31.洋楽至上主義者と流行嫌悪
〜大衆を「否定」してはいけない〜
最近はプログレ関係も再発が進み、知る人ぞ知るレアなバンドや音源も聴けるようになった。それでもすぐに廃盤になってしまうことも多々あるが、以前よりずっといろいろなものが聴けるのは確かだ。
プログレに限らず、洋楽・邦楽を問わず、そうした傾向は強い。有名バンドのレア音源や、伝説とされたアンダーグラウンドなバンドも音源が手に入るようになった。その一方で流行主体のポップ・ミュージックは値崩れを続け、オリコン上位のものは翌年にはワゴン・セールに直送されることも珍しくなくなった。
こうした風潮がマニア嗜好のリスナーを増やし、少しでも音楽が好きだと売れ線ポップを馬鹿にする傾向が強くなってしまった。
中でも顕著なのが、洋楽至上主義者によるJ-POP批判だ。寧ろ「否定」さえしている者も少なくない。
彼らは洋楽こそがオリジナルであり、邦楽はその模倣を繰り返しているに過ぎないと主張する。そのうえで今のJ-POPはカラオケ主体の流行音楽に成り下がっていると言う。
確かにその通りであり、それが現状だ。実際に邦楽(ご承知かと思うが、ここで言う邦楽は所謂「J-POP」であり、伝統芸能的な「邦楽」ではない)は洋楽の流行要素を輸入し、日本人に受け入れやすい味付けにする再生産を続けてきた。何も今に始まったことではないのだが、安くない輸入盤を細々と買って感性を研鑚していた過去と違い、ネット経由で容易に最新の音楽が手に入る現在は、模倣はあっさりタネがバレる。先端の洋楽の模倣がバレるなら音楽的に成長したい意向が見られるのでまだしも、最近の邦楽マーケットは過去の邦楽の焼き増しも平気で行うようになってきた。
一例を挙げるなら、私はGIRL NEXT DOORの登場に落胆した。エイベックス全盛期のディスコ・サウンドに、そこそこの容姿と歌唱力の女性ヴォーカル、強いメッセージでもない雰囲気主体の恋愛歌詞……いかにも「時代を反映して無難に売れそうな存在」を捏造しているように感じられた。リリースを重ねても音楽性が発展することはなく、かといって大衆に受け入れやすいものなので、爆発的に売れなくとも無難な売り上げをキープできる。そのため彼らが現れた時には、私は「もうJ-POPというものは新化する余地がなくなってしまったのか」と嘆いた。
しかし私は、彼らを「否定」はしない。無難な存在であっても、需要があることは確かだからだ。だが音楽的に見てまるで語るべきところもないと思っているし、間違っても彼らを「アーティスト」とは呼ばない。売れ線歌手としては認めても、音楽家として、あまつさえ芸術家としてなど決して認めない。ところがそんな存在も気軽に「アーティスト」という言葉でくくられるのが現在のJ-POPの現状だ。
こうした傾向に必要以上に反応しているのが、洋楽至上主義者だ。彼らは邦楽が流行狙い前提であることを槍玉に挙げ、やたらと嫌悪する。友人間でそうした曲ばかりが流行ると、洋楽を聴く自分だけが音楽に対して真摯であると思い込む。そして自分はマニアックであると主張し、他者の持つ一般性を否定するようになる。
これは音楽というものが好きであればあるほど、危険な行為だ。もとより「マニアック」という見解は、真逆の「大衆受け」というものを知らなくては実感できない。単純に世間的に売れていないからマニアック、というわけではない。さらには、マニアックだからといって音楽的に優れているという証拠もない。大衆受けしながら実験性が高い音楽も多く存在する。J-POPにくくられても、「アーティスト」と呼ばれることを嫌っていたり、本当に表現をしようと試みているミュージシャンもいる。
しかしそれ以前に、洋楽至上主義者は理解者がいないことを孤高振って楽しんでいるようにも見える。そのうえで大衆感覚の他者を否定し、自分こそが音楽というものの理解者であると誰にでもなく訴える。そうすることで、自分は本当に価値ある音楽を好んでいるように錯覚できるから。
これはプログレ・リヴァイヴァル以前の「プログレ馬鹿」によく見られる傾向だった。それと同じことが、より垣根の低くなった「洋楽」というくくりで行われている。
現に、中高生ぐらいの世間に流されて仕方のない頃の若者は、大半が売れ線J-POPを好んで聴く。それこそが身近な存在であり、共通の話題となるから。しかし中には、それを毛嫌いして洋楽を聴く者もいる。それが純粋な洋楽への入り口であるならいいのだが、売れ線J-POPを否定したいがために「音楽武装」しているきらいが強い。そうでなくとも、若い頃から邦楽を馬鹿にしてきて、中年を過ぎても洋楽しか聴かないと言い張る者も少なくない。
あなた方の言いたいことは解る。しかしそれらを「時代」として見詰めた時に、虚しくはならないだろうか? せっかくリアル・タイムで体験できた筈のものを、毛嫌いしたために思い出としても語れず、旧友との話題にもできない。その度に相手を「君は音楽的に浅い」と否定し、自分にすがる。それを、もったいないと思えないだろうか。
どんなにくだらない売れ線でも、売れるには理由がある。その理由は、その時代時代でないと理解できないものが少なくない。時代に関係なく、個人で価値を見出すのは音楽を楽しむには大切なことだ。だがその思いが先走って、否定に回ってはいけない。否定とは、対象を鑑みもせずに却下することだからだ。
それに歌詞の面で言えば、ネイティヴにしか理解できないものが確実に存在する。外国人を主とする現地の言葉に長けた人にしか洋楽の歌詞を本当に味わえないように、邦楽の歌詞も日本人にしか味わえない。味わえても、表面的な理解、即ち誤解レヴェルで止まってしまう。
私はニルヴァーナが大好きだが、カート・コバーンの歌詞をリアルに味わうには、あの時代にあの精神状態で過ごした人間にしか味わえないと思っている。追体験や訳者による訳詞では、奥底までは味わえない。所詮、雰囲気を感じ取るだけのイメージ操作に終わる。その逆で、中村中の両性的な歌詞の真髄は男性・女性の両方の感性を持っている日本人にしか味わえない。大衆音楽の歌詞や曲は、もともと大衆に向けて書かれたものであるので、大衆に受け入れられるようになっている。だからこそ売れ、共通の話題になりやすい。そうした仕組みも見えず、自分の好きなものばかりを肯定するのは、流行音楽を支持する人間と本質的に同じだ。だというのに、価値があるから歌詞にメッセージ性があると思い込んでしまう者も少なくない。それこそ思い込みであり、表面的な理解の兆候だ。
なお、こういったことを書くと、「理解者気取ってやがる」と揶揄されることがあるが、少なくとも理解しようという姿勢を見せているのは悪いことではないだろう。最初から斜に構えてニヒリストになってしまうよりは、拙くとも対象を理解しようとつとめていることになるのだから。それを滑稽だと笑う連中には、笑わせておけばいい。ニヒリズムは自分に都合のいい側面しか見られない、自己愛の極北だ。
洋楽至上主義者は邦楽を流行音楽と決め付けて否定するが、アメリカやイギリス、ひいてはフランスやイタリア、インドやアフリカまで、売れ線の大衆曲というものは存在する。ただそれらが日本に紹介されていないだけで、日本と同じように売れ線を狙ったものも存在する。プログレの範疇で言えば、ドイツといえばジャーマン・ロックに代表される暗くて難解なものをイメージしがちだが、それは類型的なプログレが出尽くして、より奇抜なものを必要とした当時の日本の市場を考えたうえで紹介されたものがそういったものばかりであっただけで、実際には現地で大流行したポップ・ソングも多々あったのだ。日本と何ら変わらない。
個人的な例を挙げれば、私は椎名林檎が好きではなかった。デビュー直後は注目していたが、すぐに爆発的に売れて盲信者が急増したので、音楽性を評価する以前に嫌になってしまった。しかし、否定したわけではない。音楽的に豊かであり、表現を心がけているのはよく解っていた。だがそれ以上に大衆が神格化し、必要以上に騒ぎ出したため、椎名ではなくそのファンに嫌悪感を示し、聴かなくなっただけだ。一時期CCCDを導入せざるを得なかったことを苦悩し、再発の再にはCDDAにて再プレスする、という姿勢に好感を覚え「林檎ちゃんはやっぱアーティストだったんだな」と再認識した。洋楽で言えばBECKあたりも、いいとは聞いていたがファンが持ち上げるためしばらく聴く気になれなかった。しかしどちらも聴いてみれば、音楽性が豊かなことは一聴瞭然。売れていながら、姿勢はしっかりしている。そういう例も中にはあるのだ。売れているからといって即座に否定的になってはいけない。ましてやそれを好むリスナーを軽蔑してはいけない。
「音楽的に優れている」ことと「売れている」ことは余り関係がない。結局は表現者の姿勢と、受け手の解釈によるものだ。だから、売れていないから駄目だとか、売れているから駄目だとか、一方的に決め付けてはいけない。売れるには理由があるのだし、その理由はリスナー本人の価値観と一致しない。
だから個人の嗜好を尊重することができず、同じ話題でないと交流がはかれないグループに属しているならば、自分だけがマトモだと思い込むのではなく、彼らの好む音楽を吟味したり、別の音楽の話題を提供すればいい。それを彼らに否定されるなら、その程度の仲であり器であるということだ。しかし前述のように、売れている曲こそがその時代の思い出の曲として語られることは承知するように。自分がアウトサイダーであることを認識してしまうのと同時に、大衆はどうであるのかを探る感性も持っていなければいけない。そうでなければ独り善がりな偏狭者で終わってしまう。わからなければいっそ、付和雷同せず「私にはいいと思えないんだけど、何がいいの?」と訊いてしまえばいい。それもできずに陰で貶すのは、本当に「音楽が好き」なら取ってほしくない態度だ。
もっと厄介なのが根底からのジャズやクラシックのファンで、彼らはジャズやクラシックが一種の権威であるように思い込み、ポップ・ミュージックそのものを否定、あるいは嘲笑することが多い。少しも鑑みることなく、ポップ・ミュージックであることで聴く価値がないと切り棄てる。もちろんそうでない人も多いが、入り込むと、そういう価値観に陥ってしまうファンが多いことは否定できない。ロックやポップスのリスナーは、そうなってしまわないよう気を付けなければいけない。いろいろな感性を磨けば、いろいろなものが楽しめるようになるのだ。
幸い、他ジャンルとのクロスオーヴァーは、主にロック/ポップ・フィールドを中心に行われる。伝統を重んじるクラシックは再現こそが表現であり、ジャズがそれをすると馬鹿にされる。そのため新しい手法を持ち込んだストラヴィンスキーやマイルス・デイヴィスなどは賛否両論を読んだ(しかしのちに認められ、ひとつのイコンとなった)。
その点ロックは、ジャズからクラシックも音楽的要素を貪欲に取り込み、ピーター・ガブリエルの例のように民族音楽を広める場にもなった。電子音楽や独自の実験性も取り入れ、流行を我が手にした。それに何より、根本は大衆音楽なので偏狭なファンが少ない。鋭い感性の音楽ファンは、実はロック/ポップ・フィールドのリスナーが多いように思える。同じフィールドでのみ探り合うジャズやクラシックと違ってジャンルに固執せず、柔軟な感性を持つように育っているのだから。
そんなに恵まれた環境にあるのだから、情報や雰囲気だけで決め込まず、まずは味わってみてほしい。そのうえで「自分には」価値がないと決めればいい。大衆を無視して「まったく価値がない」と言い切ってはいけない。それをしたら、ポップ・ミュージックを全否定する権威主義者と同じだ。
所詮、価値などというものは個人レヴェルの観念であるのだから、それを押し付けようというのが間違いなのだ。理解者がいなければ孤高に振る舞ってもいい。だが否定的になるなかれ。いつか否定していた音楽を耳にして、何だ悪くないじゃん、と思うこともあるだろうから。
シド・バレットの歌に涙してしまう者がいるように、流行の恋愛ソングで泣いてしまう者もいる。
つまりは、リスナーごとの音楽的バックグラウンドにより育まれた感性の違いだ。それを安っぽい涙だと、一般に生きる者を馬鹿にしてはいけない。寧ろそちらの方が世間的には大衆であり、大多数であるのだから。それ以前に涙の重さは同質だ。これは映画や小説、漫画などすべての表現に言えることだろう。
大切なのは、尊重し合うこと。
批判ならまだしも、決して、否定してはいけない。わざわざ否定するぐらいなら、無視した方がマシだろう。
そうして洋楽・邦楽という枠にとらわれず様々な音楽を聴いて、感性を磨いていってほしい。自分の意見を通したいがために、事実や関係性を無視して、憂さ晴らしに匿名掲示板に否定書き込みをするような人間にはならぬように。
この文は寧ろ、若くして洋楽に目醒めたロック・リスナーに向けて書かれたものだ。