6.忌み合う双子

〜パンクとプログレ〜

 プログレというムーヴメントが完全に去った頃、何が台頭していたかご存知だろうか?
 無論、それはパンク・ミュージックのことである。
 そして私にとっての「純粋なパンク・ミュージック」は、セックス・ピストルズに始まり、セックス・ピストルズに終わっている。その後のフォロワー達は、所詮オリジネイターではなく、形式模範の繰り返しに右往左往だったためだ。ピストルズがパンクの祖先ではない、との意見もあるだろう。音楽変遷の過程から見ればそうかも知れないが「パンク」という言葉・概念・音楽を瞬時にして形成・定着させたのは彼らである。彼らなくしては「パンクというもの」は形成されなかったに違いない。それはキング・クリムゾンが「プログレッシヴ」という概念の基準となったように。概念ができあがるには、ある程度シンボルとなる存在が必要不可欠であるのだ。
 パンクは死んでない? 現代もパンクは残ってるって? ああ、確かに残っているだろう。「ファッションとしてのパンク・ミュージック或いはスタイル」がね!
 大体にして、パンクというものの精神性は「反社会」にある。寧ろ「既成概念の打破」を論理でなく、行動でもって示すことに意義があった筈だ。詩なんか考えなくていい、ちゃんと弾かなくたっていい、長い曲なんてたまんねえ、やってられるか……そういった、今まで形式として成立していたものを打ち崩すことによって、パンクという音楽表現が誕生したのだ。つまりは「純粋な衝動としての音楽」だろう。
 その純粋性は、前述した「既成概念の打破」でもって保たれている。歌詞などは、純粋な想いであっても恋愛の歌など既成概念に過ぎないため、歌ってられない。取り繕った恋の教訓なんか歌うんじゃねえや俺ぁ女とヤれりゃいいんだよ、という性衝動にも似た感情が、純粋性となるのだ。政治色強い意味深なメッセージを送るより、女王様あんたとヤリてえ最低だぜ、と叫ぶことの方が、純粋な叫びとなるのだ。
「反社会」の姿勢が最も強く出ているのは、彼らの装いだろう。重力に逆らった髪型、痛々しいビョウ付きの皮ジャン、歩くには本当は不便な両足を繋いだズボン……すべては「規範の外にこそ我あり」という姿勢が体現されている。
 ステージングも然り、だ。ステージ上でのマスターベイションなどはドアーズのジム・モリソンもやっていたとされるが、パンク勢は小便だの嘔吐だのファンをブン殴るなど「コンサートという形式での常識」の範疇から脱することに懸命だった。そうすることで、衝動という曖昧なものをより具体的に体現することができたからだ。
 こうしたスタイルは、その奇抜さばかりが注目されるようになる。そうして、その奇抜さの根底にある筈の「反社会性」を認識せず、しかしぼんやりとは感じて「外見」だけを真似していくバンドが急増する。その「外見」というのは音楽性、スタイル、行動などの「表面的な部分」のことである。
 そうしてすぐに「ファッション・パンク」に陥ってしまうのだ。
 今まで本稿を(嫌々でも)読んでくださった方々には解るかと思うが、これはプログレによく似ているものだ。既成概念の打破、反社会、衝動の具現化……ただそれを、パンク勢が「行動」で具現化したのに反し、プログレ勢は「論理的に」体現していった。それが両者の相違点であり、また核となる部分でもあるので、両者は互いに相反するのだ。「ファッション・パンク」に値する「形式としてのプログレ」が存在するあたりも、よく似ているだろう? 時代的なバックグラウンドを理解する必要が大いにある、ということも。
 言葉を知らない子供が、それでも喋ろうともがく。
 それがパンクである。言葉を知った大の大人が奇抜なファッションでテキトーな曲を弾くことではない。それは自らの未熟性を晒しているだけに過ぎないからだ。
 だからこそ私は――形式としてのプログレばかりを追い続けるバンドなどはプログレッシヴではないと確信する私は――「ファッション・パンク」を忌み嫌う。奇抜な服装をすることで自分を虚飾する人間を、論理武装することで音楽性を正当化する人間と同等とする。短い曲をやることでパンクだと言う人間を、長い曲をやることでプログレと叫ぶ人間と同視する。スカスカの、もしくは勢いだけの曲を好む人間を、シンフォニックという派閥と混同する……相反していながらも、それらの本質は同じであるからだ。

 その本質とは「脱形式を掲げた先人の形式を模倣すること」である。

 つまりは、本人は形式から脱し、素晴らしい曲やスタイルを見せているつもりだが、それは先人の真似に過ぎないのだ。恰好を真似するのは悪いことではないのだが、それでもって「パンク」なり「プログレ」なりを標榜されると、その一貫した姿勢のなさに苦笑を覚える。「過激な装いでラヴ・ソングを歌う女ヴォーカリスト」だとか「何となく作ってみた叙情的っぽい長い曲」だとかに垣間見える、音楽表現の核たる部分が曖昧なままのスタイルには。
 そういう時にこそ使える、もっと曖昧な「ロック」という言葉があるではないか。せめてそっちを使うといい。ポップスさえも内包できる、今や生ける屍となった概念をね。
 音楽表現としてのパンクを追及していくと、プログレと相俟って聴いたこともない音楽を作ることもできようが、悲しいかな、世にはそれを体現できるミュージシャンが希薄である。彼らがもっと大きな存在となり、プログレとパンクの仲介役をすれば、その兄弟は仲直りできるだろう。
 そして、双方とも「純粋には既に存在していない」ことに気付けるだろう。