25.CCCDに「否」と申す

〜私的感情のみならず〜

[序]

 今まで、コピーコントロールCDについて思うことは幾多とあったし、コピーコントロールCDの問題点は多く見詰めてきた。しかし、それを口にするのは早計と思い、ここでの発言を控えていた。「CDが焼けないなんて!」という私的感情だけでは、まったく説得力にも欠けるだろう。それに「音質がねぇ」という意見を追従させたところで、CDの違法コピーができない不満へのスケイプゴートのように聞こえてしまう。
 そこで、今回はコピーコントロールCD(以下CCCD)について筆者の思う部分を記述する。何かしかの新しい問題が現出すれば、ここに微細ながら書き足されていくかも知れない。そうした手間を惜しまないほど、筆者はCCCDを嫌う。
 筆者は、国内CCCD第一弾となったBoAの『Every Hear−ミンナノキモチ−』からずっと様子を見てきて、また実際に見聞きしてきた。幾人かの「CCCD反対派」の意見も読み聞きした。そうして常に違和感というか、煮え切らない思い、納得のいかないモヤモヤを感じ続けてきたのだが……喩えばシガー・ロスの『( )』を筆頭に、自分の好む分野の音楽にも導入され始めてしまった今にして、ようやく筆者のCCCDに対する指針が出た。
 それは「否」。
 どう考えても、肯定的になれない。
 そこには、様々な人間の「エゴ」しか見えてこないのだ。エゴの主はメーカーであり、リスナーであり、また保護対象となった表現者でもある。全員が全員、エゴを剥き出しにしているようにしか見えない現状が、とても悲しい。
 では、筆者はなぜこの三者ともにエゴイスティックだと主張するのか?
 それを以下に、幾つかの見出しにより分類、記述した。それらをもってして、筆者は「CCCD否」であり、かつまた「どの主張も説得力不足」と考えているとしたい。ただ、筆者のスタンスはもちろんリスナー(消費者)であるので、リスナー寄りになっている部分が大きいのは当然としたい。


[購入者の権利剥奪]
 購入者は、CCCDの曲からはCD-Rへの編集さえできない……ことにされている。ただ既存曲を並べ直しただけのベスト盤だったら買わず、手持ちのアルバムから抜粋して独自のベスト盤を作りたい人だっているだろう。筆者は(手間や居住スペース確保のため)シングルスやアルバム未収録曲集などをCD-Rで独自に編んだり、楽しみとしてカット・アップした断片を繋げた組曲を編むことをよく行うのだが、そうした楽しみも許されないというわけか。それとも様々なクオリティが落ちるMDやカセットにせよという強制なのか。
 どうして自分で金を払って買ったものさえも自由に使わせてくれないのか? コピーを防ぐためであれば、それ以外の権利ごと剥奪してしまって良いのか?……といった「権利の剥奪」が、大体の購買者の中にある「モヤモヤした嫌な感情」の原因ではないかと思われる。二次利用を防ぐために一次利用さえ制限され、レンタル落とし(焼き)を防ぐために購入者をも巻き込む図式。これは一方的であり、言ってしまえば暴力的強制にも等しい。
 そもそも、著作権法第30条には「基本的に個人や家庭内など限られた範囲内で使用する場合という前提において、著作権者に許諾を得ることなく著作物の複製(コピー)を認める」という意の文面がある。現在、音楽CDほかの著作物はこれを大前提として成り立っているので、基本的にはこの前提さえ守れば著作物を複製することができる。だから自分のために作るのであれば構わないのだし、そのため筆者のように編集CD-Rを作って楽しめるわけだ。本だって同じことで、自分用にコピーするのはまったくOK。
 以前から、危ないながらもこの一線は守られてきたのだがね。カセットなりMDなりでも、同じように。それがCD-R発達を口実にするというのは、いささか納得がいきかねる話だ。

[音質低下]
 計器などではなく人間の耳でもそれと解るほどに、一般のCDに比べてCCCDは音質が低下している。筆者としても尖ってキンキンした音質という感を受けており、もしやMDなどと同質程度のものになっているのでは? という意見もある。また聴き続けていると、圧縮されたMDや不可聴領域をカットしたMP3のように「頭痛がするような感じ」に見舞われる者もいるという(と書いておいたら、筆者自身が東芝EMI発売のレディオヘッド『ヘイル・トゥ・ザ・シーフ』でそれを実感、中盤で停止しちゃったよ)。また特筆すべきはマスター・ヴォリュームが低い傾向にあること(筆者はエイベックスのものを基準にそう感じた)。これは最も感じやすい形で、音楽の説得力不足に繋がる。だがこれはマスタリングによるものと思われるのだが……似通ったエンジニアが手がけているのだろうか?
 現状でのCCCDは上のような状態だが、今後は明らかに劣っている音質の向上が計られるだろう。音質向上CDが常識の中にあって、これらはいかんともしがたい状況なのだから。音質にこだわるリスナーから「後に『CCCDだった盤がSACDで復刻!』なんてことにならないか?」という冗談めかした会話も聞かれているが、そんな馬鹿げた展開を生まないことを望む。
 現在、CCCDの音質向上は実際に図られている。一部では「計器上では」通常CDと同じぐらいになる技術を、自社カッティング技術「K2」を持つビクターが開発したそうだ。だがそれが各社で実現、軌道に乗ったところで、前後述のように他にも問題点は山とある。音質を向上させただけで弁明になる、ということはないことをお含み頂きたい。筆者は、音質が通常CDと同程度か、もし仮にそれ以上であっても、CCCDは購入しないだろう。

[CDエクストラほかとの共存不可]
 要はCCCDもCDエクストラ仕様、エンハンストCDなどと同じく「細工を施されたCD(=厳密にはCDではない)」なのだが、困ったことにそれらとCCCDとでは組まれている信号が異なるらしく、同じCD内に同居はできない。そのため「コピー可能ながら表現手段が拡がるCDエクストラ」を選ぶか、「コピー不可のために表現の一手段を放棄したCCCD」を選ぶか、の選択を「アーティストと呼ばれる人々」は迫られるだろう――そこまで考える「アーティスト」であれば、否応なしに表現手段の拡張を選ぶと信じたいのだが。
 喩えば映画サントラはCDエクストラとして影像をボーナス収録することが定着しつつあり、またポピュラー音楽でもビデオ・クリップ映像やデータ閲覧など、それによる独自表現は尽きない。だが、「アーティストの権利」とやらを守るために「アーティストの表現手段」を削っているのはどういうことだろう。まさか、PCユーザー自体を、いっさい無視するつもりだろうか? とさえ疑いたくなる。
 よって、個人観ではあるが、筆者は表現者が自らの作品にCCCD仕様を認めた時点で、その「アーティスト」と呼ばれる人間は自らの表現手段を狭め、ゆえに「その多く(全部ではない)」が「アーティスト」と呼ぶまでもない存在に成り下がっていると判断する。一部には真摯な者もいるだろうし、メーカーの意向に逆らえない弱い立場にあるだとか、海外盤が日本発売される際、CCCD仕様が勝手に施されるなどのケースは除いて。
 これら表現者としては明らかにマイナスとなる諸条件を知ってか知らずか、ロジャー・ウォーターズがベスト盤“FRICKERING FLAME(海外盤)”にてCCCDを採用したという情報には、いたく嘆いたものだ……因みに、日本のジャズ/フュージョン界にも遂にCCCDが採用されたが、それが誰のアルバムかを調べてみるのも一興だろう。音質ありきのクラシックにもCCCDが導入されるようになってしまったが、それはどこのメーカーから出ているかも当然のごと知っておくべし。
 また、コピーコントロールされているのに、相変わらず「自由」とか叫ぶパンクやヒップホップってのはどうなのかな? それにロックもそういう統制を嫌っていた「反権力」の側面があった筈なんだがな……音楽そのものが説得力に欠けてしまう気がするのは、筆者だけだろうか。

[権利ばかり求め、義務を果たさない姿勢]
 言い換えれば「PC、オーディオなどが壊れても知りません」というメーカー側の態度。そりゃあソフト・メーカーはハードの保証まではできないだろうが、こうした言い方では購入を考えてしまうのは当然。PCしか再生環境がない(PCでいつも音楽を聴いている)、というリスナーは実際に多く存在する。だというのにマッキントッシュでは聴けないというのも独善的な判断と言わざるを得ない。これは次項にも関連する。
 と、書いておいたら、憂うべき事態が起こった。
 筆者の近隣者がCCCD再生により、オーディオを壊されてしまったというのだ。彼の報告によると東芝EMI製のCCCD――これは事実関係の叙述であって特定企業の批判行為を意図しているわけではない――を連続再生中、突然「ピーッ」という怪音が発生するようになり、その後はいかなるCDを再生しても音飛びが発生するようになったのだという。なお、彼のオーディオ機器は再生にさえ困るような極端に古い機種などではない。
 筆者の所有するポータブルCDプレイヤーも、CCCDを含むあらゆるディスクを仕事上の理由でチェックしていたらあらゆる面で調子が悪くなり(特にTOC関連がおかしく、チェックに時間がかかったり、突然「0」になったりする)、結果「CCCD用」のものに変更せざるを得なくなってしまった。何と非生産的で、物質破壊を前提とした行為なのか……。断言しよう。筆者は、CCCDでプレイヤーを壊されたため、それをCCCD用として渋々使っているのだ、と。

[未発達のものを一方的に導入]
 CCCDでも、環境によってはあっさりと焼ける。
 まずはPCでも、自作マシンなどユーザーがいじったものであればおおかた、リッピング(音声をデータとして吸い上げ、PCに移行させること)可能なのではないだろうか、と思われる。現状では一般的な、まったくのデフォルト状態(=PCショップで売られているそのままの状態)のPCでは吸い上げできない、ということではないか? いやそれでも多くのPCユーザーが「簡単にリッピングできた」と言う。つまりは、殆どがCDドライブ次第だ。
 または音質が気にならないのであれば――どうせもともと落ちているのだし――MDに一度コピーし、それをPCに移せばいい。何もPCを使わずとも、だいぶ値段の下がった業務用CDレコーダーであれば何の問題もなくコピー可能だ。業務用レコーダーはエクストラ・トラックを記録せずに音声データのみを写すのだが、それが幸いか災いして、もとよりエクストラ・トラックの代わりにCCCDデータを搭載しているCCCDは音声のみコピーできてしまう。
 こうしたように、現状でさえ幾らでもやり方はある。次第にコピーコントロール機能を強化していくつもりかも知れないが、それも無駄なことだ。あらゆる病気やコンピュータ・ウイルスが克服された途端にヴァージョン・アップするように、凌げる方法は幾らでも編み出されるに違いない。ビデオやDVDの「コピーガード」と同じことで、最も一般的な、数の多いユーザーに公式を当て嵌めるのがせいぜいで、結局は可能なままだろう。幾らやっても「いたちごっこ」になるのは目に見えている。またありそうなことで、ハードディスクの一部(レジストリなど?)を書き換えるということが行われそうな予感がする。そのような行為も一方的なので、決してやってほしくないものだ。
 コピーコントロール機能が役立たないとなると、権利主張の説得力もないうえ、未熟な状態の商品にハイ・リスクを添え、リスナーに押し付けたことになる。
 また、古いオーディオ機器やMacでは使用不可能というのも、未発達のまま見切り発車をしてしまった証拠と言えまいか? すべてに適応させよ、とは言わない。しかし、シェアの差こそあれ、今でも「WindowsかMacか」と言われる中にあって、Windows限定というのは考えものだ。しかもそのWindowsでも、今までのように再生するだけではなく専用再生ツールが強制的に一時インストールされ、それにより勝手にハードディスク内部をいじられるのはいい気分ではない。正規DVDにウイルスが混入されるような世の中なのだから、PCへの影響は感情レヴェルで「気に食わない」と言われても仕方がないだろう。配慮に欠けると言わざるを得ない。
 何より、大きなことがひとつある。
「レッドブック」というCD基準法があるのだが、CCCDは明らかにその規定外なのだ。特にTOC(トック、各トラックを区分けしているトラック情報)の部分をいじっており、通常「1」から始まるそれを「-1」から始めている。そのため、最初に「-1曲目」を読み出してしまうので、対応できないプレイヤーは叫びを上げるわけだ。表示と内容が違う、再生できない、或いは壊れる……など。この特徴は機器に負荷をかけるらしく、場合によっては少しずつ機器を痛め、長期スパンで壊しに入るケースもあるらしい。PC再生じゃないから大丈夫、というのは楽天的なことであるのだ。なのに「壊れても知りません」という姿勢、というところに問題が発展するのは自明の理。
 違法コピーを訴える以前に、おまえの存在こそが違法じゃないのか? CCCDよ。

[市場過多]
 筆者が、本論中で最も重きを置きたいのはこれである。余りに「アーティスト」と呼ばれる人間が乱立している現状を考えてみよう。
 以前より、それこそ数十年前より、ダビングによる売り上げ減少は懸念されていた筈だ。CD-Rというメディアの発達がCCCD導入の直接的な要因とされているが、筆者は寧ろ「誰もがアーティスト」という甘い認識が招いた市場過多が根底にはびこる要因なのではないかと考えている。質の良い「作品」を送り出さなければ、リスナーだって買わないのは当然の理だろう。小中学生だの素人ばかりをデビューさせて「商品」ばかりを世に送り、一時の儲けにばかり走るのは、本当に「アーティストを尊重」するのであれば、いい加減やめてほしい。表現者側の権利をスケイプゴートにして、相変わらず流し続ける「商品」にCCCD仕様を採用する現状は、利益先取を口上巧みに誤魔化そうとしている卑怯な姿勢に見えて仕方がない。CCCDを真っ先に導入したのが、一時的な「商品」を流すことで有名なエイベックスであることも、解りやすいほど実に象徴的と言える。
 かといって、完全にリスナー側に立脚して違法コピーを賛美するわけではない。当たり前のこと(ながら忘れかけられていること)だが、CDはもとより、金という代償を経て得られるものだ。ただ甘い蜜ばかりを吸いたがって「CCCD否!」と叫ぶのでは、権利を侵害している分だけ明らかにメーカーや表現者より身勝手な話だろう。せめてリスペクトする存在であれば当然ながら「買う」べきだろう。CD-Rで揃えながら「ファン」を自認するのは勝手が過ぎる。「このぐらいの作品レヴェルでは買うまでもない(エセ・アーティスト排除や作品価値判断)」だとか「(廃盤やブートレッグをして)これには著作権が存在しないからコピーで構わない」といった姿勢があれば、話は違うのだが、余りに「安易に焼いて」いないだろうか?
 買っていたらキリがない、なぜなら市場にあるCDの数が多過ぎるから……というのも解るが、その中から取捨選択するのはリスナーとしての義務だろう。それを放棄して権利だけを主張するのも、甘えた胡座であることに気付きたい。これは筆者自身も訓戒としたい。
 そのうえで、ひとつ、言っておきたいこと。
 東芝EMIは、基本的に洋楽もすべてCCCDを導入する指針である筈なのに、なぜリンゴ・スターの『リンゴ・ラマ』は通常CDなのだ? レディオヘッドまでもCCCDなのに。世界にも日本にも多い、ビートルズ・ファンから反感を買い、売り上げが下がるのを恐れ、対象を選んでいるのではないか?(注:執筆当時のシェア状況でのこと。のちにはジョージ・ハリスンのソロ作までCCCD化されてしまう) この対応は「音楽資産を守りましょう」という、CCCDに見られる「注意書き」だけでは納得できないぞ。明らかに「売り上げ云々」が絡んでいるとしか思えない。また、海外オリジナル盤はCDとCCCDを同時発売するのに対し、日本盤は「すべてCCCD」なのも納得がいきかねる。だから私は、喩えば「購買者から文句がなさそうなら否応なくCCCD」という企業のものは買わないだろう。そうやって「音楽の先」から取り残されても構わない。それ以上に、CCCDとそれを強要するメーカー側の不透明な姿勢に抱かれる疑念が先走って仕方がない……という結果が、「カー・オーディオで再生できないなら買う価値もない」エイベックスCD売り上げの極端な落下に現れているのではないだろうか。実用的な面さえも含めて。一時はCCCD化したものの、慌てたようにCDエクストラ仕様(=基本的にCCCD、という指針を逃れられるカー・オーディオで再生可能な形式)にした『スーパー・ユーロビート』シリーズにも、CCCDに対するリスナーの接し方、反応、そしてメーカー側の苦肉の策、という実態が現れておるまいか?
 さらには逆に、CD-Rの恩恵にすがって、CD-Rを「作品」として正規ルート(CD店で販売されるもの)でリリースするインディーズにも疑念が湧く。詳しくは次項参照のこと。

[CD-Rは消耗メディア]
 主に、CDコピーを中心に「入手」を続けているリスナーに向けて言っておくべきことがある。
 CD-Rは、劣化する。数年を経ると録音内容がクリアされたり、ノイズが入っていたり、録音時の状態を保持できるメディアではない(現在のところでは)。それはメーカーや製造法などに起因するが、現に筆者の所有物さえも、ノイズ入りになったものが数点確認されている。
 結局は、プレスCDを買った正直者が恵まれるのだ。CD-Rは刹那的な音源供給はできるが、耐用年数は著しく低い。だから、コピーが横行してCCCDが出現するのは「仕方ない」とも思ったが、こうやってCD-Rデータが「消える」ことを知ってからは「未発達のものを一方的に導入」の視線が強まるのは致し方ないことだろう。その分、刹那性で成り立っている「作品モドキ」が多いのも事実なのだがね。
 だから、CD-Rに焼きまくって「持ったつもり」になっているリスナーは数年後に泣きを見る。
 だから、CD-Rを敵に回してCCCDを導入した作品は、クオリティを無視した経営方針から作品の質を無視した姿勢が垣間見える。
 だから、筆者はそのどちらをも軽蔑する。


[結]

 では最後に、メーカー、表現者、リスナーの三者についての言及をまとめよう。
 メーカーは表現者の権利を庇護するように見せながら、実際的にはそれを利益先取の言い訳にしている。その見解は「虫が良過ぎる」と言えまいか?
 表現者も、自分の表現には高い価値があるなどと思い込み、未熟な自己表現力に胡座を掻いておるまいか? 自分の作品に金銭を投じる人間が無数と存在する自覚を持ってほしい。
 そしてリスナーは、余りある供給に甘えて「買う」という当然の行為を放棄しておるまいか? 常に受容姿勢であること、金を出していることを逆手に、店などで偉振る「お客様」然としていないだろうか。
 こうして三者とも、自らの権利ばかりを主張し、ひいては義務を遂行していない側面が強くある。それらが取っ組み合って、結局は醜い争いの体を晒しているだけだ。しかし企業にとって売り上げは死活問題だし、(真摯な)表現者としては違法コピーにはらわたが煮え繰り返るのも当然。かといってすべてリスナーの違法コピーが原因とされてしまっては、リスナーとしても怒りを隠せないだろう。

 結局のところ現状のCCCDでは、叶う筈のない平等を標榜した結果、メーカーが利益先取のために施した「甘い罠」であるとしか思えない。
 だから筆者は、CCCDは「基本的に」購入しない。また、日本盤/輸入盤によりCCCDか否かが異なるのであれば、CCCDでないものを購入していきたい。
 現に、筆者は既に「明らかに利益先取のメーカー」による商品は、メーカーに直接的な利潤をもたらす国内盤新品での購入を控えている。渋々ながらも許容してしまうからこそ、横暴が通ってしまうのではないか? 「不買運動」などに加わるまではしないが、個人レヴェルでは「相当の取捨選択」を行っていくことで、筆者の態度としたい。これは本気の冗談とでもとらえてほしいが、CCCDは敢えて「CCCD-R」にして所有するとかね!

 蛇足ではあるが、音楽をひろく好む人々は、不思議と彼が最も好む分野にCCCDが侵入していない傾向にある。これは、ジャンルを越えて音楽を聴き続けていくと、そこには「作品」を見る力が生まれ、明らかな「商品」との区別が付くことと関連がある。
 つまりは、質も価値も低い横暴さまみれる「商品」がCCCDになっても、何にも困らないという側面があるのだ。また、メーカーの意向を突っぱね、CCCD仕様を断じるというケースも、既に「商品でなく作品」を作りたい真摯な表現者の間で行われている。

 一見、定着化したように見えるCCCD。
 これだけ批判が続き、明らかに「否」の意見が多い中、どんな暴挙/暴論で生き抜いていくのだろうか。または、消え去っていくのだろうか。
 筆者も、CCCDになる「商品」は興味範囲外のものが殆どなので、もう少しゆっくりと眺めているとしよう。CCCDが手もとに氾濫しているリスナーは、上記のことごとを考えてみてほしい。
 そんなありがちな投げかけによって、本論は終わる。