2.「シンフォニック」という名の形骸化
〜「脱形式」に則った「形式化」〜
私が「プログレというジャンル」に於いて、最も納得がいきがたいもののひとつに「シンフォニック」という派閥的概念がある。
確かに『宮殿』は、『危機』は、「シンフォニック」な音作りであるかも知れない。だが昨今、その「シンフォニック」という看板を打ち立てて活動する「ジャンルとしてのプログレ」バンドを冷静に見よ。
クリムゾンやイエスが音楽表現に於いて「ロックという形式からの脱出のための一手段」として「シンフォニックという形式」を選んだのに対して、彼らは「まず初めにシンフォニックありき、という根底」のもと音作りをしている。それは「脱形式」というプログレッシヴ・ロックの基本テーゼから著しく逸脱しておるまいか?
何も「基本テーゼを大切に」と言っているわけではない。この場合のそれは「アンチ・テーゼの形成のために成り立つ基本テーゼ」であるため、根本的にはアンチ・テーゼであり、つまりは「脱形式」という指針である。ああ何言ってんだか解んなくなってくる。
ところが彼らは「他人が打ち立てた形式」に則って(というよりは安易にパクって)いる時点で「プログレッシヴ」な音作りをしているとは思えない。それはさながら、EL&Pの『展覧会の絵』以降、安易に「ロックとクラシックの融合という手段」を幾度となく模倣したバンドが乱発したようなものである。
アネクドテンのように「模倣それ自体が形式」であるのなら、リスペクトが活動原点となるので納得はいく(ゆえに己が作風というものを中途半端に模索していた一時期の彼らの音には一貫性がなく、完成度に欠ける)。が、自分達のルーツを明らかにする彼らと違って厄介なことに「シンフォニック派」の殆どは、ミュージシャンもリスナーも、それをまるで自分達のオリジナルであるかのように振る舞い、主張するきらいがある。
イエスがいなければ、彼らはそんな音作りができていたのか?
彼らがその正当化として用いる言葉は、大体にして「重厚な音」「メロトロン」「叙情性」……といったところだ。しかしそれらは、ストリングスやメロトロン自体に内包される質であって、彼らの曲がそれを生み出しているわけではない。そういう素材を使い、いかに曲に「叙情性」なり何なりを醸し出すかを模索すればまだよいのだが、彼らの殆どすべてが楽器自体のそれに頼るばかりである。形式だけではなく、音すらもが他者に乗っかっているのだ。だのに「シンフォニックな音」と言えばいいものを「シンフォニック系」というジャンルを捏造してまで自分を正当化しようとする。
そこにあるのは「プログレというジャンルらしい音作り」への終始であって「プログレッシヴな志」ではない。模倣に次ぐ模倣、まるでインパクトのあるヴァースを繰り返すことでヒットチャート争い用の曲を乱発した80年代以降のポップスのようだ。
それが「形骸化」の最も大きな一因である。
そういったことを「好き」なのは構わない。だが「これこそプログレッシヴ」と声高に叫び、それを「批判(否定じゃないのに)」しただけですぐにヘソを曲げ、同じ音楽趣味の人間としか交わらなくなる、そんなリスナーが往々にして存在する。「子供じゃないんだから反論できれえだけで逆ギレしてんじゃねえ」と言えば、どうせ感情論が返ってくるだけだ。
これと同様の理由で「プログレ・ハード」だの「プログレ・メタル」だのと呼ばれるジャンルの音も、私は「プログレというジャンルに入ってはいるが、決してプログレッシヴではない」と考えている。それについては、機会があれば詳しく述べるとしよう。
どうせ「メロディアス」という言葉で誤魔化すメタルのようなものだ。メロディぐらいなら、J-POPにだってあるってえんだよ。スラッシュだろうが何だろうが、本質はメタルしかねえじゃねえか。
つまりは、そういうことである。