森見登美彦のコンチクショウ
〜妄想学生童貞文学〜
まさか、である。
まさかこの俺が、年下の、男の、それもファンタジー作家に惚れ込むなんて。
俺は文学至上主義であり、ファンタジーなど一瞥もせず、純文学的なものをよしとしてきた。エンタテインメント性の強い大衆文学は庶民に媚びへつらった打算的な俗物であるとし、こと刹那本として大量生産される売れ線ミステリーを毛嫌いしていた。作家性より作品性を重視し、飽くまで、「表現」を重んじてきた。
だがその偏見は、瞬時に崩壊した。
本の雑誌『ダ・ヴィンチ』を読んでのことである。
新刊や注目本がずらりと並ぶページをうとうと眺めながら、その実自分の興味あるものばかり目で追っていた。ひろく本に対する知識・情報を得ねばならぬと日頃から心がけてはいるが、正直な心はどうしても自分の好みを優先してしまう。今月も大した本はないなあ、などとエラソーな評論家気取っていると、ふと、目にとまった文庫があった。
それは『夜は短し歩けよ乙女』という思わせ振りかつ確信犯的なタイトルで、何より、大正浪漫的でレトロな表紙イラストが印象的だった。だが気にはなったものの、紹介文も読まずに次のページを繰った。
しかし、日ごとにその印象的な文庫が気になるばかり。
「まぁ物は試し。文庫なら失敗しても安いし買ってみるか」
ものすごく些細な一大決心をし、新刊書店で買ってみた。発売3ヶ月にして既に三版だった。
そして俺は、不覚にも、いや喜ばしくも、それにハマってしまうのだ。詳しくは書評のようなページを参照されたい。普段はなるだけ冷静に解析しようとしている俺が、まるでできなくてただひたすらお薦めお薦めとしか書けなかった。未映子さんは一方的な感情移入をしてのめり込んだが、登美彦氏はそういうものじゃなく、読んでいると「すうっと自分の中に同化してくる」感じだった。
それからの俺は、そう、「好きになったら一直線」である。
脱兎の如く原付を走らせ、新品中古値段問わず、森見作品を買いあさった。それでも手に入らなかったものは注文した。「もう出版社在庫がなくて、他店にある背が焼けたものしかないんですけど……」と言われても構わずお願いした。
そうして俺は、長い読書人生にして初めて「単行本も文庫もすべて揃える」ことを完了した。今までは村上龍を代表とする「単行本で集める作家」と、原田宗典や中島らものように「文庫で揃える作家」、そして村上春樹などの「単行本でも文庫でもいいから揃える作家」という3パターンだったのだが、ここへきて「単行本も文庫も集める作家」ができてしまった。
それが森見登美彦である。
この名前を入力するのは「森を見て登る美女の彦」などと入力してからいちいち削除して整えるため骨が折れるので、いま単語登録してしまおう。よし登録した。森見登美彦。出た。これでOK。
ここで、手に入れた全作品を一気に写真で紹介しよう。そうそう、『夜は短し恋せよ乙女』のコミック版もあるのだった。写真には写っていないがテレビ放映された舞台版も録画してDVD化した。

森見登美彦は、その意図的に文学的を気取った表現作法などに文学志向を見せてはいるが、その実エンタテインメントに徹した大衆作家である。根幹には文学あれど、飽くまでエンタメ的にその才能を発揮している。何より物語ありき。しかし心理描写をかなぐり棄てるような真似はせず、寧ろクドいほど展開される。それでいて文学への憧憬は強く深く、ところどころにオマージュ的表現が頻発する。一番それが味わえるのが、偉大なる文学作品5篇を森見風現代版にリメイクした『新釈 走れメロス 他四篇』であり、原作の根幹や持ち味を崩さず現代によみがえらせたその作風には原作を知ればこそ唸ってしまう。
しかし、森見作品の作風は現在のところ、すべてが「永遠の箱庭」である。
殆どすべてが京都を舞台とし、主人公は妄想過多な男子学生。それも童貞ばかり。思春期に少年から大人に変われないままずるずると大学生になってしまった、理想主義の妄想野郎達。そうでないのは初のホラー連作『きつねのはなし』、狸と天狗の織り成す大乱戦『有頂天家族』、エッセイというか随筆の『美女と竹林』ぐらいだろうか。それらも妄想趣味は遺憾なく発揮されているが。現在連載中の『ペンギン・ハイウェイ』が新しい指標となるのだろうか。
今のところ、森見は短編らしい短編を書いていない。正確には書いているが、それらも単行本では連作に仕上がっているので、実質書いていないに等しい。それは森見が小さく綺麗にまとめるよりも、風呂敷を広げて大きな世界にしてしまえばもっと楽しいだろう、という娯楽性を持っているからだ。
だからこそ多くの作品には、世界が共通する人物や単語がしばしば登場する。
羽貫や樋口、天狗に狸に達磨、詭弁論部に代表される諸サークル、幽水荘、金曜倶楽部に店の名前……おおよそすべての作品が、何らかの形で繋がっている。というよりも、同じ世界であることを認識させる。あまつさえ森見登美彦自身も登場する『恋文の技術』では、『夜は短し歩けよ乙女』のアイディアを友人の書簡からパクッたというセルフ・パロディまで描かれている。前述の『走れメロス』さえも、異なる文学作品を根底にしながら世界は同時軸に存在し、連作となって短編としても長編としても楽しめるようになっている。純粋な長編は『太陽の塔』『夜は短し歩けよ乙女』『有頂天家族』だけだ。
これらは一応「ファンタジー」の部類ではあるが、ありがちな「剣と魔法の世界」のようなファンタジーではなく、現実世界を描いたうえで不可思議な現象が起こるファンタジー。ライト・ノヴェル的なファンタジーではない。言わば漫画的な世界観。そのため、ベッタベタのファンタジーは嫌いな俺もすんなり入ることができた。そしてハマった。
文学は余りにリアリティや心情吐露を追求してしまうと、悪い意味で純文学的になってしまい、面白味がなくなってしまう。森見はそうではない。寧ろ意図的に「文芸」にとどまっている。村上春樹の世界観に近いものを感じる。それとは違って大いに笑えるが。
文学的表現でところどころ幻想を使った大衆小説。
それが森見の作風をあらわすのに、わかりやすい表現だろうか。
それ即ち、理想を持て余し現実を直視できない童貞男子学生だ。
かといって、森見はうじうじした童貞男子学生ばかり描いているわけではない。
ホラー連作『きつねのはなし』、狸の化かし合い『有頂天家族』と、そうでない主人公もいる。随筆『美女と竹林』では森見自身が客観的な主人公となった可笑しげなエッセイとも言い切れない妄想を連ねている。
それでも、童貞性は現在のところ森見の基本であり、最大の武器だ。
みうらじゅんはかつて「童貞のままだったら何もかも想像できてよかったのに、セックスというものを知ってしまったから現実に生きなければならなくなった」と言った。そう、童貞は恥ずかしくも無限の可能性を秘めた思春期の象徴である。女子の処女性とは意味合いがまったく異なる。
だからこそ、森見の表現は妄想が主となっており、その根幹には童貞性があるのだ。
そして童貞精神は詭弁を弄する。自らの理想を真として疑わず、他者の意見なぞ省みない。現実を知らず、認められず、自ら思い描く都合のいい妄想のみを真の友とする。
……何だか、俺自身のことを書いているように思えてきた。
そういう、青臭くも何か(主に一方通行的な恋)に燃える、青年像がありありと描かれている。
それが森見世界の魅力であり、基本であり、武器なのだ。
では、これで興味を持った方に何をお薦めすればいいか?
それは迷うことなく『夜は短し歩けよ乙女』である。
これには、初期から現在までの森見文学の基本が詰まっており、ひとつの頂点でもある。大ヒットして幾つかの賞も受け、コミック化に舞台化もした。それぐらい入りやすい、登竜門的存在だ。
興味あれば、読後にコミックも読んで頂きたい。黒髪の乙女に「萌え」を感じる人なら間違いなく楽しめる。
しかし舞台は無理に見ることはない。よくまとまっていて面白かったが、「黒髪の乙女」が難アリだ。正直誰もがベタ惚れするほど可愛いとは思えず、演技も声を張るばかりで起伏がなく、何より、カツラであって純粋な黒髪ではない。
やはり現実ではないから面白いのだな、と思った次第である。
それも童貞思考なのだろうな。
実はコーナーを作ろうと思ったぐらい自分にハマったのだが、
その実鋭いことは書けなさそうなのでその予定はない。
感性で幾らでも書ける音楽と違って小説は余程読み込まないといけないのだし。
補足。
最新作『宵山万華鏡』では腐れ大学生や童貞思想を脱し、新しい指針を打ち出している。