『ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』

The Velvet Underground And Nico
“THE VELVET UNDERGROUND AND NICO”


 日曜日の朝、
 あたしは決まってマキの部屋にいる。
 マキといっても、男の名前だ。麻が輝く、と書いて麻輝、珍しい名前だし、綴りに関係なく読みはやはりマキなので、女の子と間違われることがよくあるという。実はあたしも、マキの名前のそういった特性を活かしてそこに出かける。女の友人であると嘘を吹き込み、出かけしなに「マキの家」と言いさえすれば親は安心して干渉しない。何せ、あたしはまだ十五だ。男がいて、そこにしょっちゅう入り浸っていると判ったら、厳しい父親にどんな仕打ちを受けるか判らない。
 だからあたしは、いつもこう言って出かけていく。
「マキの家、行ってくるね」
 そしてあたしは、今日もそこにいる。

 日曜日の朝、
 ベッドの中でマキがあたしの髪をやさしく撫で、その微かな刺激で目を覚ます。耳を澄ますまでもなく、部屋に音楽が満ちているのに気付く。オルゴールのような甘い響き、それに包まれてあたしは目を覚ます。マキが言うには、本当はチェレスタという楽器らしい。あたしはこの曲が大好きで、いつもマキに無理を言って何度もかけてもらう。
「マユミは、ほんとにヴェルヴェッツ好きみたいだね」
 ヴェルヴェッツ、マキはヴェルヴェット・アンダーグラウンドとかいうアメリカのバンドをそう言うが、あたしには呼び名は関係ない。チェレスタとオルゴールの違いも関係ない。ただこの部屋に、その絶対的な存在感を持つ音楽が鳴っていればいい。そしてそこに、マキとあたしがいればそれでいい。
 マキは何度もオルゴールの曲をかけてくれるけど、CDじゃなくてレコードなので両倒臭そうに見える。このレコード今じゃ貴重なんだぜ、とマキは言う。ジャケットのバナナがシールになってて剥けるんだ、そう続けながらバナナが一本だけ描かれたジャケットを見せる。でもあたしはCDだって構わない。レコードの価値なんて解らない。
 低い囁きのような歌声を聴きながら、あたしは煙草の煙をゆっくりとくゆらせる。その隣りでマキも火を点け、シーツも布団も壁紙も白い部屋は空気まで白に染まっていく。軽い陶酔感、一瞬だけあたしとマキが、誰もいなくて何もない真っ白の世界で生きているように感じる。低血圧と煙草の刺激が、あたしに少しの頭痛をもたらす。どうやら、今朝までずっと抱き合っていた余韻もまだ尾を引いているらしい。
「どうしよっか」
 マキが、煙で輪っかを作りながら言う。あたしはその輪っかに人差し指を突っ込み、掻き回してぐちゃぐちゃにしてしまう。そうね、どっか行く? そう言うあたしの舌は少しもつれている。太っているわけじやないのに、躰も重く感じられる。
 無言、
 言い合わせたわけでもなく、ふたりで煙草の煙を交差させる。マキの吐く煙の勢いが強くて、あたしの煙はすぐに吹き飛ばされてしまう。そのため、なかなかうまく交差しない。時々うまくX字状に交わると、ふたりできゃあきゃあ言って喜ぶ。どうせどんなに騒いだって誰も来ない。マキは母子家庭なので、母親も朝早く仕事に出てしまう。あたしの方も似たようなもので、両親は共働きだ。妹がひとりいるけど、母が出勤の際に保育所に預けていってしまう。だからあたしは妹と遊んだこともないし、両親と仲がいいという実感もまるでない。かといって、マキも底なしに好きというわけじゃない。ただ、一緒にいると安心できる。両親の愛が何だかんだと保健の教師みたいなことを考えなくて済む。
 はしゃぎ合っているうちに、うるさいギターの音が聴こえてきた。オルゴールの曲、あたしがそう呼んでいる次の曲までレコードの針が進んでしまったのだ。
「マキ、お願い」
 あたしがそう言うだけで、マキはもう一度オルゴールの曲をかけてくれる。あたしはマキのそういうところが好きだ。
 日曜日の朝、
 レースのカーテンから眩しい光が部屋に差し込んでくる中、あたし達はしばらくそうしていた。出かけることも忘れそうだった。

 買い物とか喫茶店とかで、適当にふたりで時間を潰して帰ってくる。駅の改札でマキと別れて、家に戻る。タ方六時ぐらいまでなら、決まって家には誰もいない。白いコンクリートの壁でできているマキの家と違って、木造で見るからに古い。
 あたしはあらかじめ受け取っておいた鍵で玄関を開け、家に入る。誰もいないからただいまも言わない。もし誰かいたって、あたしはただいまなんて言わないけど。
 台所と居間、一本の廊下を隔ててそれだけしかない狭い一階から、階段で自分の部屋のある二階にのぼる。二階にも、あたしの部屋と両親の寝室しかない。妹はまだ小さいので両親と一緒に寝る。
 木造と、粉が付いているような壁をめいっぱいごまかした部屋に入ってあたしは横になる。ポスターとか人形がたくさん貼ったり掛けられたりしているけど、どこか淋しい。音楽をかけようかと思うが、CDラジカセしかないあたしの部屋と違ってたくさんのスピーカーと大きなコンポがあるマキの部屋を思い出して、かける気をなくしてしまう。だからただ横になっている。煙草も、マキの部屋でしか喫わない。
 そうしているだけで夜が来る。夜は好きだ。やさしくてやわらかい日曜日の朝も大好きだけど、夜は冷たくて厳しい、そんな父親みたいなところが好きだ。それに夜は、日頃太陽の光でごまかされている何かを取り払ってくれている気がする。男女が抱き合えるのもそんな夜の雰囲気のせいだと思う。
 でも、夜になると両親が帰ってくる。それが少しうっとうしい。両親が嫌いなわけじゃないけど、毎目あたしの進路を訊いてくるからうっとうしい。母親は世間体を考えてか高校進学を訴えるけど、父親はやりたいことをまず考えてみろと言う。
 あたしは、やりたいことなんて何もない。強いていうなら、マキと一緒にいたい。
 でも、結婚するとかそんなんじゃない。結婚なんてしたくない。うちの母親みたいに、きっとあたしも働かなくちゃならないだろう。そんなのは、何となく嫌だ。妹の顔もろくに憶えていないという事実が、あたしをそんな気にさせる。
 そんなことをずっと考えたまま、あたしは考え疲れて眠くなる。それに低抗もせず、自然と眠ってしまう。夕ごはんを告げる母親の声が聞こえるが、食べても食べなくても、あたしは構わなかった。マキから電話がくることもない。ひとりになってまでベタベタするのが嫌なあたしは、マキがそれを理解してくれているのを知って少し嬉しくなる。嬉しくなって、眠ってしまう。
 明日から、また学校が始まる。

 学校では、あたしは保健室の常連だった。不慣れな月経がつきまとう中学生は、頭痛がすると言うだけで保健室に入れる。
 保健室で寝ていると、時々マキが来る。マキはあたしと違うクラスだけど、そうして保健室で会えるから淋しくもない。マキはあたしに会うために保健室に来るわけじゃなくて、あたしと同じくさぼるために来る。それが、逆に嬉しい。あたしに会うために保健室に来るのなら、きっとうっとうしくてマキと絶交してしまうだろう。
 あたしはきっと、ひとりでいたいんだと思う。マキとかクラスの子とか家族と一緒の時もあるけど、そんな時でもあたしはそういった小さな共同体じゃなくて、あたし自身、一個の人間でいたいんだと思う。
 今日も、マキが来た。ふたりとも少しだけしゃべって寝ていたけど、一時間もせず学校から出た。つまらないから、マキの部屋に行くことにした。そんなことはしょっちゅうだったし、煙草も喫いたかった。
 部屋に行くと、マキは机の引き出しから小さな包みを出した。
「いい物、見せてやるよ」
 開くと、その包みはメンズノンノのグラビアページだった。クラスのチイちゃんという子の兄が載ったとかいう話を聞いて、一回だけ買ってみたことがある。ちょうどそれと同じ号なので見覚えがあった。
「これ、あたしも持ってる」
 何の気なしにそう言うと、マキはいやに驚いていた。あたしは一度万引きをして現行犯でつかまったことがあったけど、その時の、店員に呼び止められた時のあたしと同じような顔を、今のマキはしていた。
「コナか? ハッパか?」
 やけに慌てた口調でマキが言っていた。あたしはマキが何を言いたいのか解らず、えっ、とあたしも少し慌ててしまった。だってこのメンズノンノのことだよ。
「これ、チイちゃんのお兄ちゃんが原宿で写真撮られて、それが載ってるんだよ」
 あたしがそう説明すると、マキは、そうだったのか、と妙に納得したように言いながら笑った。
「違うよ、これのことだよ」
 マキが指差した先、ぺージの真ん中あたりには何かがあった。ちょうど白い服を着た男の人が写っているところだったので解らなかったけど、それは何かの粉だった。
 何これ? そう言って人差し指で触って確かめようとすると、マキはあたしの手を握って止めた。これはすごい物なんだぞ、そう言ったマキの顔は、今まで見たこともない表情だった。悲しんでいるわけでも、怒っているわけでもない。何か、重大な秘密を明かすような決心めいた表情。そしてそこには、これから言うことは絶対黙ってろよ、という類の禁止を示す言葉が、言葉にされないうちに宿っているように思えた。
「これはね、ヘロなんだ」
 ヘロ? 力が抜けるような名前に、あたしはだらしなく目を開けたままそう訊き返した。するとマキはそのあたしの顔がおかしかったのか、ぷっと吹き出した。
 マキの話によると、それはヘロインらしかった。でもあたしはヘロインなんて名前も初めて聞いたし、何をするための粉か知らない。それをマキに告げると、マキは子供をあやすような口調で説明してくる。
「へロインはね、お医者さんとかが痛んで苦しむ患者さんに使う麻薬なんだよ。アメリカ人なんかも戦争で痛みと恐怖を忘れるために使ったらしいよ」
 麻薬、
 あたしの目が、急に見開かれた。へロインの名は知らなくても、麻薬は知っている。学校で煙草とシンナーと並び、まるで悪の根源のように教えられるからだ。それを教えるスライド写真にみんなは恐怖と嫌悪の眼差しを向けていたが、あたしは煙草を喫ったこともあったので、それと並列された麻薬に対してはみんなほど意味もない感情は起こらなかった。それに、それらが一方的に悪だという認識を植え付けようとする教師の意向が気に入らなかった。
 セックスすることは悪徳だと教えておきながら、それで子供を作る大人のいうことなんか聞きたくない。
 そんな反発意識もあって、あたしは興味深げにその粉を見詰めていた。すると無知なあたしの頭を撫でながら、マキは子供をあやすようににこにこと笑いながら言う。
「マユミは、まじめなんだね」
 どことなく馬鹿にされたような気分だったので、それどういうこと、と不機嫌そうに言ってみる。するとマキは煙草に火を点けて、いいじゃん純粋ってことだよ、と悪びれる様子もなく輪っかを作り始める。
「やったこと、あるの?」
 あたしがそう訊くと、マキはにやりと笑ってみせる。一回だけ、そう言うマキの表情はどこか誇らしげだ。きっと、セックスしたことのないクラスの子を見ているような心境なのだろう。
 どういう気持ちになるのかを訊くと、マキは煙草を消して思い出すように天井を見た。時々顎に指をやったりして、うーん、だとか、そうだな、なんて呟いている。
「とにかく、落ち着くんだよ」
 その言葉を皮切りに、マキは長々と説明する。どんなに苛ついてても落ち着いてきて、落ち着き過ぎて何もやる気がなくなっちゃうね。食欲も何もかも、欲という欲が消し飛んじゃう感じだよ。それで気が付いたら気持ちよくなってふわー、って浮かぶような感じがして眠っちゃうんだ……さっきの考えるような素振りはなんだったのか、と思ってしまうほどの勢いだった。それに具体的な話し口調だったので、意味もなく信頼できた。
 マキはきっと、誰かに話したかったのだろう。だけど自分の麻薬体験なんて誰彼構わず話せるものじゃないから、やっと話せたという感じなのだろう。でも、話しても構わない人間にあたしを選んでくれたのは少し嬉しかった。それだけ自分が信頼されているということだ。あたしなら誰にも話さないだろう、という彼なりの人選を、あたしはパスできたのだから。
 だからだろうか、あたしは止めなかった。教育者でもないし体験者でもないんだから、麻薬なんてやめろ、なんて偉そうには言えなかった。もし仮に、あたしがマキの保護者か何かで麻薬をやめろと言う立場だったなら、きっと説得力がなくて苦しんだだろう。
 あたしがそんなことを考えていると、マキはしげしげと見詰めてきた。
「マユミって、落ち着いてるよな」
 何か同じ中学生だって思えないよ、そう言って笑うマキに、あたしは苦笑いにも似た笑みを返した。
「あたしが落ち着いてるんじゃなくて、みんなが騒いでるだけよ」
 マキが、止まった。
「だってそうじゃない? みんな昨日は今日はああだこうだって言ってばかりで、生きてくうえで関係ないことばっか言ってる。つまんない人間関係保つために一生懸命になってる。あたし、それが馬鹿みたいでしょうがないのよ。あたしがマキと一緒にいるのは、安心できるし気持ちいいし、あたしにとっていいことづくめだからよ」
 こんなこと言ったら怒るかな、と思った。でもマキは話を聞き終わってからひとりで頷いて、納得している様子だった。
「そうだな」
 ちょっと言い方きついけど、すごい解りやすいよ。そう返事して、少し黙ってからマキは急に抱き着いてきた。
「おまえ、いい女だな」
 そう言って、あたしの頭をまた撫で始めた。
「こーんな小っちゃな頭だけど、すごいもんが詰まってるんだね」
 マキの手はあったかくて、気持ちよかった。やってみる? というマキの問いに、あたしは黙って頷いた。
 興味はあったけど、どこかさめていた。

 マキが注射器を手に入れたのは、保健室からだという。さぼりついでに物色していたら見付かったのだそうだ。
 その先をアルコールの染みたティッシュで拭いて、あらかじめ水に溶かしてスプーンで沸騰させておいたヘロインを吸い取る。その作業はもちろん初めて見たものだけど、妙に面自かった。正直なところ、マキが手慣れた仕草をしてみせようとしているのは気に食わなかった。
 スプーンに溜まった水分が、注射器の中にきゅっと吸い込まれでいくのが綺麗だ。
 マキはアルコールのティッシュで、あたしの肘の裏を強くこすった。痛いぐらいこすった。こうしないと雑菌が入っちゃうからな、そう言いながら今度はゴムで腕を縛る。するとあっという間に肘の裏には太い血管が浮かんだ。
「よし」
 そう眩いて、マキは注射を持ち出す。
 あたしの心臓は少しドキドキしていた。でも初めてセックスした時ほどじゃない。大したものじゃなさそうだ、という思いが先走って期待感がなかったからだ。
 短い痛み、
 その直後、液体が流れ込んできた。でもその実感はなく、急に体温がぶわっ、と上がるような気持ちだった。全身があったかくなって、頭の中が真っ白になった。さっきまで考えていたセックスと期待が何だかんだというものも全部吹っ飛んでしまい、何も考えられなくなった。でも気持ちが悪いわけじゃなく、かえって気持ちがいい。躰が溶けていくような、とろとろとした快感だった。
「な、いいだろ?」
 マキは自慢気な表情であたしの腕のゴムを外して、今度は白分の分の注射を作る。でもその粉の量があたしの数倍はある。視界がどんよりとして霞がかかったようになっていたものの、それはよく解った。
 言葉が、出なかった。そんなにやって大丈夫なの? といった類の言葉を口にしようとしても、面倒になってしまう。それにろれつが回らないような感じがして、うまくしゃべれない。
 熱くなって、あたしは服を脱いだ。全部脱いで、よろよろしながらベッドの上に寝転がった。座っているのも億劫になっていた。
 不意に、オルゴールの曲が聴きたくなった。マキにそれを告げようとすると、おうごうふ、なんていうふうにしか言えない。舌が回らない。それでもマキは解ってくれたみたいで、バナナのジャケットからレコードを取り出してあたしに見せた。
「ごめんな、俺はそれよりB面の頭の曲が好きなんだ」
 いつもはA面、それも一曲めのオルゴールの曲しか弾かせてもらえないレコードが、B面を演奏し始めた。あたしは、それを初めて聴くことになる。
 その曲は静かな始まり方で、時々ドン、とドラムの音が聴こえた。でも、どうでもいい気分だった。ただ横になっていれば気持ちよかった。
 囁くような歌い声が、始まった。
 あたしの目の前ではマキが注射を刺している。曲が少し早くなる。マキが注射を押す。少し静かになって、また少しずつ曲が早くなる。マキの全身がぶるんと震える。静かになる。くあああああ、マキが気持ちよさそうに声をあげる。曲がまた早くなる。ギターとかノイズみたいな音がかぶさっていく。
 あ、
 マキが、そう言って突然動かなくなった。
 スピーカーから、忙しいドラムやギターやノイズがどん、どん、がち、ぎゅいー、なんて音を立てる。マキは動かない。左腕に注射を突き刺したまま、床に寝そべって動かない。その風景も、霞がかかったような、時々溶けていくような感じでしかあたしの目には映らない。マキが生きてるのか死んじゃったのか、それもわからない。わからないし、確かめる気にもならない。全身の力が弛緩するような感じがして、何もする気にならない。
 曲が、ゆるやかになって終わった。
 本意に、曲の中で何度も歌われていた単語が頭の中に浮かんだ。
 へ・ロ・イン、
 確かに、そう言っていた。
 あたしは全部が、面倒になった。動かないマキをどうにかするのも、服を着るのも。もしマキがこのまま動かないままだったら、あたしはどうなるんだろう。麻薬が見付かってマキは動かなくてあたしは裸であたし達は親に内緒で付き合ってる。でも、それが何だというのだろう。
 どうだっていいや、
 日曜日の朝、それにこの感覚は似ている。起きたばかりの日曜日の朝。頭が重くて、でもそれは決して不快じゃない。
 あたしは、重くなった瞼を閉じた。いっそこのままマキみたいに動かなくなっちゃえばいいとも思ったけど、きっとあたしはまた目覚めるだろう。目覚めたら、親には高校に進学する気はないって正直に言おう、そんなことを考えていると、眠くなった。
 そしてそのまま、あたしは眠った。

(了)