携帯電話との果てしなき戦い:12
〜どっちが悪い?〜
それは、僕が地下鉄の早稲田駅で降りて高田馬場方面へ向かっていた時のこと。
人ふたりぐらいしか幅のない歩道を歩いていたのだが、ここは「歩き携帯(歩きメール)」の温床なのだ。その大半は早稲田の学生だが、中には会社員までいる。
その会社員が、僕の目に飛び込んできた。彼はニヤニヤしながら携帯を手にし、ボタンを打ち続けている。無論、前方は見ていない。
僕はすれ違い様、とっさに「前見て歩け、この野郎」と怒鳴った。すると、スーツ姿の会社員はそんな僕をチラと見て、くっ、と苦笑いを漏らしたのだ。
これには、僕はいい加減腹が立った。ただでさえ危険な歩き携帯をしているうえに、人の注意を鼻でせせら笑う。僕は怒り心頭になり、踵を返してその会社員のすぐ後を追った。
「おい、おまえどれだけ迷惑なことしてるのか解るか」
会社員は答えず、相変わらず前を見ず携帯電話をいじっている。
「こんな狭い道で前も見ずに歩いていることが迷惑だと解らないのか」
会社員は、やはり無言で携帯電話をいじっている。完全にシカトするつもりだ。
「決めた。俺はおまえの後をついていっておまえの家まで行く。そしておまえのしていることを家族に打ち明ける」
会社員が、一瞬だけ歩を止めた。そしてすぐに、早足になった。それでも携帯電話をいじるのはやめようとしない。早足で携帯をいじるのは、余計に危険だ。人ふたり分ぐらいの歩道なので、ぎりぎりにすれ違う人々と何度もぶつかりそうになった。
会社員は、やっと携帯をしまった。しかしその足はますます速くなり、僕の追跡から逃げようとしている。僕は懸命に追った。
その時だった。
人ふたり分の歩道で、前方からひとりの女学生が携帯をいじりながら歩いてきていた。しかし早足なのでよけきれず、さらには僕は歩き携帯はよけてやらないというポリシーがあるため、そのまま激突した。その隙に、会社員は走り出して逃げていった。
衝突の衝撃で携帯電話を路上に投げ出された女学生は、迷惑そうな表情で僕に「何するんですか」と言ってきた。そして携帯電話を拾い、「もし壊れてたら弁償してください」とのたまった。
「おまえなぁ、こんな狭い道で歩きながら携帯いじってる奴に弁償なんかできるかよ」
女学生は、僕が謝るものだと思い込んでいたらしく、頓狂な表情になった。
「あなたがぶつかってきたんだから、あなたが弁償するべきでしょう?」
僕は食ってかかった。
「前を向いて歩いてない奴と、前を向いて歩いてる奴、ぶつかったらどっちが悪いんだ?」
女学生は一瞬、黙った。
「携帯が壊れてたら、ってなぁ、携帯が壊れる原因を作ったのはおまえなんだぞ。俺は前を見て、それでもよけきれなかった。だがおまえは前も見ず、よけようともしなかった。ぶつかってきたのは寧ろおまえなんだ。よけてもらえるなんて甘いこと考えてんじゃねえよ」
言い返せない女学生は、でも、と言葉を続けようとしていた。だが僕はそれを封じた。
「どっちが悪いんだ?」
女学生が渋々、といった態度で「そりゃあ、前を見てなかった私が悪いんですけど……」と言った。
「おまえ、自分が悪いって自覚してるのに自分の都合の悪いことは人に責任なすりつけるのかよ。何が弁償しろだよ。悪いことしてる奴に何もしてない奴が弁償なんかできるかよ」
僕は追随を許さなかった。
「大体おまえ、電車に乗る時マナー・モードにしてるか? 優先席付近では電源を切ってるか? ペースメイカー患者がどれだけ不安な気持で電車に乗ってるか解るのか?」
すると女学生は、予想もしない返しをしてきた。
「電車の中ではしてませんけど……私の父もペースメイカーを入れてます」
僕は呆れた。
「それじゃあ、ペースメイカー患者の苦しみは解るだろう? おまえは父親のすぐ隣りで携帯を使うか? そんな身近に携帯で生命の危険を迫られる人間がいるのに、面倒だからとか自分の勝手でマナーを破るのか? そして人を殺すのか? 歩き携帯も自分の都合がよけりゃやっていいのか?」
女学生は無言になった。
「そりゃあ、前を見ないで歩いていた私が悪いですけど……」
「自分が悪いって解っておきながら、相手に賠償求めるのかよ。どこまで自分本位なんだよ」
女学生の声が、すすり泣きになった。
「そうですよね……悪いのは私です。これからは歩きながら携帯電話をいじるのをやめます。電車の中でも、ちゃんとマナーを守ります」
そして、道路を見渡して言った。
「私、学生なんですけど(やっぱりな、と僕は思った)、卒業したら役所関係に勤めたいと思います。この道が狭いんですよね。だからこんなことになるんですよね。いつか、歩道を拡張します」
僕は無表情で、言った。
「狭いのは道じゃねえ、人間の心だ」
女学生は、再び無言になった。すすり泣きが聞こえてくる。
「道が広ければ歩き携帯してたっていいって問題じゃない。歩き携帯をしてる奴の心が、醜くて狭いんだ。自分勝手なんだ」
すいません、と女学生は頭を下げた。
「本当にごめんなさい。もう歩きながら携帯いじったりしませんから。私、頑張ります」
僕はもう、どうでもよくなっていた。こいつは誓ったが、いつまた歩き携帯をするか解らない。僕は学生なんか信じない。
「それじゃあ、俺の言ったことを忘れるなよ。夢があるなら寄り道するんじゃねえ。携帯に踊らされるな」
「はい、どうもすいませんでした」
そうしてふたりの会話は終わり、僕は歩みを進めた。女学生は突っ立ったままだった。
こういうふうに、前方不注意でありながら責任転嫁する奴は多い。女学生がその後、本当に歩き携帯をやめたかどうかは判らないが、ひとりの人間を泣かしてまで(その場限りでも)改心させたことは、僕の携帯嫌い人生の中で大きな収穫だった。
それにしても腹が立つのは会社員だ。謝りもせず携帯いじるのもやめず、都合が悪くなると逃げ出した。こういう奴が社会人をやっているかと思うと、日本という国を憂えてしまう。
僕は、事件が解決したのにもかかわらず、どこかすっきりしない心持だった。