15.「アーティスト」という言葉を考える
〜もはや「芸術家」にあらず〜
本項は、私が大学の卒業論文にて様々な言葉を考察したもののうち「アーティスト」について述べたものをサイト用に加筆・修正したものを引用する。青臭い文章ではあるが、何か考察に足るものがあると信じて、掲載しよう。
*辞典の定義*
「アーティスト」
(『広辞苑』第二版補訂版)
芸術家。
(『日本国語大辞典』)
芸術家・美術科・芸能人
「芸術」
(『広辞苑』第二版補訂版)
特種の材料・技巧・様式などによる美の創作・表現。造形技術(彫刻・絵画・建築など)・表情芸術(舞踊・演劇など)・音響芸術(音楽)・言語芸術(詩・小説・戯曲)などに分けることもある。
(『日本国語大辞典』)
[1]学芸と技術。
[2]鑑賞の対象となるものを人為的に創造する技術。空間芸術(建築・工芸・絵画)、時間芸術(音楽・文芸)、総合芸術(オペラ・舞踊・演劇・映画)など。
[3]高等学校における教育課程の一つ。各科目に必要な知識や技術を取得させ、創造的表現と鑑賞の能力を高めることを目的とする。音楽、美術、工芸、書道が含まれる。
*本文*
この語はさほど誤用されているわけではないが、それでも、その乱用はひどく、筆者が聞いていて一番納得のいかない言葉である。
今や、歌を歌えば、絵を描けば、あるいは小説を作ればすぐに「アーティスト」という肩書きを持つことができる。辞典を引用すれば「芸能人」との意も存在するのだから、その定義をもってすれば納得のいかないことではない。しかし、この語が成立したのにはもともと「アート」という言葉があったからであり、日本では以前からこの言葉に「芸術性」を求めていた筈なのだ。ところが現在では、それは「芸術性」にあらず「芸能性」に変わってしまっている。
「フランス語式にartisteとつづると芸能人、特に俳優・歌手・演奏家などを指す(吉沢典男・石綿敏雄『外来語の語源(角川小事典26)』/角川書店)」
こともあるので、それも日本語における「アーティスト」という語の意味成立に関わっているのかも知れない。
そもそも「芸術」とは、一種崇高なものとされてきた。ピカソやロダン、そんな人々にだけ許された「墓碑銘」じみたものである。絵画や文章に卓越した人物だけにようやく冠される「あなたは一流ですよ」という称号であった筈だ。だが今では、いかなる活動も芸術につながるとされている。どんなに稚拙な絵画・文章でも「芸術」であり、けなしてはいけない。それは「表現の自由」を侵害することになるからだ、と。
表現した後に、批評はつきものである。だがそれをされれば「アーティストとして許せない」と怒り出す。馬鹿野郎、本当に芸術家精神があるなら批評を打ち砕くほどのものを作ってみやがれ、と言うのも許されない。芸術とは崇高なものであり、冒涜してはならないからだ。つまり、創作活動に関わる人間は皆立派であり、普通の人間は何も言う資格がない、ということらしいのだ。
そもそも「芸術」という名を冠されることの恐怖を、彼らは気付いていないのだろうか? 「芸術」とはある種の「枠」であり、そこに嵌められたらそれと同じ種類のものを量産することになるのだ。「古典」と言われてずっと飾られ、あとは虚しく崇められるだけなのだ。
つい最近(*註1)、番組名は忘れてしまったが、若者に人気の職業の人々にインタビューを依頼し、その職業をまっとうするコツは何か、といったことを探る冗長な深夜番組を見た。番組名すら忘れてしまうほど印象の薄い、深夜枠の時間潰し番組だったのだが、その中でも憤懣やるかたない発言をした人物がいた。どこかのクラブでDJをしている坊主頭の男だったのだが「あなたにとって音楽とは?」との質問に彼は「表現」とのたまった後に、こう続けたのだ。
「僕ら、アーティストじゃないですか。音楽に関わっている人間、それはCD出してる人もそうですけど、僕なんかはその音楽をリミックス(ある楽曲をバラバラに解体し、再構築して別の楽曲に仕上げること)してクラブで流しているわけです。それって、すごく表現活動だと思うんですよね」
まったくもって「人の威を借る狐」である。
他人が作り上げた音楽をいじる(リミックスする)ことすら、作者にとっては冒涜になりかねない(*註2)のに、それを「表現」と言い、それができる自分は立派な「アーティスト」だと言うのだ。これは喩えれば、芥川龍之介を読んだ後にエゴイズムを軽く扱った短編を書き、自分の作品だと言い張るような気持ちの悪さがある。
そもそも、
「哲学も芸術も、天才によってのみ価値ある仕事がなされうる分野である。したがって、哲学と芸術との接点であるともいうべき美学は、天才のなかの天才が携わる領域である。したがって、美的現象を論じる部門は、哲学の一分科であるどころか、第一哲学というべき(渋谷大輔・山本洋一・三森定史・鰆木周見夫 著「知の探求シリーズ『哲学・思想がわかる』」/日本文芸社)」
ものなのだから、つい最近まで普通の、ごくありきたりの高校生や中学生だった人間が歌っただけで「アーティスト」との称号を賜れる現状は「芸術」を馬鹿にしているとしか思えない。そう、「天賦の才を持つ者」が「特種」なものを語る筈だった芸術は、今や「機会に恵まれただけの普通の人間」が「普遍的なもの」を語るものに様変わりしてしまったのだ。「芸術史・文学史・または音楽史に名を残す人」を指していた「アーティスト」の称号が、今や「芸術・文学・音楽に携わる人間すべて」を指すまでに堕落してしまったのだ。
芸術の質が落ちたのではない。
きちんと芸術を論じる人間が、いなくなったのだ。「芸術っぽい」という曖昧な境界線を越えさえすれば、誰しも「作品」を生み出せる「アーティスト」であるのだ。外来語を表面的な意(というより感覚)でとらえ、言葉の奥底に含まれる歴史を無視したあげく、都合のいい定義ばかりを乱用する……。その日本人の悪い癖が、この語には最も溢れていると思われる。中でも「ミュージシャン」を「アーティスト」と呼ぶ風潮は強く、今や「ミュージシャン」という言葉の方が聞かなくなってしまった。
人気コメディアンの「ダウンタウン」が司会をする音楽バラエティー番組『HEY!
HEY! HEY!』では、毎週ミュージシャン達を一斉にステージに呼ぶ決まり文句があった。
「それでは今週のアーティスト、どうぞ――」
そう言われてステージに出てくるのは「歌謡曲」を歌う「歌手」や「ロック・バンド」ばかりである。いわゆる「ポップスを歌うミュージシャン」を「アーティスト」と呼んでいるのだ。
これが「アーティスト」という言葉の実態である。
こういったことを踏まえたうえで、私は、飽くまで「ミュージシャン」という言葉を使い続けることにする。芸術を冒涜したくないし、彼らに胡座を掻かせ、作品とは名ばかりの刹那的音楽を量産してほしくないからだ。自分のしていることを「アート」と祭り上げてしまわず、飽くまで「音楽」であると再認識し、よりよい音楽作りに励んでほしいからだ。言葉の意味を曖昧に一緒くたにして、自分の活動を正当化することだけはしないでほしいのだ。
現在の日本語における「アーティスト」の定義とは何か?
――芸術「的」な活動、即ち絵画や音楽、作詞・作文ならびに部屋の飾り付けまで、とにかく自分を表現している人間のこと。その質はどんなに開きがあっても問うてはならず、また誰もがアーティストである。
もの悲しい、結論である。
だがそれは現時点での、事実でもある。
(*註1)
執筆当時のこと。1999年から2000年初頭にかけて? その出典が明確でないので、これは参考にならない。
(*註2)
これは勘のいい読者であれば気付くだろう。カンのリミックス盤『サグリッジ(冒涜)』によるものだ(正しい「ボウトク」は文字化けするので「冒涜」を使用)。他者の音源を自分流にアレンジすることが冒涜でさえあるということを、あのタイトルは非常によく表している。そのうえでリミックスを施してしまうという、カンに対する尊敬にも似た姿勢が窺えるではないか。しかし、本文でリミックスが何だかんだと述べていたDJは、自分をアーティストとしたうえで冒涜を冒涜と気付かず、ただ好き勝手に自分好みにリミックスしているわけだ。もし仮に、完成した音が非常に似ていたとしても、これは根本からの姿勢が異なるのは明白だろう。胡座を掻くか否か、ということだ。