22.トリビュート盤に寄せる疑念
〜本当に「トリビュート」しているのか?〜
2002年初夏、なぜかトリビュート盤が一気に発売された。
新作から旧譜の再発、または旧譜の内容を変更しての再発などと、枚挙に暇がないほどの始末だった。
と、のっけからネガティヴな文章であるのだが、これは今までサイトの随所で書いてきたことを読んで頂いていれば解って頂けるだろう。私は、これらをひどく嫌っている。
これを機会に、トリビュート盤というものに対する私の考えを総括してみたい。
記憶にある新譜、再発を混ぜて一緒くたに挙げてしまうと……
セックス・ピストルズ、ローリング・ストーンズ、クイーン、ジャーニー、レッド・ツェッペリン、U2、ガンズ・アンド・ローゼズ、ジェネシス、イエス、キング・クリムゾン、ジミ・ヘンドリックス……このあたりだろうか。
私の記憶にあるだけで、これだけある。しかし現実にはもっと多くのトリビュート盤が、なぜだか初夏に集中してリリースされていた。個人的にはクレオパトラ・レーベルの再発が「もういいだろう」という感が強かった。ジェスロ・タルやピンク・フロイドのトリビュートは再発/日本盤化されないようだし、その所作が「幾らかは売れるものを選んでいる」かのようで、再発処理としてはひどく中途半端だ。また新譜としてリリースされたものの多くは、できあがったカヴァー曲にインダストリアル/テクノ的なリミックスを施すなど、もはや虚無なトランス・ブームに乗っかったようにしか見えない代物だった。
そして、これらの総評。
つまらない。
原曲はもちろん、どれも「名曲」や「名作」の名を授かるに等しいものであるのだが、そのアレンジがどれもいけない。結局はミュージシャン側のエゴばかりが強く出て、できあがった楽曲を耳にする側への配慮はない。また最も大切な「トリビュートしようという姿勢」がカケラも感じられない。それが、最大の問題であるのだ。
まだしぶとく生き残っている「癒し系」オムニバスと、これらトリビュート盤の価値はまるで変わらない。演奏者のエゴが強く、また好んで聴くリスナーは限られ、双方とも「音楽というもの」「トリビュート対象」への意識はひどく薄い。見えるのは、価値の薄い「自分の中の世界」だけ。共感できる人間も少なく、できあがった作品への品質も省みない。
それらのリリースに見える方向性が「少しの有名ミュージシャン参加による話題作りで飛び付かせ、新人の曲を聴いてもらおう」という人選でもって見えたようで、改めて呆れてしまった。「トリビュート」と「宣伝」、あるいは「売名」という言葉が、もはや同意義に成り果ててしまったのだろうか?……
本来、トリビュート盤というものは、そのトリビュート対象となるミュージシャンを敬愛している人間が集まったものだった。しかし最近は「ちょっと好き」という程度でトリビュート盤に参加できるのが実状だろう。それはレコーディング・メンバーを集めるには仕方ないかも知れないが、殆どすべてがそれである、というのは問題だ。
こと疑問符がつきまとったのは、上記の「トランス・ミックス」が施されたもの。そのような所作を必要とする原曲は、まずこれらには含まれない。よし仮に、違うタイプの演奏でカヴァーしたい、ということであるとしよう。しかしその場合も、各楽器からフレーズを捻り完成させた原曲演奏者に対して、機械ひとつで面白がって自分好みにしてしまう姿勢はいかがなものだろうか。少なくともこれらのアルバムは「商品として」流通するものなのだから、買って後悔するようなクオリティだけは勘弁して頂きたいのだ。
さらには、原曲者と共通項がまるでないミュージシャンの選出。シンフォニックであればとにかく音を分厚くするだけ、パンクであれば勢いさえあれば良し、ジミ・ヘンドリックスに至っては「黒人」という部分ばかりを拡大し、ラップ/ヒップホップ的解釈を強引に押し進めている。それらの人選に、その原曲を演奏しなくてはならない必然性がまるで感じられない。
その人選も、これらトリビュート盤に於いては殆どが「無名の新人」を中心にしている。いや、はっきり言い切ってしまえば――「無能の新人」が中心だ。テクニックがあるわけでもないし、レコーディング・メンバーは掻き集めだし、それでもその曲を演奏したい情熱があるかというと、まるでない。生活する金を得るために「トリビュート」という名目でもって録音している印象しかない。
どうにもトリビュート企画を新人発掘の一端として行うきらいも強いようだが、その試みは殆どの場合は失敗していると見ていいだろう。なぜなら、購入者の多くは特定の参加者目当てか、トリビュート対象を好んでいるため購入するのだ。前者は目的の曲ばかりを聴くだろうし、後者はトリビュートする姿勢がなければ敏感に反応、CDを聴かない棚に入れるか即刻の売却を行う。稀に楽曲単位で気に入るケースもあるだろうが、それはきわめて少なく、また長続きはしない。
新人ではなく、テクニックがある参加者がいたとしても、大体にしてそのテクニックに溺れ、それを見せたいがために原曲の名声を借りる傾向が強い。実力を見てほしいがためにアレンジに走り、対象を敬愛することを忘れている。原曲の良さを殺してでも、自分の好みを強く添付する。
それが、トリビュートする姿勢なのだろうか?
私は「トリビュート」という概念を大切にしたいのだ。これが「カヴァー」であるのならいいのだが、その名目が「トリビュート」であることが問題なのだ。トリビュート対象を敬愛しているのなら、その情念を見せてほしい。そうでなければリスナーには、彼が対象をトリビュートしているように思えない。他人のカラオケを見て満足できる人間は少ないのだから。
「虎の威を借る狐」
このひとことに尽きるだろう。
だからこそ、私は日本人ミュージシャンによるジャパンのトリビュート盤『ライフ・イン・トウキョウ』が大好きなのだ。このアルバムはジャパンを敬愛するメンバーばかりが集まり、そうでなく呼ばれた人間もいるが、何より「トリビュートする姿勢」が強く出ている。ジャパンを、或いはデヴィッド・シルヴィアンやミック・カーンを、愛してやまない姿勢が音から滲み出ている。アレンジの具合は強く、原曲通りに演奏しているものはまるでない。だがナルシシズムが核となる曲はナルシシスティックに、虚無を描いた曲はより虚無に、原曲の良さや中核を理解したうえでのカヴァーとなっているのだ。それを引き出せるかどうかが、トリビュートしているかどうかの判断要素になるのではないだろうか。そういったことを受けて、ミック・カーンや土屋正巳「本人」も出演したのではないだろうか。現実には中古価格1000円にも満たないものだけど、私にとってはこれこそが「トリビュート盤」と呼ぶに相応しい傑作である。企画者、市川哲史氏自身がジャパンを敬愛し、想いに溢れた企画であったからこその賜物なのかも知れない。