アラスカ

不安になればいい
泣きたきゃ泣けばいい
それだけのことじゃないか
たったそれだけじゃないか

パソコンが壊れたって
CDプレイヤーが逆回転したって
万年筆を折ってしまったって
そんなもの、不安にもならない
不条理への苛立ちとして消化される
ひと晩は眠れないぐらいな
ぐずぐずな速度で

恋人にこてんぱんに振られたって
親友に手ひどく裏切られたって
親が不治の病になったって
そんなもの、ちっぽけな原因だ
いまのあたしはそれも平気
嘘、本当はすごく不安

不安の波に押し流されてしまいそう
あたしは誰? どこへ向かっているの?
僕という強い流れのなか
あたしはひとりでボートに乗っている。

「あたしはここにいるよ」
そう言いたかった
「僕はここにいるよ」
そう言ってほしかった
それだけなのに、なのに。
あなたは私との特別な契約を解除してしまった
あらかじめ組み込まれていた計画かのように。

そうして、手術をした
僕を棄て、あたしを得るために
「覚悟はしてますね」医者がうなる
「覚悟なんて、十年前にしていました」
よろしい、医者はしかるべき措置を施した
それは数時間で終わった 夢のように
あたしはあたしになっていた
もうこれで、僕は現れない。
もう戻れない
少し広い肩幅と、女装した男のような顔付き
僕はまだ、そこにいる。
それを、あたしに塗り替えなくてはならない。

もしあたしがあたしになったら
アラスカに行こう 寒いなかであたたかいご飯を食べよう
サバの缶詰をお湯であたためたものでも構わない
あたしにはあたしらしさがこれから備わっていく
あざらしの肉を食べてみるんだ おいしいかな
あざらしってアラスカにいただろうか
記憶さえ曖昧 麻痺がまだ残っている
「しばらく入院していなさい」あたしは従った

生まれ変わった世界は、いつも通りだった
三越も高島屋も営業していたし、あたしにまるで関係なかった
それでもあたしは、化粧品売り場で新しいコロンを買った
それから、あたしはあたしになろうとし続けた

それでも
僕はそこにいる
冷ややかな少年の笑みを浮かべて
「遊ぼうよ」と無邪気な態度
ごめんね、あたしはもうあたしなの
あなたは遠いどこかに消えてしまったの

あたしはまだアラスカに行けずにいる
僕が監視しているからだ
それでもあたしは、いつかアラスカに行くだろう
現実の厳しさのなかで自己の再構築をはかって

あたしは僕を切り棄てることにした
それはアラスカに行くため必要なこと
何を持っていこう? 少し考えて即決した
パガニーニとコルトレーンのCDを持っていこう
アラスカにステレオがあるかも知らないけど
携帯音楽プレイヤーで「ブルー・トレイン」、いい感じだ
「カプリース」も平坦だけど飽きないだろう
その2枚を放り込み、あたしはバッグのジッパーを閉めた

あなたとあたしが別々に愛し合ったら、
どんな子供が生まれるのだろうね。