30.コンピ乱造の現状と実態
〜「作品」ではなく「商品」ばかり〜
トリビュート盤が乱造されたあたりから感じていたことなのだが、改善されるどころか改悪され続けているのが現状なので、今さらの感が強いが本稿を記すことにする。
いわゆる「コンピ」と呼ばれる編集盤についてだ。
同じオムニバスであっても、トリビュート盤は対象や演者、そのアレンジを求めて聴くという、どちらかというとマニア相手な性質であるのに対して、気軽にコンピと呼ばれる編集盤はライトなリスナーをターゲットとしている。しかも、音楽よりも流行を追いたい一般層に確実な需要がある。だからそれなりに売れてしまい、粗製乱造が酷く、やがて中古市場に溢れる。音楽表現、あるいはCDという媒体を「消費物」として利用しているのが現状だ。
「コンピ」などという軽い語感や意味になる以前の「オムニバス」と呼ばれた編集盤は、それなりに意義のあるものが多かった。そこでしか聴けないレア音源集、注目新人達のプッシュ、レーベル代表ミュージシャンの紹介、コンセプトのしっかりした企画盤……など、それぞれに独自の意味があった。しかし今のコンピには、ただ「売れた曲」という単純かつ殺那的な価値観しかない。まるで現在の音楽シーンを物語っているようだ。
ヒット曲は、シングルが売れている最中は版権がそれなりに高いが、ピークを越えると殆どは急落する。そこでレコード会社はそれをもう一度儲けに使おうと目論み、ピーク直後や懐かしく聴ける頃にまとめて編集した盤を作るのだ。自社の曲だけでまかなえるならさらに数段安く作れるので、手間も金もかからない。
レア音源などは購買層が限られているため、版権はそれなりに高く、それ以前に許可が出ないケースが多い。創作者であるミュージシャン本人が頼んでも叶わないこともままある。
音源を所有しているレーベル内では比較的意見が通るが、廃盤やレーベルがなくなったり跨いだりすると管轄が複雑になり、過剰な金銭も発生し、本人でもコントロールできなくなる。よく「本人が希望していない編集盤」が出たり、引っ張りやすい曲ばかりの「ファン投票によるベスト盤」が尊重されるのはこういうところに理由がある。
そうしたことを見越したのが、オノ・ヨーコだ。
彼女はジョン・レノンの絶対的な信頼によりビートルズの「レノン/マッカートニー」曲の所有権(というより使用権)すべてを管理し、消費コンピにはいっさい収録させない。ジョンのソロ曲の権利はほぼ完全に所有している。ビートルズ楽曲の使用権自体はマイケル・ジャクソンが買い取っていたのだが、マイケル自身もそれを使うことなく亡くなってしまった。CMすらビートルズのオリジナルはヨーコを通さないと使用できず、また可能でもかなりの使用料を吹っ掛けてくるので、ヨーコも認めて出演までした「FUJIFILM」CMなどの稀なケースを除いて、コンピやCMのビートルズ曲はカヴァーばかりだ。
ビートルズのメンバーであり、ソングライティングの中心だったポール・マッカートニーでさえ「名義上共作になっているけど、作ったのは僕なのに」と不満を漏らして物議を醸したように、人によってはこのヨーコの姿勢がケチだの強欲だのに映るだろうが、これは当然の自己防衛ではないだろうか。ビートルズは誰もが知っている存在なので、版権を安くして安易な編集盤にも収録できたら、我も我もと飛び付いてくる。その結果、気軽に耳にできるようになり、オリジナル・アルバムがさっぱり売れなくなる。誰でもベスト盤はある程度売れるように、大衆は作家性云々以前に、手軽に「有名な曲」や「売れた曲」をまず聴きたがるのだから。
それ即ち、商業主義に利用されることを認めたことになる。そうして目先の小銭を目当てに、「いい曲」ではなく「売れる曲」を作るようになる。
このように、安易な編集盤は、ミュージシャン自身の表現の低質化に繋がるのではないだろうか。今となっては、マイケルが利益に先走ってビートルズ楽曲を安易に使用しなかったことに安堵してしまった。これから権利がどうなるかわからないが、それでもまずヨーコを通さないと使用できないというのは有名な話だ。
これを記している現在、松任谷及び荒井由実の、いわゆる「ユーミン」の提供曲をまとめた編集盤が一部で話題になっている。これは実に有意義な編集盤だと思われる。ブランド・イメージからそこそこに売れることは見当が付くし、それ以前に、きちんとしたコンセプトがある。そのため本人が歌っていない曲をいちいち集めるのは面倒だと思っていたユーミン・ファンは、ようやく気軽に手を出せる。すべての音源を持っていたコアなファンには不満かも知れないが、これを機会にユーミンの作家性に気付ける人も増えるかも知れない。
似た例で少し前には、私は音楽的に好きではないが、Ne-Yoという黒人シンガーの提供曲集が出たことがある。レコード会社の性質や、彼の新譜が出ていた頃なので便乗商品な感は否めなかったが、それでも彼のファンにとっては有意義な編集盤だと思った。好きではないのに、少し好感を抱いた。
それは意味や価値が薄くなってしまった編集盤というものに、久し振りにそれらを感じたからだ。
こうした「コンピというより編集盤」がもっと出るようになれば、表現者を深く理解し、楽しめるようになるだろう。しかし、それは願望でしかなく、実際にはそんなマニア嗜好のものより、いろいろな人の代表曲を手っ取り早く知りたい人の方が断然多いだろう。私自身、開拓していないジャンルの入門用コンピがあればそれを聴くだろう。有名曲を手軽に楽しめるのも悪くないと思う。ましてや過去のヒット曲を今さらアルバムごと一枚ずつ集めるなど面倒だし、それならコンピの方が経済的だと思う。それこそが一般庶民的な感情だということもわかる。
刹那のリスナーは「そのミュージシャンの作品が聴きたい」のではない。
結局は「その人の代表曲やシングル曲を知りたい」だけだ。
だから需要があるのは理解できるし、聴く人を決して差別などしないが、真摯な音楽ファンを自称している人には安易な編集盤は余り手を出してほしくない。まるでレコード会社の意向で既発音源だけで編まれたベスト盤を買うようなものだから。
無論、そんなに意識して音楽を聴いている人ばかりではないだろう。寧ろ『R35』のように、中高年になった層が青春時代を懐かしんで手軽な編集盤に手を出すケースが多いだろう。
ただ、短いサイクルで殺那的に流行歌をまとめたコンピが多いのが気にかかる。つい半年前に出た曲をまとめた盤などが。そうやって目先の儲けを求めておきながら、CDが売れないと嘆くメーカーは軽蔑する。それに利用されてしまう若い層の音楽観に、危惧を抱く。
今やジャズでさえコンピが多く、クラシックなどそれが当然だ。つまり大衆は、模索が面倒な「自分にとって良いもの」よりも、世間で認知されている「一般的に良いもの」を手軽に求めている。または、利益優先のメーカーにより大衆の感覚がそうなってしまった。入門用の入り口としてそれを利用するのではなく、最初から「ベスト」を求めるようになってしまった。ベスト盤ばかり集めて音楽的素養が広がっていると思い込むリスナーと同じである。
そうした行為は、表面だけ見て本質を理解したつもりになっているも同然だ。情報を知識としてしまうような価値観だ。
「木を見て森を見ない」という文句があるが、これは真逆で「森を見て木を見ない」行為だ。
しかし、それで事足りてしまうものが多いのも、現在の音楽表現の実情だろう。友人や同僚の話題になれば、カラオケのレパートリーになればいい。ジャズやクラシックは有名な曲だけ知っていればいい。そうしたライトな感覚のリスナーが中心になっているのが実際のところだろう。
大衆を熱狂させるのではなく、そう妥協させてしまう作法がまかり通っているのが、現在の音楽シーンとリスナーの実情だ。
無論、何事にも熱心なファンはいる。しかしそれに較べて、ライトなファンが断然多い。中古で買うのが当然になった漫画や小説と同じように、もはや音楽も消費物になっている。
それは似たような新人が溢れ、音楽的にも進歩がなくなり、人気商売のタレントが歌を出しただけなのに「アーティスト」と祭り上げた結果だ。
そして彼らは、売れた瞬間しか注目されず、その時点でのみ語られる。そのため根強いファンが多く存在しても、テレビに出なくなっただけで「一発屋」扱いされる。何せ、爆発的人気を呼んだPerfumeでさえ「ポリリズム」のイメージだけでとらえて、テレビに出る機会が減っただけで「あいつら一発屋だったな」と言われるご時世だ。
そうなることを避けるため、人気優先の人々はヒットする安易な曲を作るようになり、のちにコンピとしてさらに安易に利用される……という悪循環が、特に今のJ-POPシーンの実態だ。もともと売れっ子にもらった曲を歌っているだけで作家性など皆無なのだから、売れなくとも表現したい、というハングリー精神は時代に合わない。だがことあるごとに自分を「アーティスト」だと公言する。そうすることで、自らの尊厳が保たれるから。
そういう「表現者気取り」を増やすのにも、売れたばかりの曲を再利用する安易なコンピが一役買ったのは紛れもない事実だ。
安易なコンピはライトな音楽ファンとアーティストもどきを急増させた。
それは目先の利益を優先したメーカーの責任でもあり、それにより音楽表現というものが衰退、あるいは価値観が平板化する結果になった。
しかし彼らは言う。
「CDが売れなくなったのは無料の動画サイトや携帯音楽プレイヤー、それにまつわる違法ダウンロードのせいだ」
ならば、レンタル屋はどうなる? もちろん違法コピーに責任転嫁するのだろう。貸しレコードのカセット時代からダビングは行われていたのに、今さらそれを言い訳にするのは余りに都合が良過ぎないか? 少なくともレンタル利用での私的複製は違法ではないのに。
リスナーがCDを買わなくなった大きな原因のひとつは、どうしても本物が欲しいと思わせる作品がないからだ。
本当に欲しいものは、コピーではなくプレスCDで欲しくなる。しかし今は、新譜はそうでなくとも構わない作品もどきばかりで、過去の作品も安くならないまま絶対数が多過ぎるので、若いリスナーは追い付けない。
それでも熱心なファンだけは、CDを買う。しかしそうした層を無視し、刹那の売り上げのために流行歌を集めたコンピを乱造した。
その結果が、これだ。
いつぞやのコピー防止CDもどきに似た感慨を覚える。
あなたは「商品」が欲しいのか?
それとも「作品」が欲しいのか?
つまるところ、それに尽きるのではないだろうか。
消費者として居直るのではなく、飽くまで音楽ファンを自称するならば、一度は考えてほしい。
ユーロビートに狂った人がどうなったか? その後継のパラパラやトランスは? 一時期飽きるほど出ていた出ていたヒップホップやクラブ・ミックスのコンピは?
それらの必要性を否定こそしないが、それが表現を詰めた「作品」である以前に、刹那の快楽に価値を求めた「商品」だったと思わずにいられない。それと同じ、あるいはそれ以上に近しい音楽で、同じことが繰り返されていることを認識してほしい。そうでなければ粗悪コンピは乱造を続け、ますます音楽表現は使い棄てになってしまう。
それでも、
好きな歌手やミュージシャンだけはその人自身の作品を買う、まっとうな音楽ファンがまだ根強いことを祈り、そして信じたい。そうでなくては、真摯に表現している人にとってこの現状は余りに悲惨過ぎる。
一曲だけ聴きたいなら、レンタルでもいいからせめて本人のシングルを聴こう。そうした積み重ねが、彼らとその音楽、ひいては音楽シーン自体を守るのだから。
そう提言して、人によっては消費者感覚を蔑視するかのように感じられるだろうこの文を終える。
*追記*
様々な日本の名曲を「とにかく踊れる」だけにリメイクした『和ユーロ』なるコンピがあり、そこではあの「川の流れのように」までもがペラペラのギャル歌唱のユーロビートになっている。
これを私は、名曲に対する冒涜であるととらえる。バックグラウンドも世間の評価もリスペクトもすべてなく、ただノリだけに改悪しているのを、リミックス以上の原曲への侮辱だと改めて認識した。