14.書評:『プログレのパースペクティヴ』
〜名著? 迷著?〜
その発売以降、ずっと噂に聞いていた本がある。
『プログレのパースペクティヴ(松山晋也・監修/ミュージック・マガジン)』である。
書店で目にした第一印象は「センス悪いなぁ」だけだった。興味も湧きもしない。いかにもプログレ探求者、といった感のある不気味な写真に、エイフェックス・ツインによるこれまた例の気持ち悪いアルバムのジャケ写が載っている。まあ、そこで「何でエイフェックス・ツインがプログレなんだ?」もしくは「気持ち悪い!……プログレ?」と目を引かせる手段なのだろうが、それにしても購入意欲が削がれる表紙である。
表紙からこんな様子だから、きっと中身も……と思うと、風評に違わず。
先に言ってしまおう。
載っているのは、実に「ひとりよがりなプログレ論」である。
では、それを少し読み解いてみるとしよう。難解なものをわざわざ難解に仕立てている、この本を――それも監修者である松山氏を中心として。
くれぐれも言っておくが、本稿は松山氏自身を批判しているわけではない。彼の耳の敏感さと情報の広さはよく解るし、評価に値する。ただ、それをこの本のような形で披露してほしくなかった、ということなのだ。
読み始めると「はじめに」からこんな文章に行き当たる(これより以下、強調表示部分はすべて引用)。
「僕の考えるプログレは、日本で一般に使われてきたプログレってのと、ちょっと、いやかなり違うんですね。で、真のプログレ・ファンを自認している僕としては、そういう状況にずっと不満を持ってたわけです。日本で言うプログレなんて、結局、クラシックやジャズに対して劣等感を持っている、つまり楽理的に高等な音楽に対しての憧れ、そのお仲間に入れてもらいたがっている情けない音楽のことじゃねえか、と。まあ、そういう音楽は別の面白味もあるわけですが、少なくとも僕はプログレとは呼びたくないわけです」
しょっぱなから、飛ばしてくれる。
抜粋するつもりが、余りに面白いのでかなりの分量を引用してしまった。
いいね、これらの言葉をよーく憶えておいてほしい。特に「僕の考えるプログレは」「真のプログレ・ファンを自認している僕」の部分を!
まずこの文中で、突然「日本で言うプログレなんて」云々とあるが、ほほう、それじゃあ海の向こうではこの本にあるようなミュージシャンが“Progressive
Rock”コーナーに並んでいるとでも言うのかね? そんなことはないだろう? やはり5大バンドとその周辺、及びその影響力を中心とした流れをプログレと呼んでいまいか? 或いは、それと似たスタイルの演奏をする者達を。
日本を貶すことによって自分を優位な人間であるかのように思わせる手法だ。「日本なんてダメな国だ」と言えば、偉くなった気分になるだろう? そう言う自分はそこに住んでいるのだけれどもね。
とまれ、冒頭からやってくれる。
前述した「 」内の2文もよく憶えておいて頂きたい。いずれ、大切なポイントになってくるのだから……。
さて、本文に入ろう。
この本は幾つかの項目に分かれており、数人の筆者がそれぞれを分担している。それは悪くない。それぞれが得意な分野を分担すればいいだけのことだし、機械のことは機械屋の方が解るのは当然なのだから。
そこで松山氏が担ったのは、大胆なことに、イントロダクションとなる部分であり「肝の据わった孤独な闘争音楽」と題された「良いプログレ/悪いプログレ」を判断する、という部分だ。
まず氏は冒頭でエニドをさんざんこきおろす。
「ゴミ・バンドのクラシックのなりそこない」
「志の高い低いの前に、まず行為自体が実験的でも革新的でもない」
「ただの自己耽溺のイージー・リスニング」
だが、これはよくある手段であって、別段面白いものではない。何かそこそこに名のある存在を否定することによってまず注目を集めよう、というものだ。それにしてはエニドとは、また奇妙なところを引っ張ってきたものだ。後半にある「CD
BEST100」にはジェネシスが1枚もエントリーしていないから、ジェネシスを断頭台に上げればよかったものを……だが、解るだろうか? ここでジェネシスを否定すれば、氏は「何を言うか」という読者の反感を最初からかってしまう。だがそこへきて、エニドとは丁度いい具合だ。何が? その「プログレ具合」とでも言うか「認知度」とでも言うか、はたまた両方を割って「プログレとしての認知度」とでも言うか……つまりは、手頃なターゲットをひどくこきおろすことで、まず最初に注目を集めようという、文を書く人間にはありふれた手段である。
と、もしこの本をお持ちの方がいれば、ここで本の裏側を見てみよう。そこにはカラーの、ディスクユニオンの広告が全面に載っており、アルバム・ジャケットが幾つも並んでいる筈だ。いや、それはいい。寧ろプログレの本にユニオンの広告は必然でさえある……のだが、それが確認できたら、ほぼ中央にある、文字に隠れたアルバムをよーく見詰めてみよう。
エニドの“IN THE REGION OF THE SUMMER STARS”だ。
この時点でトホホ、と思ってしまう。意気込みの空回りと言うか……「エニドはプログレではない」と述べた本に、エニドの広告が載っているのだ。つまり、広告を出しているユニオンと、それを受け入れるリスナーの中では、エニドは立派に「プログレ」に属するのだ。
氏の考える「プログレ」がどうであれ、ユニオンはエニドを売るだろう。そしてリスナーはそれを「プログレというジャンル」として処理するだろう。氏は、そういった現状を打破したいという野望さえ持っていたのかも知れないが、これでは「意味のないオヤジのコダワリ」と同程度だ。本人以外には、何らの影響力もないことが早くも露呈している。これなら「プログレというジャンルの『今』」を見詰める行為の方が、実りの多いことは明白だろうに。
ここで少しページを飛ばすが……エニドが「自己耽溺だ」と言っておきながら、さきほども話に出した後半の「CD
BEST 100」にエルドンがエントリーされているのも頷けない点だ。エルドンこそ、リシャール・ピナスの「ロバート・フリップ崇拝」に始まり、フリップ然とすることに「自己耽溺」していたバンドではあるまいか? 私なら――デヴィッド・シルヴィアンの自閉的ナルシシズムに実りありとする私なら――「耽溺しきっているのが却って良い」と評価の対象となるが、氏は冒頭から「自己耽溺くそくらえ」との意の文にて本書を始めているのだから、早くも論理矛盾に陥る。そもそも、自己耽溺しない人間など、見付ける方が難しいだろうに……
しかも、だ。そのレヴューを他の人間が書くのならば話は解る。「松山氏は自己耽溺が嫌いだからこいつは勧めないけど俺は好きだから勧めるぞ」という具合に。だが、それを勧めるのは松山氏自身である。
つまりは「エルドンは好きだから良いプログレ。エニドは嫌いだから悪いプログレ」というだけのことではないのか? と、早くも不安になってしまう。
だが読み進めていくと、次第に「プログレとは何か?」という話題になっていく。そこでまた、よく解らないことになっていくのだ。
「たとえば、筒美京平の曲によって音に対する知覚能力や意識が大きく変化したと言うのであれば、その人にとって筒美の音楽はプログレなのだろう、というのが僕のスタンスだ」
ほほう。
それでは、エニドでプログレに覚醒した者はどうなるのかな? あまつさえ、日本のポップ・ミュージックにインスパイアされて小説を作ってしまったこともある(=これは意識変化の一端である)私は? そうか、私にとって「モーニング娘。」とはプログレだったのか!
という論理の飛躍を起こしかねない文だ、これは。個人名義の著書で大きく宣言するには、浅はかなことだったのではあるまいか?
そこで、冒頭の氏の言葉を思い出してみよう。
「僕の考えるプログレは(中略)ちょっと違う」
ここでこの2文を照らし合わせてみると……「僕の考えるプログレはちょっと違う」「知覚能力や意識が変化する曲がプログレだ」と、早くも結論が飛び出すわけだ。
ところで、あなたの「知覚能力や意識を変化させた曲」とは何でしたか?
私は、プログレには無論お世話になりましたが、今の私を形成したのはドアーズ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ジャパンなどに殆ど依存していましたよ。他にも邦楽にはすごくお世話になっていますしね。何しろ、言葉が日本語だから「意識の変化」にはもってこいだからね。「誰かを愛したい」と思う時に「あなたを愛している」という曲を聴く、そして「あの人を愛している」と思い始める……これも意識変化、でしょう? それじゃ今のJ-POPもプログレなんだろうか?……何? そういうことじゃない? もっと大きな次元じゃないかって?
書いていないのだ。
その「意識変化」だとか「知覚能力の変化」とは何か、が。
だからこうした、やけに下世話な突っ込みが尽きないのだ。
つまりは、話題を広げ過ぎて説明不足。そのうえ本人の頭の中では完結している。それが全体の文章に漂う雰囲気であるのだから、理解などまずできやしないのだ。
それでも、氏の足りない言葉を何とか自分で補って読み進んでいくと、やがて「革新者こそプログレ」であるとの論に行き着く。
いいのかい?
そうなれば裾野が広がり過ぎるのは当然のこと。ビートルズもビーチ・ボーイズも、マイルス・デイヴィスはおろか、エイフェックス・ツインからゴールディー、プリンスにベックにデ・ラ・ソウルまでプログレなんだそうな。
私なりに、彼らをジャンル付けさせて頂こう。
ビートルズとビーチ・ボーイズは「ポップス」であり「ロック」であり「先駆者」でもあった。だが「プロスゲッシヴ・ロック」ではない。
マイルス・デイヴィスは「ジャズの限界に挑戦したジャズ」だった。ジャズ・ロックの台頭のせいでゴッチャにしてしまいそうにはなるが。
エイフェックス・ツインとゴールディーは、大雑把に言えば「テクノ」である。もしくは一時期「ドラムンベース」と呼ばれていたし、今は「エレクトロニカ」というジャンルさえあるようだから、そうしたものに甘えてもいい。
プリンスは「ポップス」と「ブラック」や「ハウス」などの中間とでも言えばいいのだろうか? ジャンル付けは難しいが、彼を「プログレ」と言う人を私は知らない。
ベックはいろいろなことをあれこれやるので混同視されやすいが、彼は寧ろリズム主導である。「ミクスチャー」とでも呼べばいいか? それか曖昧な「ロック」で充分。
デ・ラ・ソウルは「ヒップホップ」でしかないだろうに。パブリック・エネミー同様、ただ突き抜けた存在であり「先駆者」であっただけのことだ。
さ、読めてきたかね?
この本は、とかく「先駆者」や「いろいろな要素を詰め込んだもの」を「プログレ」に祭り立てたがる。確かにロックに革新を起こしたムーヴメントが「プログレ」と呼ばれていた。だが、それは時代が過ぎていくにしたがって独自の意味を帯びていき、単純に「革新者=プログレ」ではなくなっている筈だ。だって、そうでなければセックス・ピストルズだってプログレだろう? 日本じゃ社会現象にさえなった「およげたいやきくん」あたりもプログレになるんじゃないのかい?
という茶々入れはよしとして(いや、茶々入れでもないかな)……。
これらのCDを“Progressive Rock”のコーナーに並べてある店があったら、私は「何てモノを知らない店なのか」と思うけれどもね。
……と、ここで私は、いつぞやの「リアルタイム世代からのメール」を思い出した。リアルタイムで体験しないと音楽は語れない、というメールを受け取ったという椿事である。
ならばチャック・ベリーは、エルヴィス・プレスリーはプログレではないのか? バッハだってそうだ。いや、それよりもギターやピアノという楽器を発明した人間こそが「プログレ」ではあるまいか!
そんな馬鹿なことがあるか。
しかし、氏の論を持ってすれば、そういう極論に陥るのは目に見えているというものだ。
あまつさえ氏は、自分の嗜好を中心に「プログレ」を語り、さんざん「良いプログレ/悪いプログレ」という言葉を使ったあげく、文末になるとそれを、
「紙面が尽きた。後は、ディスク・レヴューを読んでいただきたい」
と曖昧に締めくくろうとする。
いや、まったく締めくくれていない。
結局は、彼自身の「プログレ」あるいは「良いプログレ/悪いプログレ」の定義は双方とも、そこには記されていない。ただ彼の好みを「革新的」と祭って「良いプログレ」とし、彼の好みでないものを「自己耽溺/非革新的」と蔑んで「悪いプログレ」とする姿勢がずっと述べられているだけだった。その具体的根拠は、「(一般に言われる)プログレ以前の革新者」と「代表的プログレ」を対比させることによって、さもそこに自分の論理が表されているかのように見せかけている。つまりは、自分なりのプログレ観を克明には述べず、曖昧に捏造しているのだ。なぜなら、飽くまでそれらは対比であって、彼の明快な言葉が底には存在しないのだから。
それにしても、氏の担当する項の文中にはロバート・フリップは名前すら出てこなかったぞ。ということは、フリップはプログレには無関係だったのかな。初めて知ったよ! 幾ら本人が否定しようとも、彼はプログレと密接な関係にあると思っていたのだがね!
諸君はどうだろう?
そういえば、氏の題目であった「肝の据わった孤独な闘争音楽」とは、結局はどういうものだったのだろうかね? それも曖昧なまま流されており、結論どころか、具体的には触れてさえいなかったのだが。
さて、松山氏の担当する項はそこで終わる(他の項にもレヴューや対談などはある)のだが、氏の論は、実は意外なところで意外な終わり方をみせる。
それは別の項、湯浅学氏が「未知の音を求めてさまよう“日本のプログレ”」と題して担当した項でのことだ。
そこでは題目の通り、日本で「プログレ」と呼ばれるミュージシャンの流れを紹介している。その中でまず引っ掛かったフレーズがあるのだが、
「勝手に前人未踏の領域に踏み出した者が80年代には日本中に多発していった」
というもの。
おや? 松山氏は「革新者こそプログレ」と言っていたのだから「前人未踏の領域に踏み出した」ものも「プログレ」ではないのだろうか。しかしこの文章には「勝手に」という否定的ニュアンスが付加されている。もしや、同じ本で文章を書いている湯浅氏にここで突然反駁されたのだろうか。
そのうえ「勝手に」というフレーズも引っ掛かる。それではキング・クリムゾンは『クリムゾン・キングの宮殿』を勝手に作ったのではなく、何らかの礼儀やしきたりでも踏んでいたのだろうか。ピンク・フロイドは『原子心母』にて、勝手にロックとクラシックを融合させたのだろうか。勝手だからこそ、突発的だからこそ一代ムーヴメントたり得たのではないだろうか。
さらに続く湯浅氏の言葉が、最も素敵だ!
「日本中に“私家版プログレ者”が日毎夜毎生まれている」
私家版、
それは「俺の中では」ということ。
はい、ここで冒頭の松山氏の言葉をもう一度引っ張り出してこよう。
「僕の考えるプログレは、日本で一般に使われてきたプログレってのと、ちょっと、いやかなり違うんですね。で、真のプログレ・ファンを自認している僕としては、そういう状況にずっと不満を持ってたわけです。(中略)まあ、そういう音楽は別の面白味もあるわけですが、少なくとも僕はプログレとは呼びたくないわけです」
それは湯浅氏の言う「私家版プログレ者」そのものではないか!
プログレの森を解明すべく乗り込んだ氏は、見事に森に迷い、道しるべを無視したあげく、入口に戻ってしまったのだ。それも皮肉なことに、同行者の誘いによって。だが、それでも氏は戻ってきた入口を出口であると思い込んでいるようで、それで解決なのだ。「永遠の袋小路」に自分が迷い込んでいることに、気付いてさえいやしないのだ。
永遠の袋小路、
その言葉を最初に用いたロバート・フリップに乾杯! この本によると、プログレというものに於いて彼は大した人物じゃあないようだけれども、ね。
[総評]
この本は、プログレの要素を「志」と「テクノロジーの進歩」双方に於いて見詰めようとしたあげく、視野を無理に広くし過ぎてどちらも遠くまでは見えず(もしくは遠くまで見過ぎて)、まとまりがつかなくなっている。
そのため「テクノロジーの発展」の先にあるテクノは、ほぼすべて「プログレ」に位置するのだそうな。私は「テクノというジャンル」が確立した時点で、クラフトワークなどはプログレとは別に「テクノ」の扱いをすべきだと思うのだが、本書では飽くまで同一線上で考えよ、とのことなのだ。気の長いことに。そもそもにして「プログレ」とは「プログレッシヴ・『ロック』」の略であるのだが……。
あまつさえ「志」というものは常に曖昧に、筆者自身の中にだけ存在したままで、我々に具体的な言葉でもっては教えてもらえない。寧ろCDレヴューに並んだものから「松山氏の言うプログレの定義」を考えろ、と強要する。また対比に次ぐ対比ばかりで、文章中からそれを汲み取ることは、少なくとも私には不可能である。
だって、最初から「僕の考えるプログレ」という言葉で持って、他者の理解と介入を拒絶している本なのだから! それじゃネット上にはびこる「俺流の定義だから俺が解ってりゃいいんだよ」と叫んでいるだけの、拙いプログレ定義と同等だ。
しかし、ある程度「プログレとは何か?」を考えたことのある方にとっては、ある意味とても「面白い」かも知れない。それも“interesting”のではなく“funny”の意味で……それらしい論の装飾を剥がしてみれば、筆者の迷走する様がありありと露呈しているうえに、自分を晒け出しているようでいて、ずっと隠蔽している。そんな、実に奇妙な本である。
それではここで、冒頭の松山氏の言葉をモティーフにして……。
「少なくとも僕は(この本に載っているものの殆どを)、プログレとは呼びたくないわけです」
私見では、本書に1,200円もの金を注ぎ込むのであったら、エニドのアルバムを中古で買った方が得になると思われる。少なくとも、そちらは繰り返して聴ける。だがこの本は、繰り返し読む気には、とてもなれまい。
それが、良かれ悪しかれ「プログレ・ファン」の現状であるのだよ。
[もっと素直な感想]
あのねえ、音響と機械の話ばっかりだった。
あとは「オヤジのコダワリ話」だけ。
っていうか、何でもプログレになっちゃうし、名があればこんな本でも出せるんだね。いろいろなことにがっかりしたよ。