綺麗な膝は好きですか
〜女性すなわちスカートを穿ける特権階級〜

スカートは、言わば女性の特権である。
たしかにルイ王朝にてスカートが開発され、ズボンから出せる男性の象徴的突起物に応じてまくり上げればその入口を提示し、すぐに性交できるようになったという性的な記号云々もある。まるで女性が道具のようではないかと、フェミニスト諸君は納得いきかねることだろう。
だがまず、それが女性に与えられて安心した。男として。仮に男どもがスカートを穿くのが当然となり、世間には常に脚の毛が出まくっていたら、実にぞっとしない。それが当然になっていれば感情も死ぬのだろうけど、世の中、そうならなかっただけに想像した際の拒否感は半端ない。
そのため女性にはムダ毛の手入れという枷を強いてしまったことになるが、そこに生える毛が男より絶対的に少ないのだから、やっつけてもやっつけてもまるで徒労に等しい男性の手入れより、労働効率を考えると女性にそれを委ねたくなる。尋常ではないのだぞ。剃って数時間後にはまた生えかかっているのだぞ。夏場の雑草以上の強靭さである。
そもそも「ムダ毛」とはなんだ。人間にムダな毛なんてあるのか。守らねばならぬ弱い部分だからこそ、毛が生えるのではないか。じゃあ指の毛や耳の毛はきちんと防衛役を果たしているのか。なぜへそ毛はある人ない人が極端なのだ。女性は脇毛や脚の毛をなぜ剃らねばならんのだ。だんだん!(←
演説熱化のあまり机を叩く音)
そこを追求した書物も出ているぐらい、毛とは不思議なものである。体毛はないほうがいいとされつつ、隠毛は許される。むしろないと淋しい、性的に、という殿方も少なくない。金髪同然の日本人を脱がしてみたら黒々とした隠毛があるのも不自然だ。それに性的反応を起こすのも。
あずまきよひこ著作による大傑作日常漫画『よつばと!』にて、おっさんに恋するむちむち女子高生の綾瀬風香が「この世に無駄なものなんてないのよ」という達観発言をしたことがある。それは女子高生が口にするには達観視しすぎた真実だが、取り除いても影響なく、むしろあると厄介なケースを引き起こす盲腸やら、退化した証とされる鼻の下にある溝は、必要ないという研究結果がある。だから無駄はあるのだ、確実に。
話が本題から逸れたままのめり込むのは俺の悪い癖だが、これも無駄ではない。この世に無駄なものなんてないのよ。いやそういうのはいい。
そこで本題だ。
スカートというものを、まるで縛られた制約のようにとらえる女性がいるかと思われるのだが、まずそれを、大いなる勘違いだと断言してしまおう。冒頭に戻り、スカートを穿けるのは、女性の特権である。男性には社会的に許されない、これは俺の思い込みではなく、全世界共通の認識である。スコットランドあたり以外には。
だって厭ならば、いわゆる「ズボン」をあわせて穿けるのだから。ジーンズでもスラックスでもなんでも。キュロット・スカートたる「なんだ、パンツ見えねえのかよ」というエロ目線の男性がもっとも厭うボトムスもある。最近は可愛いデザインも多くなり、ショート・パンツ人気にあわせて好まれていたりもするが。あるいはリヴァイヴァルのごとく「一周してあたしたちの時代がきたのね」と勇み、ふっるいキュロットを古着屋に持ち込んで買い取りを拒否され、憤っていたりするヲバサマガタもおられるのだろう。「冬は冬物が高く売れる」という部分だけを公式づけて、数十年前のデザインの虫が食ったコートを持ち込むがごとき古く死んだままの感性で。せめてユニクロにでも行ってこい。
逆に男は、むしろズボン・タイプのみにボトムスが縛られるという制約があるのだ。女装家やヴィジュアル系でもなければ、一般に穿くことすら許されない。そういった人々が穿いていても、一般には「げぇっ」という言葉とあからさまな態度で大歓迎される。男性である限り、よほど風貌やキャラ、フィールドが適合してでもいない限りは。
男もスカートが穿ければファッションの幅が広がるのに、と純粋に思ったことが何度もある。これは何も俺の容姿を基準とした発言ではないので、気持悪いと一蹴するべからず。
一時期、スカートをファッションに取り入れた男性もいるにはいた。黒のタイトなパンツに、同じくタイトな黒スカートをかさねたりして。女性としての記号力がつよいヒラヒラなものではなく、あくまでタイトに、ビシッと決めていて、実際に恰好よかった。どうしてもヴィジュアル系目線になってしまうが、ファッションとしてアリだな、と感ぜられた。
しかしそれを報じていた夕方のニュースにおける特集コーナーでは、やはり彼らを一種の「理解不能なフリークス」として扱っていた。あきらかにそう明言したわけではないが、並列して秋葉原のコスプレに興じてカラフルなセーラー服をまとい、ありえない色のカツラをかぶった典型的なオタク中年男性を映し出し、差別化するのではなくオタク男性の「男性のスカート? 断然アリですよ!」という太鼓判インタヴューのもと、まったくの同族として紹介していた。
ルックスの美醜や目的意識は関係なく、スカートを穿いている時点で嫌悪の対象。男らしくない。女々しい。非常識。
それが一般的なスカート男子への反応だ。少女漫画的世界に夢みる夢子ちゃんや、何かのプレイに快楽を得る女性、アート系女性などでもない限り。つまり日本全国の90%ぐらいの女性の反応。
ひるがえって、男性をして「は、穿いてみてえぇっ(小声)」と言わしめる、いや思わしめる、そのスカートの魅力とはなにか。
まずどうしても「それをまとっているのが女性である」ことから、それは始まる。そのうえで服装としての美しさ、脚の美しさにまで発展するのだ。まずはじめに女性性ありきだからこそ、男性は本能的にスカートが好きなわけで、そこがこんがらがっちゃったり堂々巡りしたりして、記号化に発展する。そのため、中身のないスカートに欲情する(もはや死語の)ブルセラ状態になるわけだ。ヒラヒラのスカートがかわいいと思うのも、ヒラヒラに女性性、とくに少女らしさを投影するので、すべからくロリータ趣味につながる。「女」のうえに乗る「少女」をあらわす「少女性という記号」そのものを愛してしまうのだ。
その記号的性癖の一端として、スカートからのぞく脚にすべてを照射したあげく脚そのものだけに想いを奪われる脚フェチがある。だがこれは、中身本来の女性の肉体に基づく欲情なので、実はまだ健全といえるのかもしれない。しかして脚フェチを公言する人のほとんどは「その先に桃源郷があるための幻想」どまりであって、ほんとうに脚に欲情しているわけではないのだから。もう少しで頂上が見える登山の七合目あたりのわくわく感が好き、だから山はいいよね、というのとほぼ同じことである。マネキンの脚に「……キレーだ(ぼそ)」と見惚れるぐらいでなくては、造形的なる美じたいに傾倒する「脚フェチ」とはいえまい。谷崎潤一郎に憧れ、文体やシチュエーションのみを模倣するコピー作家のごとし。誰とは言わんが。俺じゃあるまいな。
ここでまた脱線させていただきたいのだが、近年「フェチ」ということばが乱用されまくって軽くなり、いっそうの誤用を招いているように思われる。
そもそも「フェチ」とは、性的ではないものに性的興奮をおぼえるもので、一種の猟奇殺人者的感覚であった。前述のロシア人三兄弟「スカートスキー」「ヒラヒラスキー」「アシスキー」同様、記号と化したそれそのものを性的なまでに愛してしまう、一種の異常癖である。ゆえに軽々しく公言できるものでもない。
そのため往々にして「おしりフェチ」「おっぱいフェチ」「おまんじゅう(軽く自粛)フェチ」などと発言する殿方もおられるが、それらはもとより性的対象なので、いくら好んでも「フェチ」にはならない。フェチとはうなじや脇など、本来性的な意味を持たない極端な部位に欲情する嗜好からはじまったものである。優性遺伝子を本能的に選別する「顔好き」ともまた違う。
このあたりは文化人類学者と化している(もはや本業さえわからない、お尻学者の)山田五郎氏がくわしいので、機会あらばお話を聞いてみるといい。俺にもそんな機会はないし、そもそも知り合いでもなんでもないのだが。
しかるのち本題に入る。ここまでは長い前書きでありながら、決して無駄書きではない。
俺が自分の「フェチ」についてひそかに小さな声で叫ぶことができるのは、何を隠そう「膝」である。そう、俺は少しばかりだが、いまだ仲間に遭遇したこともなく遭遇したくもない「膝フェチ」なのだ。
かといって、膝なら無条件に「な、撫でてぇぇぇ(心の声)」となるわけではない。「綺麗な膝」に限る。言わば芸術的なまでにやわらかく丸いラインを持つ、やはり無毛の膝にこそ欲情が疼き出す。
そう、毛は要らない。膝毛ボーボーな前衛芸術としてではなく、美しい芸術品としての膝を、俺は眺めたい。撫でくり回したい。何なら味わってもいい。
そこまで書いておけば読者には俺が変態として認識され、どんなに優れた論旨を述べても説得力皆無となるだろう。そうすればしめたもの、だからこそ好き勝手に言わせてもらう。ほらこれも伏線となるので無駄ではないのだ。
俺がなぜ、綺麗な膝を好むようになったか。
これは実に文学的なようで、まったく本能的だったりする。
それは膝が、女性のつねに無防備な部分であるからだ。
冬場にコートを羽織り、ブーツを穿いたスカート女性も、その多くが膝を出している。ほかの部分は重厚に守っているのに、それこそ無防備に。ロング・スカートでないかぎり、太ももが出る長さにかかわらず、つねに膝は姿をあらわしているのだ。
だからこそ男は、過剰な防備にあたる「女子高生のスカート下にジャージ」を厭う。パンツ見える見えないにかかわらず、スカートとしての意味をまるで失うために。スカート下に穿くレギンスの出現により、スカートとズボンをあわせたファッションは多く出ており、それを縫い合わせて一点ものに仕立てたボトムスもあるぐらいに存在が認められているが、その観点からしても「チェックのプリーツ・スカートにジャージ」はありえない。かわいい制服も台なしの、「女性性」「少女性」「制服がもつ特有の性的なる性質」といった記号の性質さえ根こそぎ奪われてしまう、田舎娘ファッションになる。
そのため俺は、そうした「女に生まれたよろこび」を与えられた快楽として享受する、女性らしい女性を支持する。決してすけべ目線ではない。いや「だけではない」と言っておこう。でないと男がすたる。
その一貫として、俺は綺麗な膝に着目したのだ。どんなに防備しても女性らしさが出る部分として。
だがそれを打ち破る、しかし否定もできない強敵があらわれた。
いわゆる「ニー・ソックス」から分裂種的にあらわれた、「膝を覆っちゃう一味」の台頭である。
それまで、いわゆる「ニー・ソックス」は膝下ぎりぎりまでの形状だった。ゆえに俺の膝欲望をより明確にかたちづくる作りで、いっそう膝だけがあらわに無防備になる、きわめてフェティッシュなものだった。
それがいつの間にか、膝上まで覆い隠す「オーヴァー・ニー」なる長さにまで伸びていた。
それはソックスにとどまらず、ブーツにまで進攻。もはや膝が隠れて当然たる態度をとる女子まであらわれ、かくして見られる前提のためつねに手入れをされていた綺麗な膝は、見えないから放っておかれる冬場の腋の下状態になってしまった。
なぜにソックスやブーツは膝上まで進攻したのか。
そもそも「ニーソ」は女性アイドルの着用にはじまり、アニメやコスプレに浸透、やがてロリータ・ファッションを経由してのち、幅広いジャンルに適応できるため、ファッション・アイテムの仲間入りを果たしたという。その長さで呼び名が変わるだとか、本来の名前とは違う誤用が定着しているだとかのディテールは、Wikipedia様にでも聞いてみればいいだろう。ここでは古くからの膝下を「ニー・ソックス」、膝上を「ニーハイ」および「オーヴァー・ニー」、ひっくるめて「ニーソ」と呼ぶ。俺がそう認識しているからだ。文句は言わせん。
そうして「記号性ありき」に始まったフェティッシュきわまりないニーソが、どうして一般層にも定着してきたのか。
考えるに、防寒よりも「防恥」とでもいうか、どうしてもできやすい傷なり手入れを怠ったムダ毛なりカサカサなりそこに注がれる野郎どもの視線なりなんなりを、いっさい「隠す」ことに重点が置かれているように思われる。
なぜなら女性は、一般的にだが男性より体脂肪率が高い。ゆえに「あいつら寒くねえのか?(見る分にはいいけど)」という「重厚な上半身に生足剥き出しの女子高生状態」にも耐えられる。むろん北海道と沖縄の差もあるように、程度の問題ではあるが、こと太ももに至っては男性が憂えるほど寒くはないらしい。冷え症は末端にこそ発生するものゆえ、足先に至らねばさほど寒くはないようだ。その性質ゆえ冷え症は女性に多いとも聞く。
これはスカートをあてがわれた進化や退化なのか、となれば男性がスカートを着用する文化であったればその性質は逆転していたのか。これも山田五郎氏に聞いてみなくばなるまい。繰り返すが俺は彼となんらの関係はないのだが。なんなら心の師匠、みうらじゅん氏にでも(やはり同様のこと)。
とまれ、かくして膝は隠されるようになった。駄洒落か。いやそういうつもりではない。
しかし隠されたら隠されたで、そこにあらたなるフェティシズムが逆転的にあらわれたのだ。
それはそれこそ「ソックス」「ブーツ」という「記号」に膝への欲望を照射する、代理的な情欲。「素っ裸より服を着てたほうが燃えるよね」な「記号的愛慾」。スカートめくりをする小学生にも通ずる感情。
膝を隠すそれらが、実は下着同様、膝を「見られてはいけないから必要最低限に隠すもの」に昇格させたのだ。そうして逆転的に、下着に欲情するのと同じ視点で足の防具を見ている。しかも下着と違い、いつでも目にとめられる、つねに公共にさらされたままの「性的記号」として。
ここで唐突だが思い出話をする。許可はいらぬよな。むしろこれも重要な話なので反対などさせぬ。
俺の中学生時代の担任のひとりが、いわゆる理科全般の教師だったのだが、彼が授業の話ついでに、こんなことを熱弁していた。
「人間でもっとも汚れるのは足だ。汚れや汗が下にたまるんだ。だから足の裏は人間のからだでいちばん雑菌がはびこる場所でもある。風呂に入らなくても足だけは洗え。下着を履き替えるだけならパンツじゃなくて靴下を替えろ」
きっと彼は、相手が最愛の女性であっても足の裏を舐めるなど決してしないだろう。衛生的には見上げたものだが、背徳の快楽の味を知らないのは人生の(大切ではない部分の)何割かを損している。まあ相手と本人がよければどうだっていいだろそんなのは。
そのように、衛生的に見ても決して綺麗とは言えない足の裏に、至上の美しさを感じる。また舐めたり舐められたりして快感を得てしまう。それはタブーとされているものを打ち破る快感あってこそ。風呂敷を広げれば露出狂の興奮原理と同じ仕組みである。
「こんなに綺麗な君でも、足の指はダンゴみたいになってるんだね」
とは喜国雅彦の漫画『日本一の男の魂』の登場人物のことばだ。喜国の目下代表作である『月光の囁き』や、本当は至ってノーマルであることに苦悩する本人とあわせて、快楽を学ぶには知っておきたい心理だろう。
何の話だったか。そうだ、靴下と膝の関係だ。
かくして性的な意味をも授かった膝は、美的観点からも見られるようになった。俺が長年抱いていた、膝への欲情が正当化されたのだ。
だから俺は言える。
「綺麗な膝が好きなんだ」と。
だがここに、恐ろしい罠がひとつある。それはどうしても、先の文にある対象の膝を「女性の膝」と限定できなかったことだ。
いや俺は断じて男色家ではない。野郎と性的にたわむれるのなど断じてお断りだ。しかし哀しいかな、綺麗な膝を見てしまうと、それが男女どちらの一部であれ、ついつい視線を泳がせてしまうようだ。もはや芸術品同等に、造形の美なるものを崇めるように見てしまうのだ。
昨今、世では「女装男子」が流行っている……「ことになっている」。やれ「男の娘(おとこのこ)」だの「女装子(じょそこ)」といった名称で、まるでメインのムーヴメントであると錯覚させんばかりに、一部のマスメディアが過剰にとりあげている。女装漫画専門の月刊雑誌まで刊行された。
騙されるな。踊らされるな。
「美しすぎる○○(すなわち裏の意味は、○○のくせにやや造形がいい)」という失礼きわまりないフレーズを流行らせようと仕向けながら、浸透してもいないのに、さも世間に定着したかのような口ぶりで騙っていたマスメディアを、信じ込んではいけない。
日頃から外出時にまで堂々とスカートを穿く「女装男子」など、この極東のごくごく一部、全人口の2%もいやしない。誰もいない部屋でたしなんでいる人口は計ることができぬものの、実際に増えてはいるのだろうが。
たしかにファッションにスカートを採り入れる最先端男子はいる。たしかにコスプレに興じて秋葉原やコミケ会場だけでスカートを穿く男子もいる。俺は新宿以外で遭遇したことはないが、実際に女装して街を歩くのを日常とする男子もいるのだろう。
しかし彼らの前には、実際には「女性の美」を前提としている事実がある。これは決して動かぬ事実だ。それをもってみずからの「美」に転化させているのが「女装あるいはスカート男子」の現状だ。
ここで話は冒頭に回帰する。
女性にとっては枷のように言われるスカートが、男性にとってはある種の憧れになっているのだ。それは男性であるがゆえ、着用を許されぬことにはじまるジレンマ。もとより野郎どもは女性を美化に美化する生き物だ。糞小便さえを黄金聖水などと呼ぶ馬鹿なのだから、女性のすべてを全肯定してしまう−−自分が美しいと思ったり、すべてを捧げる覚悟のある女性に対しては、だが。あるいは経験不足からいかなる女性の「記号的部分」は肯定していまう夢男くんも少なくない。
その「美」の権化に、近づきたい、しかし決してなれない。
そのジレンマが男性にスカートを穿かせるのだ。なぜならその「美たる女性」の象徴的存在、それこそが「スカート」なのだから。
これはもはや、記号化に記号化をかさねた状態である。スカート・スパイラル。もう本来の対象から意味までがわからんカオスだ。
そのカオスに身を委ねることが快感に思えるほど、スカートや女性を記号化した男性が、みずからスカートを穿くのだ。
そしてチェックのプリーツ・スカートから覗くみずからの膝を眺めては「ああ、俺は男なんだ」と諦めの再認識をする。そして美しい膝を持つ女性への憧れを強める。しかし正直な反応を見せてしまう欲棒を、哀しいかなそれでも慰めてしまう……これこそが、スカート男子の心理ではあるまいか。断じて俺の心理ではない。
だがその膝も、記号として味わいのある前述のニーソではなく、味気なく隠される場合も多い。昨今、マキシ・スカートやレギンスの人気あるいは定着により、減りつつあったスカート人口が取り戻せた。しかし「膝」はますます隠匿されるようになってしまったのだ。
隠すばかりでは、せっかくの美しい膝が可哀相だ。宝は持ち腐れにするものではなく、価値を出してこその宝だ。
たまには膝を晒け出そう。少しばかり太陽の光を浴びせてあげよう。女に生まれてきたよろこびを楽しもう。
それがせめてもの、膝を美的価値観から考える者からの提案である。決してエロ目線ではない。
いや少しあるかも。いやもうちょっとは。男である限り許してほしいものだ。