9.第ニ次結論

〜年代的考証のうえで〜

 前回の結論導入に於いて、私は下記のようなまとめを行った。

(第7項より抜粋:)
「プログレ」とは60年代後半から70年代前半にかけて、他の音楽とは一線を画した実験的方法論を駆使した音楽/ミュージシャンの総称である。

 今回はそれを、補足する形で論を進めていきたい。
 前回、この結論を導き出して納得する部分が大きかった半面、疑問点も多かった。幾らフバート・フリップが自分を「プログレッシヴ」であると言及していなくとも、私には、彼の音楽表現が「プログレッシヴなもの」を感じる。黄金時代ではなくなったイエスにも「プログレッシヴなもの」を感じる。その反面、現在のフロイドなどには「プログレッシヴなもの」を感じてはいるが、その絶対量がフリップなどとは格段に違う。ましてやジョン・ウェットンにはそれを感じない。彼から感じるのは「ポップネスへの昇華」であるので、それを「プログレッシヴな行為」とするのは失礼だし、そうすることを認めてしまえば、どんな音楽も「プログレ」になってしまう……
 だからこそまずは「プログレッシヴ・ロック」と「プログレというジャンル」の違いを明記しておかねばなるまい。これは実に容易なことだ。前者についてを私はずっと考え続けてきているのだが、後者については、以下に集約される。

「プログレというジャンル」は、60年代後半から70年代前半にかけて、他の音楽とは一線を画した実験的方法論を駆使した音楽/ミュージシャンと、彼らからの影響を多大に受け、模倣さながら似用いた、彼ら以降の音楽/ミュージシャンを「ロック」というジャンルに内包された、その中の一ジャンルである。

 それでは前者――「プログレッシヴ・ロック」とは何か? いや寧ろ、私が思い描く「プログレッシヴ」とは何を指すのであろうか?
 それを今回は「プログレッシヴな行為」という側面に絞って考えていきたい。そのうえで前述の「プログレというジャンル」の定義と、Hawkeyeさんの意見とを混じえていくと、実に納得のいく定義付けができたのだ。
 喩えばあなたが「プログレッシヴだ」と思う行為は、以下のようなものではあるまいか?
「他とは一線を画した、斬新な手法を用いた行為」
 我々が「プログレッシヴだなぁ」と曖昧に思い描く定義は、そこに始まっていると思われるのだ。
 それを踏まえ、Hawkeyeさんの意見よる「リスナーへの影響云々」の部分を抽出、混交させると、以下のような結論に至った。

「プログレッシヴな行為」とは「プログレというジャンル」を聴くことにより想起されたリスナー自身により行われる行為のうち、斬新・革新的と思われる手法のもとで従来とは一線を画した手段・方法論でもって行われる行為・表現行動を指す。
 または「プログレというジャンル」を聴かずとも、それに類推する斬新・革新的と思われる手法により、従来とは一線を画した手段・方法論でもって行われる行為・表現行動を指す。

 どうであろう?
 こう定義すれば、私がこの『KENの生悟り』トップページに於いて記述している「プログレ愛好家を名乗るならば、彼自身も何らかの意味でプログレッシヴな人間でなくてはならない」という、私の持論にも頷けるのではないだろうか。私自身はこれを信じたうえで、ムソルグスキーが行った「絵画から音楽へ」の逆転さながらに「音楽から小説へ」という変換を行っているつもりである。無論自画自賛の恥晒しではあるが。
 だがこれれは、飽くまで「プログレというジャンル」或いは「プログレッシヴな行為」を示すのであって「プログレッシヴ・ロック」というジャンルについて言及したものではない。「クリムゾンはなぜプログレッシヴなのか?」という問いには、まだ結論を見出せないのが現状である。今回の結論をもってして、ほぼ強引に「プログレッシヴな行為」を音楽に於いて行っているため、とすることもできようが、そうすると前述の「プログレッシヴな行為」の定義が「プログレというジャンル」という基盤の上に成立しているがゆえの弊害が生じ、どんなミュージシャンも「プログレッシヴ」だとされてしまう。
 今後は「プログレッシヴな音楽とは何か?」が主たる疑問となっていくだろう。