抗鬱日誌
〜自覚症状〜
鬱病の自覚症状は人それぞれでしょうが、僕の場合は以下のようなものがありました。
安定剤と抗鬱剤のお陰で大分落ち着きを取り戻し、客観的になれた今だからこそ判ったものです。
何もやる気がしない
これは典型的な症状でしょう。あれをしなきゃ、これをしなきゃ、ということは解っているのに、それをする「必要性」がない限り、殆どしないで放ったままにする。洗濯も「もっと溜まってからでいい」となり、原稿も「締め切りはまだ先だ」となり、食事さえ「必要最低限の栄養は補給したから要らない」になってしまう。そして、それらを「必要性」が迫ってきた時になって、急場しのぎのように片付けたりします。
僕の場合は、CDのリスト・チェックやサイトの更新などが、これでした。「それをしたい自分」が居るのに、彼は「それをしなくてもいい自分」に負けてしまって、結局僕は寝転んで何も考えずに呆けてしまうのです。
何かしてもすぐ中座する
喩えば僕は、小説を書きます。一時期は創作意欲に溢れ、ガシガシと書いたものでした。
しかし「鬱」に陥ってからは、何も書けない。アイディアは浮かぶのに、それを具現化できない。酒を呑んで「今日こそは!」と向かうものの、途中で「これをやって何になるの?」と筆を捨て置いてしまう。音楽のレヴューなどもこうしたことが続き、没にしたままの原稿がハード・ディスクに溜まっています。
この「小説を書く」というのを、他の行為に当てはめてみてください。「絵を描く」とか……今まで「できていた」筈のことができなくなる、というのは、鬱病に対する自己判断の基準になるかも知れませんよ。
同じ曲を延々と聴く/何も聴かない
これは特殊なのでしょうか。僕はその頃、Litaの「天の川〜ティンガーラ〜」という曲を好んでいたのですが、それ「1曲」のみを延々とリピートし、3週間で2000回ぐらい、という恐ろしい聴き込みをしてしまいました。それをレヴューに活かせたので、まぁ良しとしていますが……また、天野月子とその曲を極端に好むのも、これに類するのでは? と思っています(もし鬱病がきっかけでハマったのであったら、それは幸甚)。
これはつまり、「変化を望まない」のだと思います。安住できる何かを見付けたら、そこに居留まる。それ以外のものに「侵攻」されるのが怖いから。
または、仕事にするほど好きな音楽というものを嫌いになり、何も聴かなくなったりもしました。何を聴いても、電車や自動車の通過音を聴くような気分になって、つまり「ノイズ」として認識されるのです。「無音」こそが「最も好きな音楽」になってしまった時期がありました。
同じ本を何度も読み返す
僕は日本橋ヨヲコという漫画家が大好きなのですが、彼女の本を、何度も何度も読み返していることがありました。その漫画はポジティヴな勇気に満ちているものばかりなので、決して鬱に浸るためではなく、寧ろ打開したいという願望なのでしょうけど、一日に何回も、異常なほど読み返していました。
じゃあ原田宗典のエッセイでもいいじゃないか、とも思いますが、文章では駄目なのです。「考える」という回路を通らず、「感覚」でとらえられる「漫画」がフィットするのです。
きっと、ネガティヴな描写が多いながらもポジティヴな結末が待っている日本橋ヨヲコの漫画に、僕は活路を見出していたのでしょう。その結果、改善は成されています。でも、一日に5回なんて読むか普通……?
一点をじっと見詰める
これはどこでも、よく起こる症状です。
何か「感じる」ものがあると、じっと見詰める。動きがあって、「こうなったか」という「結末」が解るまで、見続けている。
喩えば、僕の好きなもので言えば、お香。あれに火をともして、燃え尽きるまでじっと見詰め続けていたりしました。あとCD。ライナーの文章を読むでもなく、ただ「そこに何て書かれているのか」と考えて、じーっと漢字ひとつを眺めていたりする。それの旧字体や草書体や象形文字だったら何になるだろう、なんてことを考えて、この字が持つ意味って何だろう、とまで考えてしまう。普段はそんなこと、気にもせずに「あたりまえのこと」として過ごしていますよね。ところが、考えてしまうのです。いや寧ろ、考えるというよりも、見てしまうのです。ただ呆然と眺め、じーっと視線を注いでいる。飽きません。興味があるものなら、いつまでも「じーっと」見ていられそうです。
煙草がまずい
これは実際的なことでしょうね。
煙草の本数が、まず減りました(逆に増える人も居るとは思いますが)。「喫って何になる?」という思いが先立ち、「食後の嗜み」「仕事の合間に一服」「単なる時間稼ぎ」などの意味がなくては、余り煙草を喫わなくなりました。そうでない時に習慣で喫うと、これが「まずい」のです。僕はもったいながりなので、煙草はすぐには消さない質なのですが、それが「今、煙草を喫っている違和感」を感じて喫煙をやめてしまう。ニコチンが体内に入ってくるのが、邪魔に思える。そんなこともありました。
感覚が鋭敏になってしまい、煙草の有害な部分を必要以上に感じてしまうのかも知れません。
酒の量が増える
これは、今でも続いているので、改善せねばならないとは思っているのですが……。
不安を忘れようとしたり、何かに頼ろうとした時に、気軽に手が出せるのがアルコールなのです。でも当然ながら、アルコールというものは依存度も高く耐性が付くものなので、その量は次第に増えていきます。
僕の場合、部屋でひとりの時はウイスキーをロックやお湯割りで呑むのですが、いつの間にか700mlの一般的なボトルを2日(正確な量で言うと1日半)で空けてしまうほどになっていました。または、ビールでは633mlの瓶を6本呑んでも頭痛がするだけで酔った感覚は薄いとか……その割には、体調によってはちょっとだけでもふらふらになってしまうこともあります。
抗鬱剤や安定剤、睡眠導入剤など、とかく薬はアルコールとの相乗効果があるので、本当は呑まない方がいいのです。けれども、習慣でもあるし、何より一時的な安定を欲してしまう。その結果、睡眠が不充分になって体調を崩しがちになってしまう。気を付けたいところです。
平衡感覚の欠如
これは寧ろ、小脳や三半規管に関することであって、直接的な関係は薄いと思いますが……。
鬱病になってからというもの、「躰がグラリと揺れて斜めになったまま浮遊しているような感覚」にとらわれることが多くあります。つまりは、まっすぐに座っている/立っている筈なのに平衡感覚を失ってしまい、浮いているか腰が抜けたような気分になるのです。僕はそれを「アレ」と呼んでいるのですが、鬱が酷い時に「アレ」は頻繁に起こります。偶発的なのか、身体的に関係があるのかは判りませんが、平衡感覚失調症や自律神経失調症といったものは、心理的なことにも起因するものなので、関係はなきにしもあらず、です。
死について
鬱病患者かどうか、その判断のよくある最終ラインは「死について考えるか」です。
僕は常々、それは考えていました。こうして「どうにもならないこと」を考えてしまうのも、鬱病の傾向であるようです。そのひとつの形として、僕は『死について』という本を買っていました。けれど読むでもなし、読もうとしてもすぐ中座する。そして考える。
「僕が死んだら、誰が泣いてくれるだろう?」
「僕が死んだら、みんなはどうなるのだろう?」
「そもそも、僕は死にたいのだろうか? 生きたい筈なのに」
そんな無駄な考えを、いつまでもうじうじとしたりします。これが肥大化すると、リストカットなどに繋がるのかも知れません。そんなふうに死を思う時は夜が多いので、睡眠導入剤で強制的に眠ってしまうのが一番です。
「食べる」ことの意味を見失った
これが、僕に精神科の扉を叩かせる決定打となった症状です。不意に、「食べる」という行動の意味が解らなくなったのです。
それまで本能的/時間的に食事をしていたのが、逆に不思議になりました。なんでそんなことできてたんだ? と。食べる「理由」や「意味」がないと、空腹であっても食欲がまるで湧かない。
朝は食パンだった僕が、それさえも食べられなくなり、ビタミン・ゼリーの類を飲む。それには「栄養分補給」という「意味」があるから。昼食などは、誰かと一緒に居れば食べられます。「オーダーせざるを得ない」「食べないといけない」「そうしないと、その誰かが困るでしょう?」なんていう有様ですから。もしくは、やはり「栄養補給」のビタミン・ゼリーの摂取。夕食と言えるものは、いつ食べたのか記憶が薄いほどだったりします。
でも、酒だけは呑み続けていました。そうすると胃が刺激されるし「酒だけじゃ悪酔いする」という「理由」で何かしか食べることができる。ひとりで出かけた時も、「空腹で動き回ると頭痛を起こす」体質なのでハンバーガーぐらいは食べられる。でも近場を散歩するぐらいなら、食べ物より缶ビールを持っていく。
「おなかがすいたから食べる」
「食べないと弱ってやがては死ぬ」
という根本の「理由」や「意味」を、忘れてしまっていたようです。