11.「プログレ・ブーム」と若年層

〜百花繚乱、跳梁跋扈の現在〜

 とある友人に「最近プログレはちょっとブームだからね」と言われたことがある。若い人間も多く、さながら私のようにプログレというものに手を出しているらしい。
 しかしここで、様々に複雑な思いが胸中を駆け巡った。
 何よりも引っ掛かるのが「ブーム」という単語だ。私にとってはそれ即ち「流行」という、多くのものの表面ばかりを見る行為として認識されているきらいがある。
 だが、本当にプログレがブームであるのか?
 これについては、頷かざるを得ない。80年代以降の、所謂プログレや大御所が馬鹿にされ続けた時代が過ぎたらば、何が訪れただろう? リヴァイヴァルの嵐だ。様々なものが再登場を迎え、また消えていくことも多くあった。そのリヴァイヴァル商品の中に、プログレもあったのに違いない。
 考えてもみよ。ほんの数年前まで、現在ほどにプログレをおおっぴらに扱った雑誌なり書籍なり、レコード会社などがあっただろうか? これらは近年にして急速に増加したものだ。殊にプログレ・ファンに的を絞った「ストレンジ・デイズ」や、シンフォニックを中心に扱う「ユーロ・ロック・プレス」などは、近年にして刊行され始めたものだ。
 では、どうして死んだ筈のプログレというものが復活したのだろうか?――以下は、基本的には日本に於ける時代の流れとしてとらえて頂きたい。
 その答えは簡単なことである。
 死んだ筈だったキング・クリムゾンの復活だ。
 彼らは74年の正式解散宣言後、80年代に一度よみがえりはしたが、そこで聴かれる所謂「80's クリムゾン」は時代の流れを逆手に取ったダンス・ミュージック志向がふんだんに入り込んでいたため、プログレ復興には至らなかった。というよりも、ロバート・フリップはそれが80年代には不可能であるということがよく解っていたのだろう。だからこそ彼らは、またも長い沈黙に入った。
 そして『ヴルーム』と『スラック』を引っ提げての大復活となる。
 それまでに何度も、よくありがちな「名盤特選企画」に『クリムゾン・キングの宮殿』はエントリーされていた。しかし多くの若いリスナーにとってそれは、時代に適さないものとして認知されていたようだ。喩えば、80年代にそのアルバムを売ろうと試みることなど可能だったかね? コマーシャル・ソングしか売れなくなった、ジョン・ウェットンがエイジアを結成した80年代に。「フールズ・メイト」が方向性をがらりと変え、奇抜さばかりが注目されるようになった80年代に!
 ところが90年代となると、情勢は一変する。バブルとやらは弾け、安易なコマーシャリズムは崩壊し、喩えばニルヴァーナの故カート・コバーンはフェイヴァリット・アルバムに『レッド』を挙げた。リスナーは急に向きを変え、80年代ポップ・ソングを下等と見なすようになった。新しい何かが求められた。新しい、革新的なものが。
 温故知新、
 プログレの再登場である。
 そうした経済やらとも関連してくるであろうリヴァイヴァル・ブームの中に、クリムゾンは『スラック』という起爆剤を与えた。かつての英雄は、その一撃をもってして再び「プログレッシヴ・ロック」を築いたのだ。するとその周辺のバンドやらミュージシャンにも注目が移り、イエスなりフロイドなりが注目を浴びていく。そこへ突け入るように様々なバンドの復活や解説者の急増が追い討ちをかける(これらは今でも続いているだろう)。その繰り返しの先には模倣バンドも増え、また需要と供給のバランスが崩れ、急速な復刻やら再販やらレア盤続出やらが続いていく。
 そうして、現在にあるわけだ。
 以前「プログレッシヴ・ロック即ちキング・クリムゾンである」という言葉を放った方がいたように記憶しているが、その言葉は、あながち嘘でもないのかも知れない。確かに「プログレッシヴ・ロック」という概念を、音楽史の中で一夜にして築いたのは彼らであったし(それまで似たような動きはあっただろうが、パンクに於けるセックス・ピストルズと同じく「決定打」とすれば文句はあるまい)、また前述のように、リヴァイヴァルの大きな要因となっているのには恐らく疑いはないだろうから……ロジャー・ウォーターズの欠けたピンク・フロイドは批判の的となり、イエスは自身が安定せず、EL&Pに至っては時代に流されていた。ジェネシスにピーター・ガブリエルとフィル・コリンズが在籍していたことを知る者は減り、ジェスロ・タルはその存在すら認識せぬ若者が多くなった。非英語圏にはロック・ミュージックが存在しないとさえ思っていた若者も、決して少なくなかった筈だ。
 そういった価値観を、クリムゾン及びフリップは、またも一夜にして逆転させてみたのである。
 ただ若年層には、嘆かわしいことに――他の人間とは違うものを聴いている、という優越感のみでプログレを聴く動きもないとは言えない。そのテクニックなり何なりに陶酔するのならばいいのだが、そうしたものをまるで自分のものであるかのように、「こんなにすごい音楽を聴いている俺はすごいんだぞ」とでも言わんばかりに標榜する輩も少なくはない。自分にとってその音楽がどういった意味を与えるのか一片も考えたことなく、単純にスタイルのひとつとして聞き流している人間も少なくないだろう……。こういったことはプログレや音楽ばかりではなく、喩えば映画などにも当て嵌まるだろう。私の好むジャン・リュック・ゴダールを「こんなに難しいものを観ている俺はすごい人間なんだぞ」と言いでもするかのように観る人間(特に大学生に多い)は多く存在する。そんな人間がゴダールを知ってしまった原因は、ゴダールを偉大だと崇める人間が書いた著作や音楽を好んだ延長上に、それを見出しているためだ(これは「顰蹙のカンタベリー講座」に記したことと同じことが言える)。それと同じことが、プログレに於いても行われている筈だ。あのミュージシャンがいいと言っていたから聴こう、ということが。それをきっかけにするのではなく、陶酔の種とせんがために……。
 対象に陶酔するのではなく、対象に陶酔している自分自身に陶酔する人間が少なからず存在する。前項の「癒し系」と同じようにして。
 そうした若年層ではなく、リアルタイムでプログレを聴いていた方々には、私が決して用いることのできない「経験論」という武器がある。
 その分、もはや「脱形式」をテーゼとした筈のプログレというものが「ジャンル」になってしまったという逆転的な状況にある現在では、リアルタイム世代のように体験としてプログレを消化/昇華することができない。だからどうしても後追いになるか、形式化した「プログレというジャンル」を聴かざるを得ないのだ。そのうえでメーカーなり雑誌なりが魅力的なキィ・ワードを放り込めば、聴きたい音楽が確立していない人間は、キィ・ワードに飛び付いていくだろう。その形骸化しているという実態さえ気付けないままに……。
 形式化したプログレには、私は、核たるものがないと考えている。表面的な音の作りばかりを重視するもの……。そう、ここで思い出して頂きたい。冒頭部分、私が引っ掛かっていた友人の言葉を。
「ブーム」即ち「多くのものの表面ばかりを見る行為」だ。
 これをもってすれば、シンフォニック・バンドの乱立も頷けよう。
 大体にして近年の「流行したもの」には「定着したもの」がない。それか定着したところで、ごくごく一部にカテゴライズされるだけだ。様々な物が、食べ物が、言葉が……現れては一瞬にして消えていった。残った場合も、ひっそりとリストなりメニューの片隅に追いやられているか「(死語)」というフォローを入れねば恥ずかしくて使えなかったり、という具合だ。
 もしや、それらと同じように「プログレというジャンル」も、食われるだけ食われて消えてしまうのではないか?
 喩えは悪いが……2000年現在にして一時的に復活しているものの、没頭する人間以外はその消滅が時間の問題であると解っているパラパラ・ブームのように。
 そうして「消費」された先には、プログレはどうなってしまうのか?
 またも自然消滅に陥ってしまうのか?
 私にはそれを考察するだけの力はない。しかし世の常として、需要を越えた供給は、消滅するのみである。これは悲しくも、真実だ。
 供給がまだ過剰までは達していない今こそが、リヴァイヴァル・プログレにとっては幸福な時期なのかも知れない。

「プログレ(死語)」

 こう記述される日は、果たして訪れてしまうのだろうか……。