10.「癒し系」への危惧

〜言葉が消えないうちに!〜

 さて「プログレとは何か?」という話題が続いたので、ここで骨休めである。
 皆さんは、2000年終盤現在(執筆当時)でも世間にはびこる「癒し系」という言葉をどう考えるだろうか?
 よもや耳にしたことがない、という方も皆無であるほど蔓延してしまったこの言葉ではあるが、ご存知ない方のために、もしくは、流行語として廃れて忘れ去られてしまった後のために、この語の「定義らしきもの」を軽く記述しておこう。

 それは私が考えるに、1999年内に誕生した言葉であると思われる。現在では「癒し系」の筆頭にさえ挙がってしまっているエンヤ(本人が知ったら迷惑な話だろうに……)も、ベスト盤リリース後になってようやく注目を浴びたことになろうが、そのベスト盤がリリースされた`97年当時、そのような括り方はされなかった。
 では、何をもってしてその言葉は生まれたのか?
 これがいまいち、不明瞭なのだ。誰しも知らないうちに、しかしいつの間にか定着してしまった言葉である。まるでその括り方自体が曖昧であるかのように……。
 私の独断で言えば、J-POPに於いて「Kiroro」というふたり組のユニットが大ヒットを飛ばした後あたりではなかったか、と思われる。無論曖昧な記憶を辿っているので確実には程遠いことをご留意願いたい(なお、以下の文章は彼女らに対する批判ではないことも先に述べておく)。
「彼女たちの曲や声は、自分が癒されていく感じがする」
「そういえばあの人の声もそうだ」
「そういえばあの人の曲もそうだ」
「それじゃあ、こんな優しい気持ちにさせてくれる曲を『癒し系』と呼ぼう」
 ただそれだけの、括り方である。
 曖昧このうえない、定義のしようもない言葉であるということを、まず念頭に置いて頂きたい。

 さて、タイトルを一瞥すれば何とはなしに解って頂けるかと思うのだが……私には、この「癒し系」という名称に対して、甚だ否定的である。それはあなたが気に入らないだけでしょ、と言われればそれまで! そう仰る方はこれ以後の文章は読んで頂かなくて結構だ。誰かに対して「癒し系」と呼ぶことが失礼な行為であるということに気付けなくてもね!
 大体にして「癒す」という言葉そのものの定義さえ曖昧にしたまま、その語を用いてはおるまいか?

いや-す【癒す】[自四]病・飢渇や心の悩みなどをなおす。
(岩波書店『広辞苑(第二版補訂版)』より)

 これを名詞化し、音楽に当て嵌めたものが「癒し系」であろうが、そうなると私の「癒し系」とはキング・クリムゾンであり、ピンク・フロイドであるのだがね? 人によってはデス・メタルに心の悩みを解決してもらった人もいるかも知れない。
 要は「ヒーリング・ミュージック」のことなのだろう? と言いたくもなるのだが、それも違うようだ。なぜなら「ヒーリング・ミュージック」と目される音楽の殆どはインストゥルメンタルであったり、森や海や生物の鳴き声など、自然環境の音を収録したものである場合が多い。それに対して「癒し系」ではヴォーカル曲でも、ヒット曲でも、ジャズを根底としたインストなどでも良いのだ。大体にして「癒し」とは、どちらかというと「メディカル」であって「ヒーリング」とは微妙にニュアンスが異なる。
 つまるところ「何となく透明感があって気持ちいい音楽」のことである。
 何を言うか。
 何を聴いて気持ち良くなるかなど、千差万別だ。それこそ前述のように。だというのに「これが癒し」「これは癒しじゃない」などと、勝手に決められてしまっては困る。まだどちらかというと定義のはっきりしている「ヒーリング・ミュージック」と違い、余りにその存在自体が曖昧過ぎる。
 そのうえで、路頭の知りもしない絵空事の愛を囁く歌うたいや、エッセイ書きや、映画や何やら……様々な媒体に、この言葉は用いられている(筆者の好む原田宗典のエッセイやゴダールの映画までが、ごく一部でそう呼ばれているのに私は呆れたものだ!)。
「用いられている」?
 もとい――「悪用」されている。
 では、なぜそれを「悪用」と言い切れるのか?
 どんなに長い構想をもってして曲を完成させても、文章内にどんなに意味深なことを埋め込んでも、様々に取れる抽象性を映像に持たせても……それすべて「癒し系だね」という感想をもって、そこで終了させられてしまうからだ。音楽なり文学なりの奥底へと迫る前に、表面ばかりを見詰められ、単なる自慰行為の一端として使われているのが「癒し系」の現状であるからだ。
 そのうえ今現在は、何でもかんでも「癒し系」であればそこそこは売れる、という世の中である。それに便乗した作家(曲も文も含めて)なりプロデューサーなりが多数存在する。そうして刺激もない、影響もない、ただの慰めだけの物質が浪費されていく。
 つまりは、この語が存在する限り、ケルトもしくはアイリッシュ・ミュージックは、喩えば戦争を繰り返す人間の愚かさを嘆いた歌であっても、その本質に近い部分などまるで理解されないだろう。そして、どうってことのない退屈なだけの駄曲が売れてしまったりもする。それらはやがて、この「癒し系」ブームが去った後には、恐らく理解されないまま売り上げが落ちていくか、中古屋で邪魔な存在となるだろう。
 その先が見えているだけに、私は、この「癒し系」という言葉に危惧を抱くのだ。
 喩えば、今現在にしてアディエマスを耳にする人のうち、そのメンバーについて知っている人間はどのくらいいるんだい? ソフト・マシーンやニュークリアスを聴いたことのある人間が、どのくらいいるんだい?
 所謂プログレを聴いたことのない人間に、それを問い質してみたいものだ。答えは歴然としているけどね。
 そしてある方より戴いた「結局のところ『癒し系』とは『甘え』ではないのか?」との意見に、いたく共感した。そう、それらを「癒し系」とする人々すべてが、何かに甘えていると言っていいだろう。
 何に?
 それはごくごく簡素で、かつ深刻な問題だ。なぜなら答えは――「自分自身に」であるのだから!
 こんなに頑張ってるのに励ましてもらえない自分を癒してほしい、こんなにいい娘なのに振られてばかりの私を慰めてほしい、こんなに素晴らしい人間なのに評価されない自分に本当は価値があると言ってほしい……。そういった「自分自身を表現する方法を知らずにいる輩」が、その手段を探ることもせず、袋小路しかない自己の迷宮に埋没したあげく「癒し系」の歌詞に、調べに甘美なる響きを求め、そうして耽溺してしまうのだ。
 甘い調べに――いや、そうした音楽や歌詞に酔っている自分自身に、酔うことで。これは女性が何かを「可愛い」と表現することで、可愛いものを愛でている自分を本当は可愛いと思っているということや、男性の「格好いい」に相当するだろう。無論、そういった人間ばかりではなかろうが、そうした意図のある人間が皆無であるなどと、言うこともできまい。
 実は「癒し系」という言葉は、その根底に中途半端なナルシシズムを秘めているものであったのだ。昇華しきれない、浸りきることも、決別することもできない、己れ自身に甘えるナルシシズムに。ただ浸ることで心地好さを得られる、他者の理解を拒みつつも、誰かに理解されたいと願うナルシシズム――そのうえ真の理解者は自分自身であると解っている――に。
 だからこそ、自分のナルシシスティックな波が過ぎれば、すぐに「癒し系」は「中古500円」に取って代わる。まるで救急バンか何かのように、ね。
 良かったね。まるで価値のないCDでも、出しさえすれば「アーティスト」気取れる世の中で!

 最後に質問だ。
 来年になれば、この言葉は残っているだろうかね?
 そして「癒し系」と目された人間――但し日本国内――は生き残っているだろうかね?
 いつの間にか聞かなくなった、存在さえ確認できない余りに多数の「カリスマ何とか」達と同じように……

 もうひとつ、思い浮かんだので質問してみよう。
 ピンク・フロイド――特に「エコーズ」や「狂ったダイアモンド」なんかも音としては「癒し系」なのだがね。なぜこれがそう呼ばれないか、解るかな?
 少しでも聴いたことのある人であれば、簡単な答えなのだがね。
……表面だけの理解を、音楽自身が拒んでいるからさ!

*追記(2002年)*

 現在でも、この言葉は残っている。意味合いも変わっていない場合が殆どだが、その曖昧な快適さを皮肉るように「ネタ」として用いられることも多くなった。それはまあよい。
 だが、困ったことにこの言葉はさらなる若干の細分化が行われ、音楽のみに用いられるものではなくなった。健康グッズなどに用いられるのは必然であるのだが、最もよろしくないことには――人間、それも容姿が劣る者や、行為や発言が愚図と見て取れる男女に用いる傾向が強くある。
 行為の(自発的/意図的な)愚鈍さをそう呼ぶのは「和む」という言葉に繋がり、意味は解る。しかし「容姿が劣る者」をそう呼んでいるのは哀しきことだ。それはつまり「こいつに比べてあたしはだいぶマシ。だからあたしの心を癒してくれる存在」という、優越感によるものであるからだ。
 そう呼ぶ者は自らの醜悪な心に気付けない。呼ばれている者は良い意味にばかりとらえ、図に乗って自分の才能を過信する。
 そんな構図が、最近の芸能〜音楽に見られないかい?
 誰が、自分の名前を言うだけしか能のない一過性芸人を、正当に評価しているんだい?