20.第三次結論

〜試行錯誤の最中にて〜

 さて、今まで「プログレとは何か?」を考えてきたが、その暫定的な結論は固まってきている。
 これまでの文章を要約してしまえば、以下のようにまとめることができるだろう。

『1970年代前半の「四天王、或いは五大バンド(キング・クリムゾン、ピンク・フロイド、イエス、EL&P + ジェネシス)」とその人脈、及び周辺の影響力』

 なお、ジェネシスが「付随」のような形になっているのは、筆者の好みの問題ではなく、プログレ・ムーヴメント隆盛の当時にして、四天王に比べて紹介が遅れていたためだ。しかしフォロワーへの影響力で考えると、ジェネシスの影響は無視できないほどに強大なので「四天王」と言われるようになった後から付随し「五大バンド」としたと考えていいだろう。
 この定義は一見、スマートにまとまったかのように見える。しかしその後半部分は実に曖昧だ。「その人脈、及び周辺の影響力」の部分がそれであり、そこが常に「対象がプログレッシヴであるか否か」を問われる部分と言えるだろう。
 だが、その人脈や影響力が「プログレッシヴ」であるか否かは――

「聴き手の価値観に依存する」

 というのが、現状だろう。
 つまりは、人それぞれに考える「プログレッシヴな像」がある。だからこそカンタベリー音楽やジャーマン・ロックを「プログレ」とするかどうかもめるのだし、個人の思い浮かべる像が食い違い、スタンスが異なり、文章や紹介のボーダー・ラインとなる。そのうえで、雑誌など情報源の紹介数が「価値観」の判断基準となるのだろう。ここで一例を――何度も喩えとして出しているが、マリリオンなどその解りやすい一例で、人によってはバッサリと判断が分かれる。
「ジェネシスの物真似」となじるか、
「ジェネシスの後継者」と崇めるか、
「ジェネシスの影響力」と見なすか、
 その人(あるいはその人の情報源)の観点により、その判断はまったく異なるだろう。その先にある結論とて同様のことだ。
 他にも、人によっては「ジャパニーズ・プログレ」と呼ばれるものを完全否定したり、「ネオ・プログレ」などを小馬鹿にしたりもするだろう。P.F.M.までは認めても、彼らの影響を受けた無数のイタリアン・バンドはプログレではないと言うかも知れない。
 彼らの理由は、一概にその音楽性が「嫡流ではない、言わば養子のようなもの」であるということだ。
 だが、その喩えをなぞるなら、嫡流が優秀な子孫というわけではない。そう、嫡流が「プログレッシヴ」であるとは限らない。
 これについては、クリムゾン人脈のシンガーを例に出すのが面白いかも知れない。フォーク・ロックに回帰したゴードン・ハスケルを、泥臭いロックから新たに足を進めたボズ・バレルを、ポップに目覚めたジョン・ウェットンを見てみるといい。皆一様に、見事に「プログレ」という音楽から足を洗っている(ウェットンは時折プログレ回帰することもあるが、ファン・サーヴィスの延長のようなものだ)。エイドリアン・ブリューもクリムゾン加入前まではとても「プログレ」というジャンルではなかったし、彼がクリムゾンと他を繋ぐ線となったために、様々なバンドが「プログレ」に逆に当て嵌められてしまった、というのが私の見解だ。クリムゾンのシンガーの中で、離脱後も「プログレ」を意識していたのはグレッグ・レイクだけであり、そして「21世紀の精神異常者」を離脱後も歌い続けていることが、彼の誇りや姿勢、並びに「プログレと呼ばれるものの流れと衰退」を示しているとも言えまいか。
 と、このように本家さえもがプログレでないのだから、その「嫡流がプログレ」ということは、まずないのだ。
 これはイエス、ジェネシス人脈などにも言えることだろう。今さら、独自のスタンスを確立したピーター・ガブリエルやフィル・コリンズにプログレを求めるのは馬鹿げている。イエスなど入り乱れ過ぎて、どれが本流であるのかも解らない始末だ。
 メイン・ストリーム渦中の人間でさえこのような様子なのだから、彼らの影響を「じかに受けた(=嫡流)」バンドなど有象無象、ジャンル関係なしに存在する。その近辺のみを「プログレ」としたいのであれば、それでいい。逆に「最先端」をすべて「プログレ」とするのも、それでいい。
 だが、それはあなたの中の定義でしかない。
 そういった「自家プログレ定義」しか存在しないからこそ、常に「プログレとは何か?」となるわけだ。
 だからこそ、私はそれを逆転的に取り、まずは「プログレッシヴ・ロック」というものを、こう定めたい。

「70年代前半の『四天王あるいは五大バンド』を中心とし、リスナーとその環境からくる価値判断に基づいた影響力」

 こうしてしまえば、特に「環境」という言葉を拡大解釈すれば、いかなる否定も肯定もできる。今の価値観で見たがる人間は最近の「最先端」を「プログレ」とするだろうし、昔の価値観ばかりを持ち出す人間はやはり「嫡子」にこだわる。
 結局は「人それぞれにプログレの定義がある」ということになってしまうのだ。

 だがね、私はふと、思うことがある。
 結局のところ「プログレ」という名称は、ある時期より急速に根付いた言葉だ。そして現在は、それが再評価されている。つまり、その時代は終わっている。
 となると、単なる「形式の名称」じゃないのか、と。
 つまり「アール・デコ」や「ロココ王朝風」といったものと同じで、当時のスタイルのひとつであり、現在も評価され、支持する人々がいる。そういったものではないのか、と思うのだ。

 そして、世間で言われている「プログレッシヴな行為」というのも、大体タネが見えてきた。
 CDを聴いて「プログレッシヴだ!」あるいは「プログレッシヴじゃない」と判断する基準が、見えてきたのだ。これも言い詰めれば「その人の価値観による」ということになってしまうのだが……
 例え話をしよう。
 喩えば「ロック」を愛する人間が、自分にとって恰好いいフレーズを聴いたり、場面を見たりすれば、以下のように叫ぶ。
「ロックだ!」
 喩えば「パンク」を愛する人間が、自分にとって恰好いいフレーズを聴いたり、場面を見たりすれば、以下のように叫ぶ。
「パンクだ!」
 喩えば「プログレ」を愛する人間が、自分にとって恰好いいフレーズを聴いたり、場面を見たりすれば、以下のように叫ぶ。
「プログレッシヴだ!」
……といったように。
 自分の思い描くもの(音楽性、表現スタイル、詩歌など)と合致した時に、その言葉は叫ばれるのだ。
 ほら、その判断はどうしてもリスナーに基づいてしまうのだ。このリスナーが違えば、対象はもちろん異なる。黄金期のライヴを見る懐古主義者も、最近の音楽を「プログレ」と呼びたがる者も、お互いに信じるものを見た時に、そう叫ぶだろう。
「プログレッシヴだ!」
 とね。
 そしてパンク・スタイルの人間だけを「パンク」と呼ぶのと、シンフォニックな音楽のみを「プログレ」と呼ぶのも同じことであり、つまりは「様式美」であるのだ。

 そういったことも含め、私は、今回は以下のように定義付けをしておくこととしよう。

「『プログレッシヴ・ロック』とは、70年代前半の「四天王あるいは五大バンド」を中心とし、リスナーとその環境からくる価値判断に基づいた影響力に対する、ある種の様式の呼称である。またこの『ある種の様式』はその姿も数も、リスナーとその環境からくる価値判断により多少なり変化する。そしてその本質は、日々進歩していった『ロック』というものとまったく同じである」

 今回は、どうにも説明過多(しかし説明不足という矛盾的展開)であった。
 つまりは「ロック」が急速に進歩した一過程、その時の様式の幻影が大きいだけのことさ! 誰もが、これから成長する若い異性に惹かれるのと同じことで、飽くなき成長へ向かう幻影を見るのだろうね!