『ネヴァーマインド』

Nirvana
“NEVERMIND”


 あ、ごめんなこんな夜遅くに。起きてたのか? それはよかった。いや、大した用事じゃないんだけどさ、っていうか用事なんかないんだけどさ、どうしても聞いてほしいことがあったんだよ。いや眠かったら寝ちゃってもいいんだぜ。聞いてくれる? ありがとう、何かこれはおまえにだけは聞いてほしくってさ、ほんとにありがとな。
 俺さ、ほら最近情緒不安定だったろ? 仕事中にも汗止まんなくなったり医者のために早退したり、たまに誰か話しかけてきた奴に暴言吐いたりしてたんだよな。まあもともと医者にも躁鬱気味だって言われてはいたんだけどさ、最近特にそれが激しかっただろ? うん、今だからこそ、それもおまえだからこそこれは言えるんだけどさ、俺実は彼女妊娠させちまったんだよ。
 彼女はさ、ほら、あの仕事帰りに居酒屋で会ったうちの会社の近くの、ほら、山下不動産ってあるだろ、そこの受付け嬢の子。そう、あの髪の長い背の高い子、そいつと付き合ってるって前から言ってただろ。それがさ、俺いつだか酔ったまんまあいつとやっちまってさ、何かどうでもいいやって思って中で出しちまったんだよ。それが見事に当たっちゃってさ、しかも俺まだ生涯ふたり目の女だっていうのにさ、ついうっかりしてたんだ。
 まあ俺、いつもうっかりしてるし遂に来るべき時が来たか、なんて楽観的に考えてたんだけどさ、彼女ひどく真剣なんだよ。あたしは中絶した女の子何度も見てるしその子達みんな中絶してから駄目になっちゃってるから、なんて言ってさ、堕ろさせてくれないんだ。
 大体中絶した女の子達っていうのが解んねえんだよな、これは自分のことなのによ、どうして他の連中と自分をいちいち対比しなきゃいけないんだなんて俺は言うんだけどさ、あいつはきっとあたしも堕ろしたら駄目になっちゃうよ、って言ってきかねえんだ。
 親? 馬鹿言え、怖くて親になんて言えねえよ。おまえもうちの親会ったことあるから解るだろ? 親父の奴、やたら癇癪持ちでいっつも俺に説教して育てあげたからさ、俺はすべてのことに正しい判断ができる筈だって言ってるんだよ。馬鹿言うなよな、だって俺まだ二十四だぜ? 二十四って言やあ、そりゃ成人式済ませたからもう大人なんだろうけどさ、俺なんかまだ子供だよ。お袋、俺のこと心配して仕送り続けてくれてるしさ、俺もまだそれに縋ってるんだ。そんな奴に親としての自覚持てって言う方が無理だよ。ああそう言えばおまえ、麻雀やって俺が親になる度、あんたに親が勤まるの? なんて言ってきたよな。それも十年後にもう一回言ってあげる、なんて言ってな。悪いな、この間言われたばっかなのにもう言われちまいそうだよ。
 そりゃあ俺だって、自分の言ってることが屁理屈だって解ってるよ。そりゃあ俺が中出ししちまったんだからしょうがねえけどさ、普通はここで堕ろすじゃねえか。まだ付き合って二か月とかそこらへんなんだぜ? 結婚に踏み切れるわけなんかねえよ。青木? あああいつは大学ん時から付き合ってる女と結婚したけどよ、あいつの場合俺よりもモノ解ってねえじゃん。あいつの付き合ってたあの女がさ、在学中に絶対結婚しようね、なんて言ったから結婚したんだぜ。馬鹿だよ、それだったら子供育ててカミさん養ってく自信がねえって言う俺の方が正直で利口だと思うぜ。愛があれば生きていける、なんて偉そうなことあいつ言ってたけどよ、実際今、毎晩カミさん泣いてそれ宥めんので精一杯だってよ。この間会ったら十キロも痩せたって言ってたぜ。大体あの女もカミさん勤まるような奴じゃねえし、ただ青木と一緒にいると安心だから、って結婚した馬鹿な女だからな。
 だからさ、俺は青木とは違うんだよ。さっきも言ったけど自信がない、これは確かなんだ。だってよ、いきなり妊娠したって言われたらさ、はいそうですかそれじゃあ結婚しましょう、なんて言えるかよ? ドラマじゃねえんだからよ、やっぱり現実的に考えるといろんなこと辛くなるぜ。だって俺まだ若いしさ、うちの会社、ほら、俺すごく気に入ってんだろ? 同僚のおまえから見ても解るじゃねえか、俺ミスばっかするけどこの仕事に生き甲斐感じてるし、まだまだ可能性あるって思うんだよ。だから単身赴任とかも辛くねえって思ってるし、だけどカミさんとかいたらそんなことも楽にはできねえだろ? ああ確かにこれは理由でしかねえよ、でもな、やっぱり俺、ここで結婚なんかしちまったら自分の可能性が摘み取られちまってできることがすげえ減っちまうと思うんだ。
 だってよ、大学ん時は単位取るので精一杯だった俺が貿易会社だぜ? みんなそりゃあ驚いてたよ。おまえが入れるのは当然だろうけどさ、俺この通り落ちこぼれだから、それだけでも嬉しかったんだよ。なのにいきなりこんな事態だろ、正直言って死にたくなっちまったよ。死んじまえば何もかも取り消しだ、ってことは確かシェークスピアなんかも言ってたよな。
 え? ううん、それがな、そうなんだよ。実際俺、死のうかと思ったんだ。死のうと思って自殺のこと書いた本買ってさ、どう死ねば一番楽かって考えててさ、やっぱクスリだろって思って、知り合いの看護士、ほら、堀田。大学途中で辞めて看護学校入ったろ、あいつに頼んで睡眠薬パクってもらったんだよ。それも何度か頼んで大量にな。多分、全部で三十錠ぐらいだと思う。だけどさ、それが飲み込もうと思って口に含んだらさ、どうしても吐き出しちまうんだ。何かさ、よし飲むぞ、って思った瞬間にあいつの泣き顔が浮かんじまって駄目なんだ。俺さ、何だかんだ言ってあいつを傷付けるの嫌だからさ、やっぱ好きだし、時々産ませてもいいかな、なんて思ったりもするしさ。それで結局死ねなくってさ、でも睡眠薬は乾かして袋に入れて保存してあるんだ。またいつ死にたくなるか解んねえし、他の死に方だと苦しいのばっかだしさ。
 それでどうしようもなくなって、一時期荒れてたんだよ。そうだな、正確には今日までかな。でもよ、今日CD聴いてたら、なんだかどうにだってなるよ、って思ってさ。ほら、おまえから借りてたあれだ、何だっけ? そうそう、ニルヴァーナって奴らのアルバムだよ。そうそれ、『ネヴァーマインド』だ。あれさ、何ていうか聴いてるとすげえ苦しくってさ、何だろな、胸がこうキリキリ締め付けられるような感じ? そんなのがずっと続いててさ、何度もCD止めようと思ったんだけどさ、まあ我慢して通して聴いてみたんだよ。そしたら俺、あんながなり立てるような曲ばっかなのに何か泣いちゃってさ、すげえこう、痛いんだよ。ギターだとかべ一スだとがドラムだとか、そんな音全部がすげえ痛いんだ。でもやっば一番痛いのはヴォーカルだったな。あの、何て言うんだ? 叫び、って言えばいいのかな? あのヴォーカルの叫び声がすげえ痛くて、俺泣いちったんだよ。音楽聴いて泣くなんて初めてだよ。バラードとかで雰囲気に流されたところに甘い言葉がうまく置いてあって、うっ、てくるのはあったけどさ、今日みてえにダラダラ涙流すの初めてだよ。
 え? 空白? ああ、あったな、最後の方。何かずっと十分ぐらい無音状態のところ。あそこも聴いたよ、飛ばさねえで。そん時俺、その音なくなる前の静かな曲でやっぱりまた泣いちまってさ、きっと酒飲んで聴いてたのもあったんだろうな、止まんなかったんだよ。でも音なくなると何だろうな、きっとここにも何かあるんだろうな、って思ってずっと耳傾けてたんだ。そしたら何にもなかったんだけどさ、俺はそこに、何か感じたよ。
 空白、
 まあ、そんな言葉でしか言えねえけどな。いろんな不満あって、それをさんざんブチまけちまった後ってさ、必ず少し黙るだろ、俺って? うん、それと似てるなって思ってさ、結局どんな不満ブチまけたって何にもならねえんだな、なんて思ってさ、俺自然とあいつのこと考えてたよ。そしたら十分して、あのがなり立てるような汚ねえ曲、あ、こんな言い方でごめんな、まあ、あの隠れた曲になるだろ、その言葉がさ、また俺に突き刺さるんだよ。何て言ってんのか解んねえけどさ、何か俺、ヴォーカルにひどく馬鹿にされてるような気分になってさ、てめえふざけんな死んでたまっか、って思ったんだよ。そこで目に入ったのがあの赤ん坊が金追って泳いでるCDのジャケットだ。あれ見てさ、俺、結局この赤ん坊と同じだなって思ったんだ。あれを俺なりに解釈するとな、あの海は母体、つまりは羊水だと思うんだ。で、赤ん坊はこれから産まれてくる人間で、金は現実の汚ねえ世界だ。つまりは純粋無垢な赤ん坊も金につられてこの世界に出てくる、ってことだな。それでそいつのチンポコもう剥けてるってのは、何だろうな、俺はもう一人前なんだぞ、って思ってみても結局人間誰も赤ん坊だってことかな。俺こんな馬鹿な奴だからよく解んねえけど。
 それでさ、俺気が変わったよ。生きてやろうじゃねえか、って。このまま赤ん坊のまま死んでたまるか、って思ってな。だってよ、これから赤ん坊が産まれてくるんだぜ? やっぱ作った奴としちゃあ責任持たないとな。自分で作っときながらははは堕ろせよてめえ、なんて俺の勝手でしかねえじゃねえか。そうだよ、俺今までずっと俺の勝手で生きてきたからさ、これは神様がその勝手な俺を矯正しようとしてるんだな、って考えたわけよ。まあ俺神なんか信じちゃいねえけどな、どんなことあったってやってみてからモノ考えよう、って思ったんだよ。俺ずっと、自分で解決できねえと思うと放っぽらかしてばっかだったからさ。だから今回はさ、あいつの言う通り産ませてやろうと思ったんだ。
 え? いや、まだこれはあいつには言ってねえよ。それより先におまえに教えたいって思ってさ、何だろな、それはやっぱ友達だからだと思うぜ。俺馬鹿だから、ほら親父にも勘当されたようなもんだからさ、親に頼ることもできねえしあいつに頼っちゃ夫になる俺が情けねえし、それでおまえに、あ、いや、おまえに頼ってるわけじゃねえよ。たださ、今まできっと俺おまえに甘えてたって思うからさ、その報告はまずおまえにしたいって思ってさ。何でかよく解んねえけど。
 うん、だからな、俺とおまえももう肉体的な付き合いはやめよう、って思うんだ。俺これで懲りてもう子供できちまったらまた死にたくなっちまうかも知れないし、やっぱあいつに悪いよ。それは解ってくれるだろ? おまえだっていつも彼氏に悪い、って言ってたじゃねえか。まあそれを掩が無理矢理引き止めてたみたいなもんだけど、ほんと悪いな。ごめん、謝っても許されないかも知れないし、それに許す許さないの問題なんかじゃないと思うしな。
 ほんと、悪かったな。
 でも俺、おまえと友達の付き合いはずっと続けたいって思ってるよ。そりゃあ一時期付き合ってもいたし結婚したっていいかな、なんて思ったぐらいだからさ、あ、これ言ってなかったか、そうだよ、俺おまえが妊娠したんなら絶対結婚したと思うんだよ。あいつよりおまえの方が俺のこと甘やかしてくれたからさ、きっと俺、おまえに子供できたらすぐに結婚しちまったと思う。でもな、そうならなくてよかったとも思うよ。だってさ、それこそ青木と一緒じゃねえか? 好きだからって一緒になれるわけじゃねえだろ、そこにいろんな間題があって、そいつを越えられるかどうかの判断ができなくちゃ結婚なんてするべきじゃねえと思うんだ。きっと俺の親父もこれ知ったらおまえはその女を食わせていけるのか、って言うぜ。何より、それだよな。死なせちまったら元も子もないからな。
 俺が憧れてた結婚ってさ、意外にロマンチックなんだ。運命の赤い糸っての、俺高校ぐらいまで信じてたしさ。だから女で言うところの白馬の王子様みたいなの? 男で言ったら、ううん、何だろな、まあお姫様みたいな感じなのかな。そう考えててさ、でもそれは俺が甘かったんだよな。結婚するきっかけだとか形式なんて、けっきょく過程でしかないからな。問題はその後、幸せになれるか、してやれるか、ってことだと思ったよ。『ネヴァーマインド』のジャケット見てさ、俺不意に自分の赤ん坊はどんななんだろうな、なんて考えちまってさ、心のどっかにやっぱり自分の子供見たい俺がいるんだよ。だから今回は、素直にそいつに従ってみようと思う。今回は、って言い方はちょっと悪いな。今回こそ、かな。俺いつも安全な方安全な方進むようにしてたからさ、今度こそ素直になってみようと思うよ。それで失敗したってどうにかやり直せばいいんだからな。極端な話、離婚だってありの世の中なんだから。
 みんな、何て思うんだろうな。
 いやさ、世間体で結婚するわけじゃねえぜ、そうしたらそれこそできちゃった結婚の方が恥ずかしいと思うし、決断するのに勇気要ると思うんだよ。きっと俺の親父なんかはこれ聞いたらガミガミ言うぜ、おまえはいつまで俺に迷惑かけるんだ、なんて言ってさ、やっぱり血は争えねえよな、俺の勝手さは親父の遺伝だと思うよ。いっつも自分のことばっか考えてるしさ。
 でもよ、あれであの親父も優しいところあってさ、もしかしたら俺のこと、何にも言わないかも知れないよ。俺と一緒に酒飲む時なんかずっと黙ってて怒ってんのかと思うんだけどさ、後からお袋に聞いたら今日は和博と酒飲めて楽しかった、なんて言ってたっていうしさ。何だかんだ言って俺の誕生日プレゼントは欠かさなかったし、それも俺の欲しい物必ず当てて買ってきてくれたんだ。やっぱ、俺大事にされてるんだよ。だからさ、今回のことで話さなきゃいけないってのもあるけどさ、俺、あいつ連れてうちに戻ってみようかと思うんだ。何かな、ちょっと勇気出た気がするよ。これが親になるってことかな、なんて考えたりもするんだけどよ、やっぱ俺まだまだ子供だし馬鹿だから、そういうことは実際親になってから考えればいいって思うんだよな。だってさ、少なくとも親父やお袋にとっては俺は子供なんだしさ。
……そうかな。やっぱり、あのふたりは俺を暖かく迎えてくれるかな。ありがとう、いやそう言われるとほんとありがたくってさ、今俺、いや、この話し方で解ると思うけどさ、何か、情けないけど、涙出てきたよ。おまえと知り合ってほんとによかったって思うよ。大学ん時、俺何でこんな大学にいるんだなんて思ったけどさ、おまえと会えただけでもう充分だって思ったよ。いや、恥ずかしいけどさ、これほんとだよ。
 うん、悪いな、ずっと俺の話聞いてもらって。ほんと悪かったな。でもさ、これで俺眠れるよ。あいつにも電話できるよ。今まで、ありがとな。いや、これじゃまるでずっと別れちまうみてえだけど、ううん、これからもよろしくな。ははは、そうかな、カッコ付け過ぎかな。でも、ほんとにありがとな。
 あ、そうだあのCDいつ返せぱいい? いつでもいい? ううん、何かずっと借りてんのも悪いしさ、俺、これ自分でも買うよ。だから明日、返すよ。いやいいんだよ、買うから。買っても損はしねえと思うからな。
 え? そうなの? このヴォーカル自殺しちまったのか。ああやっぱりな、何かそんな気もしたよ。だってさ、歌詞読んだらすげえ退廃的でさ、曲調だって不満ぶつけてるような感じだし、こいつは死んでもおかしくねえな、って思ってたから。そういう奴って大低みんな死んでるだろ?……いや大丈夫。大丈夫だって。もう俺は自殺なんかしねえと思うし、もししようかって少しでも考えたら、そうだな、うん、またおまえに電話させてもらうよ。ほんと、ありがとう。それじゃあの睡眠薬は捨てちまおう。
 それじゃ、うん、ほんと長くなったけどさ、ほんとにありがとな。何て言っていいか解んねえけど、これからも、よろしくな。
 それじゃ、ほんとにありがとう。
 じゃあな、おやすみ。

(了)