13.黄金期の幻影
〜これは○○ではない……のだろうか?〜
どんなバンドであろうとミュージシャンであろうと、ある程度の期間活動を続けていると「黄金期」というものが設定される。それは音楽のみならず、小説家だろうが何だろうが、表現者にとっては必ずあることで、人間ひとりひとりにさえ言えることだ。普段は特に意識もせず「ピーク」と呼んでいる期間/時点のことである。
それが音楽表現者、特にプログレ畑の話になると「プログレとは何か?」という命題をも含んでしまうので、ややこしい。「黄金期=最もプログレッシヴな姿勢であった時期」という暗黙の了解が、そこに生まれてしまうからだ。
そうなると、次の言い回しがよく用いられるようになる。
「これは○○ではない」
この「○○」には、バンドやミュージシャンの名前が入ることもあれば「プログレ」という言葉が入ることもある。後者は、未だ明確な定義のない曖昧なそのジャンルゆえに、用いられても仕方がないものだろう。私も時折、説明するのも面倒になって用いてしまうこともある。何が面倒かって? それがまた、前者と関係してくるのだ。
他ページでも引用または参考にしている『ア・ヤング・パーソンズ・ガイド・トゥ・プログレッシヴ・ロック(音楽之友社)』という「プログレ・ガイド本」がある。その中のジェネシスのページから『創世記』に述べられた片山伸氏のコメントの一部(以下強調部)を引用させて頂こう。
「(前略)……他のバンドがそれぞれデビュー時にある程度のレヴェルに達していたことを考えると、これはジェネシスとは言えない」
何を言うか。
『創世記』を録音したのは、まぎれもなくジェネシスである。
その前部に「プロデューサーのジョナサン・キングの言いなりになるしかないほど彼らは立場が弱かった」との意が述べてあるので、目くじらを立てなければ気にならないだろう。寧ろすらりと流せる文章であるのかも知れない。だが私は、この一文に「プログレ/音楽愛好家」の「ややこしいこだわり」を感じてしまうのだ。
その文がなければ、私とてコメント全文をすらりと読み流せた。しかし、それはプログレ・ガイド本という媒体のせいもあって「ジェネシス」の黄金期――所謂「プログレ・バンド」であった頃――のイメージを前提としている。そのため「ジェネシス=プログレであるべき」という極論に達しかねない。特にジェネシスというバンドはある時期に音楽性がコロリと変わるので、そのポップに生まれ変わった後の音楽は、薄っぺらいプログレ・ファンには嫌悪さえされているきらいがある。バンドの表現スタンスさえ確立されておらず、よくある学生バンドとしてデビューしたにも等しい『創世記』も然りである。
「これはプログレではない」
という理由がやがて、
「これはジェネシスではない」
という結論を導いてしまう恐れがあるのだ――「黄金期の幻影」に踊らされて。
それは山の一部である樹木一本の美しさに見とれて、山そのものを見ないのに似ている。一箇所をじっと見詰めているがゆえに、全体を眺める余裕さえを失っているのではないだろうか? 音楽性が変わっていることを含めて、ジェネシスはジェネシスであるのだ。
同様のことが、ピンク・フロイドにも言える。こちらはグループの音楽性が変わったというよりも、リーダーの交代によりグループの音楽性が変わった、ということになろうが、やはりデヴィッド・ギルモア主導によるフロイドは、昔からのファンには評判が悪い。「ロジャー・ウォーターズあってのフロイドだ」と叫ぶ人間が少なくないし、ともすると「シド・バレット時代しかフロイドではない」と言い出す者さえいる。
馬鹿を言うな。
それらはすべて「ピンク・フロイド」の名のもとに作られているのだぞ。
リーダー脱退劇やそれにまつわることがらを含めて「ピンク・フロイドの曲」と認めることが、なぜにできないのか? それも「黄金期の幻影」が見せる幻覚だ。『狂気』の、あるいは『夜明けの口笛吹き』での印象が強過ぎるがゆえに、それを最上のものとし、それ以外を拒絶している。自ら虚像をこしらえて、それを崇拝しているのだ。そもそも、フロイドなどは「ピンク・フロイド」という名義のためにロジャーが起こた裁判により、長い間デイヴ側と法廷で争ったことがある。しかし結局デイヴが「ピンク・フロイド」の名を勝ち取ったため、法律上、しっかりと彼がフロイドを名乗ることが許されている筈なのだ――というのに、ファンの一部はそれを認めてくれない。実に了見が狭く、ともすれば、法に反したことでさえある。
さらには、キング・クリムゾンについてもそれがあるのはもはや簡単に推察できるだろう。『クリムゾン・キングの宮殿』のみをクリムゾンとする者、ジョン・ウェットン時代のみをクリムゾンとする者の二者が、特に多いと思われる。それぞれが違うスタンスで偉大な実績を残したがために、それしか受け付けられなくなっているのだ。他の違う血液型の血は、彼には輸血できない。なぜなら、彼とは血液型が違うからだ。それ以前に、様々な血が混じった「キング・クリムゾン」という集団名称を眺めることも忘れて。
ここまで言ったのなら、やはりイエスにも触れねばなるまい。イエスがそういった批判を受けるのは、間違いなく『ドラマ』の時期だ。つまりは、ジョン・アンダーソンが脱退し、代わりに元バグルス組のふたりが加入していた時期である。イエスはアンダーソンの声によるイメージが強いため、彼はロバート・フリップが「ミスター・クリムゾン」であるのに似た様相を呈している。しかしイエスの名義の権利は、リーダーであるクリス・スクワイアにある。そのため、彼が「イエス」という名を冠すれば、極端な話、喩え他のメンバーがピンク・フロイドであろうとイエスを名乗ることが許される筈だ。裁判などない分、フロイドよりも数段理解しやすいことであると思うのだが、自らが勝手に築いた「イエス=ジョン・アンダーソン」という公式に踊らされてしまう者も多いのだ。
もうひと組、EL&Pに関してもうまく言及したいところだが、彼らは「EL&Pではない」と言われることはごく少ない。それはなぜなら、代わりに「EL&Pはつまらなくなった」という言葉の方が圧倒的に聞かれるからであり、そうなるのは彼らが強い3つの個性のぶつかり合いだからだ。バンド名が表しているように、キース・エマーソン、グレッグ・レイク、そしてカール・パーマーの3人が揃えばそれは単純にEL&Pであるのだ。「エマーソン、レイク&パウエル」を「EL&Pだ」「いやEL&Pではない」と言い始める、解ったのか解らないのかさえも解らないような不毛な論争さえも時折あるようだが。
ついでに、もうひとつ。プログレ・バンドではないが、その接点がないとも言えないバンド――ヴェルヴェット・アンダーグラウンドについても述べておこう。彼らのリーダーは、間違いなくルー・リード、その人である。だが実質的な解散状態に於いて、ダグ・ユールが一度だけその名義でアルバムを出したことがある。それを「ヴェルヴェッツではない」と言う向きが強いようだが、それも間違いなく、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのアルバムである。喩えユールが「殆ど騙されたような形でそのアルバムをリリースしてしまった」のであっても、哀しいかな、それはヴェルヴェッツの名を冠しているのだから。「ルー・リードもスターリング・モリソンもモーリン・タッカーもジョン・ケイルもいないヴェルヴェッツ」であることは間違いないのだ。
それらを受け入れるのが、ファンを自称する人間の義務ではなかろうか?
それらが、そのバンドの名義で発表されたという現実を。
本文を書くにあたって発端となった片山伸氏の文章も、本当はその事実を受け入れているのだろう。しかし紙面のスペースなども考え、文章をまとめるにあたって「これはジェネシスとは言えない」という表現を用いてしまっただけなのだろう。氏にその文責はあるだろうが、ファンがプログレ・ジェネシスを崇拝することに対する責任はない。ただ、その言葉をただ黙って頷いて受け入れてしまった人間がいれば……「黄金期の幻影」に踊らされている可能性が、ないとも言えない。ほんのつまらないこだわりのせいで、本来なら得るものを多く含んだ曲すらも素直に受け入れることができなくなっている恐れがあるのだから。
バンド名というものは言わば看板であるのだから、入口の看板が気に入らなければ客は店にも入らない。しかし店に入らずとも客は独断で「センスの悪い店だ」と偉そうに話したりする。
そんなことがないよう、一度、店に入ってみるといい。
フィル・コリンズ主導のジェネシスだって、実に良くできたポップ・ソングの応酬で、悪くなどないのだから。軸とする表現形式が変わった、というだけの話なのだから。
80年代キング・クリムゾンの曲が再評価されている今だからこそ、それを考えてみてほしい。ジャンルの定義でつまずいたうえに名義でまでつまずいてしまっては、曲など聴く余裕さえも生まれないだろう。