24.それは「レヴュー」と言えるのか?

〜「感想文」を正当化していないか?〜

 しばしば目にする賛辞句に「カッコいい」「良い」「最高」といったものがある。逆に「カッコ悪い」「悪い」「最低」などの罵倒文句もあるだろう。これらはネット上に無限と存在するが、昨今の音楽評論家さえも常套句として用いることさえあるのが現状だ。
 ただ、ネット上の日記や掲示板、日常会話などにそれを用いるのは何ら問題はない。日記は基本的に本人のためのものであるのだし、掲示板や日常会話は相手が見える。だが「レヴュー(一般語彙ではレビューだが、ここでは無駄な発音上のこだわりからこう表記する)」と名乗るサイトや、音楽評論家として「音楽を言葉で語る」立場にある者がそうした安直な語彙を用いる現状に、私は危機感さえ感じてしまう。
 そもそも“review”という語の意味をご存知だろうか?
 これには様々な意味がある。批評、論評、調査、検討、審理、調査、復習、再考、概観……時にはこれらの一部に「再」が接頭辞として付随することもあるが、おしなべて何らかの「説明」的意味が含まれている。「回顧」という意味もあるが、それは全体の比例からしてごく僅かの比率であり、本来的な意味は「説明」に終始するだろう。
 だというのに、発表の場があるのをいいことに、感情を垂れ流して満足している人間が多く存在する。それを「感想」と言えばいいものを、「レヴュー」と呼ぶことに、私はひどく欺瞞を感じてしまう。飽くまで仮でしかない「表現者」という場所に居座る心地好さに、或いは、幸運にも与えられた「表現者」という位置に胡座を掻いて、結局は甘えていないだろうか? 表現力の未熟さに気付きもせず、自己研鑽も放棄し、リスナーさえもそれを疑ってさえいないだろうか。
 音楽に於ける文章表現とは、音楽を言葉で表すこと。
 常にそれを心がける私にとっては非常に悩ましく、その横行には携帯電話や煙草のマナー違反を目にするのにも似た怒りを覚える。そこには「必然性の欠如」と並んで、自由が利く者ゆえの「驕り」が感じられるからだ。

 まずは「レヴューを目的としたサイト」について言及しよう。
 もともと、実力もないのに発表の場があるだけで「レヴュー」として自ら語るのは、素人生悟り甚だしい判断と言わざるを得ない。本来的には発表の場もない人間は、自らの音楽性を深めながら同人誌やミニコミなどで下積みを重ね、やがてライターとしてデビューする、といった図式があった筈だ。しかし昨今では、金さえ払えばネット上に発表の場ができる。そこでは実力も音楽性の広さも関係なく、自分の好きなものだけを好きな形で論じられる。そこで修練を重ねて、実際にライター・デビューを果たす人間も少なくない。しかしその殆どは、自己満足的な内容で終わってしまっている。
 何が、自己満足的なのか?
 それは彼の、表現者としてのスタンスや欲求の不在、それが呼んだ語彙の少なさにある。それらは音楽を聴くだけでは得られない、各種の文章表現から得ていくものだ。かつ、それは自分で積み重ねていくものであり、唐突に授かるものでもない。だから、それまでに自己鍛錬を重ねなければ、表現力など伸びる筈もない。そのために論理的に、筋道立てて「音楽を語る」ことができず、「音楽を聴いた自分の感情を騙る」ことしかできないのだ。
 しかし、ネット上には誤解されがちな客観的評価がある。数字として読者の数が表示され、まるで「点数」のように見えてしまうそれは――「カウンタ(一般語彙ではカウンター)」だ。
 このヒット数が多いと、まるで自分の文章が多くの人間に読まれ、そして納得されているかのような錯覚を呼んでしまう。確かに訪問者(多くの同一人物を含む)の数ではあるが、それが絶対的な評価ではないことは常に気に留めておくべきだろう。そうしてカウンタで得た定評かて、偶発的/計算的なヒット率が招いたものなのだから、評価の判断には結び付かない。
 試してみるといい。ページ内部やタイトルに、検索にヒットしそうな文字を含んでおくだけだ。それである程度の期間を待てば、簡単にカウンタ・アップできるページのできあがりだ。それは喩えれば、思い付く限りの卑猥な言葉を並べた成人向けページと同じ公式と言える。だからヒット数が多いサイトの信憑性が高いかというと、まったくそんなことはない。寧ろ普遍性が高いからヒットするのであって、どうということのないものである場合が多い。
 ここで、このページを振り返ってみてほしい。わざわざ「レヴュー(レビュー)」や「カウンタ(カウンター)」と書いてあるだろう? こうすることで、未来的にそのどちらでもヒットするように仕組むことができる。このページを複数の方が見て、その結果として検索エンジンがここを登録してくれれば、どちらの語を検索にかけてもヒットすることができる。難なら、もっとヒットしそうな語彙を入力しておき、それを無字になるよう装飾して隠匿しつつ、ヒット率を高めることだってできる。それは本気でやろうとすれば簡単なこと。卑猥な単語を羅列してしまえばいいのだから!
 それでもサイト内の全ページにカウンタを設置するなどという、哀しく恥ずかしい尺度を設けている「レヴュー・サイト」も実在するが、そうしたページのヒット数をチェックしてみるといい。『クリムゾン・キングの宮殿』のような、最もヒットしやすいものが単純にカウンタのヒット数が高い筈だ。その数値は殆ど「読者の需要」の度合いを表示しているだけであって、その論じ手が「供給」を行えているという証拠ではない。寧ろ自己満足としか思えない行為だ。
 そのうえで辿り着いたページが「かっこいい」「すごい」「音がいい」といった、曖昧な感情判断の羅列であると、信憑性など生まれる筈もない。真摯な読者には、そのヒット数による勘違いを「表現者気取り」に与えぬよう、内容をよく吟味して頂きたい。
*後日註:「全ページへのカウンタ設置」について当該する、あるサイトが本文発表後にカウンタを撤回した。そのうえ、筆者が常に述べる「“of”に“オヴ”はねぇだろう」を、自分の論として今さら口走っていた。何だい、ウチをチェックしてるのかい?)

 さて、ひるがえって「音楽評論家」についてだ。
 まったくの説明不足で「どう? カッコいいっしょ! イェーイ!」といったていたらくのライナーに困ったことはないだろうか? 昨今のヒップホップなどは、殆どがこれだ。ライナー執筆時に情報が少ないのは解るが、そこにミュージシャンの歴史、周辺人脈、他の音楽との関連性や共通性を結び付けて「説明」するのがライナーの役目ではないだろうか? 歴史に即さぬ未熟な影響だけで表現者を気取ったミュージシャンと、それをアーティストと呼んで持ち上げる未熟な書き手の結合。それがより、音楽というものの衰退化に拍車を掛ける。雨後の筍の如く乱造されるインディー・レーベルが、またネットのように(或いはそれと相互して)表現の場を与えてしまう。そんな場所には「きちんとした」ライターは存在しないため、レーベル代表者などが説明にもならない感情を連ねた文章を寄せる。そうなると、レヴューなどどうにもならない。素人掻き集めの玉数揃えに終始してしまう。
 こんな様子では、優秀なライター人脈がみるみる衰退していくのも仕方のないことだ。多くの音楽ライターは、甘えや自己満足から発するアマチュアイズムを残したまま、自分がそのアルバムの「表現者側」であるように錯覚してしまっている。
 典型的な例では、前述のように「自分の感情には意味がある」と思い込み、説明義務を放棄したまま感情を垂れ流すもの。表現者を気取ってやたらと形容詞を乱発するもの。こと資料不足に触れ、自己責任を回避するもの……皆一様に、文章に「文責」が感じられない。不足するのは「表現力」のみならず、彼がその文章を書く「必然性」も、そこにはまるで存在しないのだ。必要のない文章は蛇足となり、責任は軽く、説得力も欠く。
 またありがちな傾向として、やたらと「懐古主義」なのも困りものだ。喩えれば、もうピンク・フロイドに於ける「箱根アフロディーテ」の話は充分だし、イエスの初来日を観た話も聞きたくない。キング・クリムゾンやジェネシスに「昔の幻想的な頃に戻ってほしい」と呼びかけるのも不要。EL&Pの衰退も、わざわざ過去の栄光を引っ張り出さずともよい。こうしたことは、資料や表現力の少なさを取り繕うのに便利であるので、若い頃の想い出を有していることを全面に出すことで説得力を捏造できる。少なくとも、若いリスナーに対しては高みから接している気分になれるだろう。
 それがネット上の行為であれば、特に問題はない。なぜなら、どうしたってそこは「正式な表現場所」ではなく、個人的な媒体に過ぎないからだ。未だに紙面には有無を言わさぬ権威があり、特にライナーには、その「理解者代表」のような意味合いが自ずと重なってしまう。
 そんなことはない、ネットだって立派な表現場所だ! と主張される方もおられるだろう。しかし喩えば、何らかのデータを引用し、出版物として世に出す場合を考えてみてほしい。やり直しが利きづらいため正確さと表現力が求められ、連綿と受け継がれてきた「紙媒体」と、突発的に生まれて個人でもページ運営ができ、体よく削除や修正も行える「ネット」で同じことが書いてあった場合、どちらを「正式な参考資料」として巻末に表記するだろう? 答えは言うまでもないだろう。サイト・アドレスは、仮に掲載されたとしても、筆者や訳者の弁による「ひとつの参考」までにとどめられる筈だ。
 それほどに力のある紙媒体に載る文章が、アマチュア同然の人間によるものが多いことに、危機感は感じられまいか? 「虎(紙)の威を借る狐(音楽ライター)」の体を晒しておるまいか? その文面を読んだリスナーは、そこにある「誤解」をそのまま「理解」してしまい、やがて彼も音楽ライターを目指す。どこかでネジがゆるんでしまうと、その影響は後世までに及ぶ。そうした影響さえ考えられる「文責」というものを、少しでも感じてほしい。

 ここに挙げた両者は、結局のところ、どちらも「感想文」の領域を出ない。その両者をよく読んでみよう。「思った」「だと思う」などの、まったくもって主観的な意見がそこには通低しておるまいか? そのうえで双方とも「(表現力を上げる気などないが)俺を表現者として認めてくれ」と叫んでいることに変わりはない。自分の力を過信し、身分不相応な要求を提示していることにも。
 だからこそ私は、様々な音楽を貪欲に吸収していく大鷹俊一氏を尊敬する。意図的に感情表現をまじえて読みやすくしながらも、説明義務を果たせる市川哲史氏を好む。発表箇所やジャンルは集中的ながら、研鑚を欠かさない坂本理氏にも感服する。
 こうした優秀な書き手が、昨今には現れようとしない。前述の大鷹氏が、古参表現者だけでなく「若者の聴く音楽」さえ幅広く担当しているのを、おかしいと思わないだろうか? それが仕事とはいえ、彼に依頼が絶えないことには理由がある。それは彼が優秀な書き手であるということと……
 若い連中には、まだまだ「感想文ライター」しか、いないからだ。

 それでも「感想文」は絶えず頻発している。薄っぺらい音楽の乱造が、またそれに拍車を掛ける。
 いいかい、よく考えてほしい。
 感情は、どうしたって言葉には表現できない。だからこそ感情を「説明」する言葉が必要なのだし、言葉で「説明できない」感情がある。それを「まずは聴いてみろ」「聴くなら優秀なオーディオで」「それよりライヴを観なきゃ解らない」と叫ぶのは簡単だし、それが容易に叶う立場にある人間の暴言だ。金銭や時間、場所、それにリスニング環境などは、誰しも自由ではないのだから。それを実現したくなる文章を、ひとつでも書いてみてほしい。できなければ、その状況やそのうえでの理解度を説明してほしい。
 そして、喩えあなたが「こう言えば解るだろう」と判断した言葉であっても、それはあなたの判断でしかない。万人に伝わる言葉じゃないのは当然だし、ともすると、あなたにしか解らない可能性だって高い。「感想文」を目指すならば問題じゃない。「レヴュー」や「ライナー」を目指すことの重要さを、一度考えてみるといい。
 自身の文章に、説得力があるのか?
 これは「音楽を文章で表現する者」にはつきものの、私にも言える、常に高さを変えながらも越えるべき垣根である。