23.「名盤」を疑え

〜単なる「自分の好きなアルバム」ではないのか?〜

 世には「名盤」と呼ばれるものが幾多と存在する。同じく「名曲」と呼ばれるものも星の数ほどある。
 その例として、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』や『レット・イット・ビー』を挙げれば文句はあるまい。誰が否定しようが、嫌おうが、それらがロック史上に名を残す名盤並びに名曲であることに相違ない。
 だが、だ。
 喩えば『インディアン・サマー』を「名盤」と呼ぶのは気が引ける。内容が悪いわけではないが、決して「名がある盤」ではないからだ。かといって内容を武器にして「名盤」と呼べるほど、出来がいいわけでもない。しかしこの作品が、一部では当然の如く「名盤」と呼ばれているのも事実だ。
 結局のところ「名盤」という言葉は「私家版プログレ」と同じで、もはや「これは私にとって良い作品」という程度の呼称になっているのが現状だ。しかしそれがまかり通るのであれば好みは人それぞれ、もはやすべての作品が「名盤」となってしまう。そこに批評眼や審美眼、価値を求める基準などの無粋なものさしを置いてはいけないのだ。
 しかし、単純に「名盤」と呼ぶと、さすがにカドが立つ。そこで生まれたのが「隠れた名盤」という便利な言葉だ。
 これを用いれば知名度が低かろうと、完成度が低かろうと、果ては自分の好みのものを「名盤」の類に祭り上げることができる。そうなれば行き着く先は前述の通り、トマス・モアの『ユートピア』よろしく、すべて平等の世界になりかねない。生存の確証もないのに競争が許されない。どんなに稚拙と解っていても批判できない。
 そうした思いから、私は一概に「名盤」という言葉は信用しない。ましてや「隠れた名盤」をや。
 そこで今回は、この「名盤」について考えてみようと思う。なお、「名〜」は意味としては同じなので、便宜上の目的で主に「名盤」を基準としている。

 まず、そもそも「名盤」とは何か?
 これは主に、以下のふたつのどちらか、あるいは双方の意が含まれる言葉だろう。

・有名な、名のある、名高いアルバム
・内容が素晴らしい、きわめて高い評価に値するアルバム

 前者は特に問題がない。データ化はできないだろうが、既成事実であるため有名ミュージシャンによる有名なアルバムであれば「名盤」と呼べるのに相違ない筈だ。問題は「価値観」に関わってくる後者だろう。
 内容の高さが売り上げに繋がり、結果として有名になったものは「名盤」に違いない。だが、有名ではないが内容は素晴らしい、ということで「名盤」と呼ばれるものも確実に存在する。それがマーケット市場の価値判断で行われているのであれば折り合う点もあるだろうが、個人観で「名盤」の称号が与えられているものが実に多い。絶対的な評価ができず、相対的な評価が主となる音楽では、自分にとって高質であれば「名盤」と呼ぶことが許されてしまっているのだ。
 喩えば「余り有名ではないが、これは名盤だ」という意味の言葉を目にしたことはないだろうか? これは明らかに内容を評価して言っているのだが、やはり内容というものは絶対的な評価ができない。喩えば子供にとってはホセ・カレーラス(男性テノール歌手)の歌声より、戸田菜津子(アンパンマン)の声の方が「名演」となる可能性は高い。結局のところは、内容の良し悪しを決めるのも、意味を付随させるのもリスナー自身。雑誌などのレヴューも「ライターの評価」であり、リスナーの意識を変革するきっかけでしかない。
 そこで代わる決定的な評価が「売り上げ」など具体的な数字で例示されるものだ。
 だが「売れなくても良いものはある」という考えもあるだろう。実際それは真実ではあるが、そのせいで話がややこしくなっているのも事実。だからこそ、ひとつの基準としての数字データが存在するのだが、ファンによる幻想の力は強く、肯定してもらえねば「営利主義」だの「ポップびいき」だのと看板を変えて食い下がる。ライターは営業サイドの意味合いを強め、しきりに「名盤」を繰り返す。そう呼ぶことで周囲の評価は落ちることはないし、何より、自分の価値観が安定する。有名ではないものを「名盤」と呼べば、彼は音楽を知っている人間に見えてしまうだろうから。
 そう考えながら、多くの音楽レヴューを見てみるといい。きちんと内容を吟味するライターは、おいそれと誉め文句は使わない。寧ろ検証するスタンスが垣間見える筈だ。だが的確な表現を行うための言葉を持たない人間が「最高」「良い」「かっこいい」といった感情的な言葉を乱発することで、勝手に「名盤」が作られている。考察も要らず、ただその場の感情で迎えればいいという音楽が多い現在、後者の方が「解りやすい」とされ、前者は「解りにくい」とされてしまうのが現状だ。さらには名盤か否かが論じられるより早く、ライナーに「新しい名盤の誕生だ」とでも書いてしまえば、太鼓判が押されたことになるのだから、それが名盤か否かの批評は許されない(実際、音楽性が衰退したアネクドテンの『フロム・ウィズイン』にはそれが書いてあった)。
 馬鹿馬鹿しい。
 結局は、リスナーが気に入るかどうかなのだから、その理解の介助となる文章を書くべきではないか? 感情と文章は別のものだ。「聴いてみれば解る!」だとか「聴いてみなくちゃ解らない!」などといった、稚拙な呼びかけはよしてほしい。聴く前から、聴きながら、もしくは聴いた後にでも、その音楽やミュージシャンを知る文章を記してほしいのだ。ましてや、ライナーに「これは名盤」などと書いてほしくない。それが事実であればいいのだが、ライターの価値観だけでもって、余計な刷り込みをしてほしくないのだ。
 こうして「名盤」と呼ぶことである程度の評価は与えられるので、世には「名盤」が溢れていく。しかも昨今はリリース数も過去と比較にならないほど多く、また技能の卓越した人間ばかりが演奏しているわけではなくなったので、批判的な反応もある。だがそれを不当とする者も多く、あまつさえビジネス・サイドに関わってしまうので、渋々誉め称えることも少なくない。そんな中で「名盤」と呼ばれた作品に、どれだけの価値があるだろう? 10年後には、20年後には、それでも「名盤」と呼ばれるだけのクオリティがあるのだろうか?
 気安く尊称をあずかった作品が、本当に「名盤」という呼称が適合しているのか疑わしいものだ。

 さて、ここで、興味深い文章を見付けたので紹介しよう。
 プログレやアニメだけではなく、民族音楽や順邦楽にも強いキングレコードからリリースされた『名人による日本の伝統芸』シリーズに寄せられた文章から、二氏のものをまじえて紹介する(以下、「 」内強調部分は引用、縦書きのため漢字表記だった年号はアラビア数字に直した)。「名盤」と「名人」は別の言葉だが、同じ意味合いを持つ「名」が付随しているので、参考資料として面白いだろう。

 まずは倉田喜弘氏による「名人芸シリーズ」という文より。

「一般に名人といえば、技巧の卓絶した人だと思いがちだが、つい百年ほど前までは、世間に名の通った人を名人といった。だから、音楽家や俳優は全員が名人であった」

 なるほど。つまり私の前述した二大定義では、後者より前者の意味合いが強かったということか。寧ろ「有名人」の意味合いが強かったということだろう。

「そうした判断が変わるのは、1910年に天皇堂が『名人レコード』を発売したのちである。(中略)続いて日本蓄音器商会(日本コロムビアの前身)が、1918年に『名人レコード』を発売した。このネーミングによって、吹き込んだ人だけが名人であるような錯覚が生じた」

 そうなると、吹き込むためにはそこいらの凡人ではなく、技能の卓越した人間が必要となってくるのは必定。そうでなければ売れないだろうし、せっかく録音するのであれば高質のものを吹き込みたいところだろう。

「名人の解釈がシビアになるのは、1930年代に入ってからだ。伝統音楽に限ると、70年代までの演奏が、どちらかといえば質的に充実している」

 この文からは、技術が進歩し、録音が一般化していくに従って、乱造が進んだという解釈ができまいか?
 さて、今度は「名人芸という感覚」との題を寄せている布目英一氏の文章より。それを筆者が「音楽で言うと?」という趣向で変換した文章を添付していく。

「名人、天才、達人、名手、第一人者、最高峰……と世の中に尊称は数々あるが、この使い分けほど難しいものはない。中でも名人は相撲の横綱のように心技体の充実を求められる」

 名盤、傑作、良作、好盤、完成度高し……と世の中に尊評は数々あるが、この使い分けほど(きちんと考えないと)難しいものはない。中でも名盤はビートルズのように完成度ほか様々な充実を求められる。

「また、名人という尊称をたやすく使って『あの程度では名人ではない、強いていえば上手だ』と釘を刺されることも芸界ではよくあることだ」

 また、名盤という評価をたやすく使って「あの程度では名盤ではない、強いていえば良盤だ」と釘を刺されることも音楽界では……なくなろうとしている。

「もっとも、最上級の尊称である名人といわれるような人物であっても、その評価が時代により激しく変化することがある。(中略)記録により、後の時代の人々がかつての名人の芸を自分たちの尺度で再検討することも可能となった」

 もっとも、最上級の評価である名盤といわれるような作品であっても、その評価が時代により激しく変化することがある。再発により、後の時代の人々がかつての名盤を現在の価値観で再検討することも可能となった。

「評論家が文章でいくらほめたたえていても録音録画によって名人の評価が決まる。挙げ句の果てにはCDなどの売り上げが決定的な評価を生む」

 評論家が文章でほめたたえることで価値観の高低が決まる。挙げ句の果てにはそれがCDなどの売り上げに繋がり、決定的な評価を生む。

「しかし現代の芸と過去の芸を比較することじたいが無理なのであって、過去の芸であってもそれで充実したひとときが過ごせれば、それが現在の私達にとっての名人芸だと思うのだ」

 しかし現代の音楽と過去の音楽を比較することじたいに無理があるのであって、過去の音楽であってもそれで充実したひとときが過ごせれば、それが「現在の私達にとって」名盤だと思うのだ。
 現在の私たちにとって、は……。

 ころころと様相を変える音楽と、まさに伝統を重んずる(のが一般的な)伝統芸を比較するのには無理があるのだが、似た側面も少なからず含んでいる。上記の変換した文章から捻り出した結論に、私自身の文章を付与することで本項のまとめとしたい。以下「 」内がそれに相当する。

「最高級の評価である『名盤』はみだりに使える言葉ではなかった。しかし現在の価値観で過去の作品を再評価することにより、その評価は時代に応じて変わる。現在の価値観で判断することには無理があるのだが、それでも楽しめれば、その人にとっては名盤に違いない。だからこそ『名盤』という呼称が多く用いられることになった。しかしその人にとっては名盤であっても、他の人には違うこともしばしばある。絶対的な評価は存在しないので、売り上げなどの相対的な評価が必要となる。その介助をするのが評論家などだが、彼らの評価も作品を吟じる一要素でしかないので、最終的にはリスナー自身が楽しめるか否かということになる。だからこそ、やたら誉めそやすのではなく、様々な観点でもって吟じたあげく、真に価値あるものを『名盤』と呼びたい。その一基準として、時代の流動に負けず、揺るぎない評価を得ているものが『名盤』と言えるのではないだろうか」

 私はこれまでに記したような文意でもって、みだりに「名盤」「名曲」「名演」など連呼する人間の評価は信用しない。さらには有名であれば隠れはしないし、内容を自分ひとりで評価するのは勝手な所為であるので、自らの価値観でもって安易に用いられた「隠れた名盤」という呼称も信用しない。また私としても、軽々しくそれらの名称は使いたくない。何でも誉めそやして自分の安定をはかるのではなく、相対的評価や歴史的価値観などを絡めて考えたうえで考察し、音楽というもの自体に対しても真摯でありたいためだ。
 ほら、軽々しく「名盤」とか叫ぶと、こうやって信頼しなくなる人間がいるものだぜ。言葉の重みを考えるといい。そして、その重みある言葉を操る人間であるということを自覚するといい。もっとも、要点をまとめきれない本項を記している私は、まったくそれに値しないのだだろうけど。
 あなたが、かつて「名盤」と呼んでいたものを見返してみよう。そのどれだけが、今でも「名盤」と呼べるだろうか?
 自分自身だけの、または刹那の価値観でもって、さも絶対評価のような呼称は与えたくないものだ。多角的な価値観でもって判断できる場合も多いのだから。