴分の汚い顔が目に浮かぶ。中でもいぼがたくさんあったあいつの顔が浮かぶと、あたしはそのいぼがヒロシにも移ってるような気がしてそれを包丁で切り取ってやりたくなって、歩幅が少し早くなる。アギバロンタァイストパトラフィラァイン、ヒロシは隣りの部屋に聞こえるぐらいの声で歌う。やけに、自分の体温を感じる。熱があるわけでもないのに、風邪を引いた時みたいにからだが熱くなって汗が吹き出しそうな気がする。ヨフュチャドリミザショッピンシェェェエイ、汗は実際、少しだけど手とか額に浮かんでいる。包丁が滑りそうなのであたしは気を付けてぐっとつかんだ。もし急所を外したらあたしのこれからはない、ヒロシは逆上してあたしを殺すだろう。そう考えれぱ、いやでも慎重になってくる。ヒロシの背後ぴったりに、やっと到達した。あとは思いっきり包丁を突き出せば、あたしは籠の鳥じゃなくなる。ピィちゃんのかたきを、取れる。
「コオズ」
ヒロシの声が大きくなり、少し頭を上に揺らした。サビの部分に入ったみたいだ。あたしはそのひとことで少しビクリと身を震わせてしまったが、ヒロシはあたしに気付かずに歌い続ける。アァァァァァイワァナァベェェェェェ、あたしは、ヒロシに気付いてほしかったのに。あたしが苦しんでるんだって、ヒロシに気付いてほしかっただけなのに。体温が、すごく上がってるのが解った。特に目が熱くなって、だらだらと涙が流れてくる。視界が曇ったけど、ヒロシはもうあたしの目の前にいる。包丁を突き出せば、ひと息に殺せる範囲にいる。
ふと、殺してはいけない、という予感がした。あたしによく起こる、悪い予感みたいなやつだ。ここでヒロシを殺したらあたしはもう二度と普通の生活ができないかも知れない、たかが鳥一羽のことで人を殺すこともない、世の中にはあたし以上に不幸な人達だっているんだから……包丁を握る手から、力が急に抜けていく。もはやあたしにはヒロシを殺す理由はまったくなくなっていた。
ヒロシが、少しだけ振り返った。
あたしを見るためにではなく、歌に合わせて頭を振ったからだ。あたしは固まった。不意に視線が合って、ヒロシの吊り上がった右目が少しだけ見える。ヒロシがあたしを見た。あたしは包丁を投げ出し、ヒロシを殺そうとしたことやあたしのふがいなさやおなかの赤ちゃんのことを、ぜんぶ謝りたくなった。素直に謝れば、ヒロシが許してくれる気がしたからだ。仮にも好き同士で一緒に住み始めたんだから、謝れば、すべてが最初からやり直せると思った。
だけどヒロシは、あたしが泣いていることも気にせず頭を戻した。
テレビに向かって歌い続けるヒロシの後ろ姿。アァナァキィェェェェ、あたしに何ら気を配らずに自分のしたいことだけして責任も取れない馬鹿な男。口ばかり達者で甲斐性なしの勝手な男……。
あたしは、包丁を握る手をもう一度強めた。
ゴオェッ、
でかい声。
肉を刺す、柔らかい感触。
包丁は、確実にヒロシの心臓を突き抜いていた。
それでもその一撃でヒロシは倒れないで、目を見開いてあたしの方にゆっくり振り返った。エェェエェェエェェ、何かが軋むような変な声をあげているヒロシの顔には、勢いよく飛び散った血が少しついている。あたしは吐き気に襲われたけど、それよりもヒロシのその顔に恐怖感を覚えて我を忘れた。頭の中が真っ自になる。包丁を無理矢理引き抜いてヒロシの昔中に刺しまくる。ゴェ、グァ、その度にヒロシは短くて鈍い声をあげる。血が飛び散って、ヒロシの全身、あたしのからだ、カーテン、床、ピィちゃんの死骸にまでべとべとする赤いジャムみたいなものがくっつく。ヒロシはゆっくりと倒れて、あたしはとどめに、もう一度ヒロシの心臓を、今度は正面から刺した。
ガ、
そんな声をあげたきり、ヒロシは動かなくなった。
そこであたしは、ようやく自分のしでかしたことの重大さに気付いた。ごめんね、そう言って動かないヒロシの頭を持ち上げて抱き着く。ヒロシの目は飛び出るように見開かれて、鼻も少し大きく広がって、同じく開いた口からはだらりと舌が顎ぐらいまで伸びている。ピィちゃんもそうだったけど、生き物って急に死ぬ時は舌が出ちゃうみたいだ、そんなことを考えてみる。自分で殺したくせに、涙が止まらない。もうこれからどうするかとか、赤ちゃんを産むか堕ろすかなんて考えられない。ただ、殺しちゃったヒロシに謝りたい気持ちでいっぱいだった。
ごめんね、ごめんね、ごめんね、
もちろん、ヒロシは返事をしない。開いた目と鼻と口に血が流れ込んで、もうヒロシの顔だか何だか解らなくなった。
ごめんね、こうするしかなかったのよ、
あたしはその赤い口に、キスした。あたしの唇にべっとりと血がついたけど、ヒロシの唇はやわらかくて、まだあったかかった。口を離すと、赤いどろどろした細い線がふたりの唇をつないで、左右に小さく揺れて、そして切れた。
あたしは、泣きながらその唇にもう一度キスした。
(了)