電子書籍を考える
〜まず日本では浸透しない〜
本を読むのを習慣としている者として、話題をひとつ。
携帯できるデジタル本として、電子書籍が注目されている。以前からそれで新聞を読んだりしている人もいたけど、今では人気の小説から漫画まで読めるという。
要は携帯できるダウンロード端末だ。それを通して配信される新聞や本をネットワークで購入し、画面で操作しながら見るというもの。読みたいものだけを読みたい分だけ購入でき、紙媒体を買うより安く、また小さな画面でどこでも読めるという、スグレモノのように言われている。
これを「書店には大打撃となる」と危惧している人もいるのだけれど、僕はそれは杞憂に終わると見ている。
実際、新聞がその口火を切ったけど、余り浸透していないようだ。電車ではサラリーマンがやはり新聞を読んでいるし、世のオトーサンがたは朝にポストから新聞を取ってゆっくり読む習慣がある。高齢の方は大きい活字じゃないと読めないだろうし。
それに新聞が完全に電子化すると、いろいろと不都合が出てくる。
まず、新聞屋が全部潰れる。そうなると小売店からバイト君まで、幾多の人が路頭に迷うことになる。苦学生の定番だった、新聞配達で学費をやりくりすることができなくなる。
次に、コンビニやキオスクの儲けが減る。新聞だけならまだしも、ついでにコーヒーや軽い朝食を買う習慣のある人も多いので、それがごっそりなくなってしまう。少ない利益ながら毎日のことなので、薄利多売にはつらい。
そして、新聞広告がなくなってしまう。そうなるとスーパーの特売だの新規開店だのの情報はレアになり、様々な店まで経営不振に陥る。職探しもハローワークに限られるようになり、いろいろな企業が人手不足になる。
新聞だけでも、なくなったらこれだけの影響があるのだ。ならなくならないだろう、とイキナリ結論が出てしまう。
それでも本にまで視野を広げていくと、まず小説はどうか。
話題の本やベスト・セラーは読めるだろう。でも、余り有名ではない作家が読めなくなる。有名な作家でも、実験作や駄作とされてしまうものは読む人が少ないので、配信も止まるだろう。あるいはそういったものは配信料がべらぼうに高くなるかも。
さらには、小説は数年後に文庫化することで再び売れる。しかし配信ではそれがない。ひょっとしたら安くなって再配信されるのだろうか。いずれにせよ、装丁もオマケ程度の画像になって、デザイナーなどの仕事が安くなるだろう。
要らなくなったらデータを削除するだけになってしまうので、中古が出ない。売りさばくことができないので、もったいないながらハード容量に限りがあるので、消さずにはいられない。本と違って蔵書が持てない。
古本屋の価値観で見ると、初版やカヴァーの有無、状態などが関係なくなるので、「作品を持っている」という感がなくなる。所詮データを保存しているに過ぎない。当然、希少本は無価値。読めれば同じなんだから、明治〜昭和初期の文豪の作品も本じゃなくデータなのだから価値なし。ましてや著作権が消滅している作品は極端に配信料が安くなるだろう。
そういう感じで、読みやすくデータを消すのも惜しくない、エンタテインメントやミステリーがますます読まれ、何度も読まないと理解できない文学は、データを消せずにかさばるのでその地位はさらに失墜、需要が激減する。現にケータイ小説の現状がこれを予言している。わかりやすく、誰にでも読め、しまいに読み棄てられるようになってしまうだろう。あな恐ろしや。
では次に、漫画はどうなるか。
基本的には小説と同じで、とにかく売れるものが中心になる。というよりも、マニア受けしかしないものは小説より酷く、まったく配信されなくなるだろう。少年〜青年向けの漫画が一番多くなり、大人がゆったり読むような漫画は激減するだろう。レンタル屋だけでCDやDVDを選ぶようなものだ。
なので集英社は安泰、その次に小学館、講談社と来て、意外にスクウェア・エニックスは根強いファンがいる。一見ダメそうな白泉社やリイド社は意外と固定客がいる。角川書店は流行っていれば売れるし、マニアはかかさず買う。でも、秋田書店はやばいだろう。
で、その多くの漫画が今、「格闘漫画」を連載しているのだけど、これなんかはどうなるんだろう? だってさ、売りである格闘シーンを小さな画面でチマチマ見るのって。迫力はないわ大ゴマでもせいぜいが画面いっぱいだわ、『バキ』の書き込まれた筋肉が潰れてモザイクになっちゃうわ、小さな「書き文字」は読めないわ、連結するシーン展開が流れるように読めないわ、で、相当読みづらくなると思う。しかも、ジャンプ黄金時代以来、格闘漫画は増えに増えて今やどの雑誌も定番になっている。これは無視できない問題だ。もし拡大できても画面がモバイルだから限度がある。
それに多くの出版社が、週間漫画雑誌を発行している。これを毎週配信するのはどうなのだろう。お金のない小学生なんかを意識して、恐らく作品ごとに購入する形になる。となると、とりあえず最新作は売れる『ワンピース』や固定客のいる『こち亀』は大丈夫だけど、新人の新連載とか悲惨だ。ちっとも売れなくて、すぐに打ち切りになってしまう。そうなると大御所も1話1話をクライマックスで寸止めするという手を使うようになり、わかりづらい表現はなくなり、本当にお子ちゃまの読むような単純なものばかりになる。先に書いた小説のように、確実に売れる売れ線狙いしか生き残れないだろう。
で、問題は、恐らくだけど配信よりも古本を買った方が安いということ。だってBOOK・OFFでは1冊105円で買えるんだもの。お金のない子供達はそっちを優先するだろう。音楽で言えばiTunesの配信音源を買うよりレンタルで借りよう、それどころか下手すりゃ少し待って買った方が安い、というのが現実だ。
それでも電子書籍を優先するというのなら、どっかのお偉いさんが言った「漫画は日本を代表する文化だ」という発言は崩れる。小林よしのりさえ消されてしまう。単なる売れ線狙いの“MANGA”ばかりが残ることになる。僕の好きな日本橋ヨヲコも生き残るのが難しい。岩岡ヒサエなんか潰されてしまう。
そうやって、あたりさわりのない健全な漫画や流行狙いの漫画(今ならギリギリ「萌え漫画」とか)、あと成人漫画ぐらいになってしまう。かくして赤塚不二夫は成仏できなくなりましたとさ。
とりあえず、小説と漫画は売れ線しか残らないけど対応はできる、とわかった。
それでは、配信ではまかなえない本は何だろう?
それは実用書だ。料理本はDSでも料理指南ゲームがあるぐらいだからまだしも、釣りとか囲碁とか盆栽とか園芸とか、そういったものは情報を優先するよりじっくり読んで味わって考えて知識となって実演するものだから、小さな液晶画面では再現が難しい。釣りなんか大きな写真じゃないとわかないしことも多いし、スポーツの指南書は要点の飛ばし読みができない。医学書だって『家庭の医学』みたいな分厚い本はダウンロードに幾らかかるか。ましてや携帯端末が最先端の泌尿器学を配信するとは思えない。
こういった実用的なものは、かなり需要がないと配信されない。そうなると配信が開始してもわかりやすいもの、薄っぺらいもの、入門書の類が中心となり、専門的なものは欲しくても買えなくなる。そうなると哲学書もダメだな。ショーペンハウエルの著作は読めるだろうけど、学者がそれを解釈したり彼の厭世観を論じたものは、需要がないので配信されない。じゃあ思想書もダメだ。
あと美術書も無理だろう。大きな図録を見ても「もっと大きい写真で見たい!」という人が絶えないのだから、ちっぽけな液晶画面で満足できるわけがない。それでも小さくても見れればいい、という人は、絵や写真の細部にこそこだわるアーティストに喧嘩を売っているようなものだ。にわかファンばかりになる。
自己啓発書もどうかな。似たようなものばかりだから、その中でも売れそうなものだけになって、古いけどいいこと言ってる鈴木健二の本なんか見向きもされないだろう。『脳内革命』や江原のスピリチュアル本が一時期馬鹿みたいに売れて今はまったく売れない、ような事態になるだろう。
そういうことが進むと、同じような料理・戦術・思考・感性に統一されてしまう。まるで社会主義だ。
そこへ新興宗教の甘い口撃が乗ると、めっさ恐ろしいことになる。北朝鮮とまでいかなくても、中国みたいな国になってしまうだろう。
じゃあ逆に、携帯端末に合う本って何? ということになる。
それはあっさり答えが出る。新書やビジネス書、ファッション誌などのトレンド関係、それに資格や大学の過去問などの試験資料、法律に辞書に時刻表など定期的に変わるもの……というように、基本的に「最新の情報」だ。
それらは過去のものは余り価値がないし、最先端のものだからこそ新刊でも売れる。中には資料として昔の新聞が読みたいとか、昔のファションを知りたい、古い時刻表にロマンを感じる、ということもあるだろう。でも過去問とか法律なんかは過去のものはまるで必要ない。だからごく僅かのマイノリティしか、過去のものは求めない。
なので、こういった「最新の情報」こそが携帯端末に合っていると言える。
そうやって、最新の「情報」だけを追うようになってしまうのだ。
実際、こうしたものの古いものは古本屋では相当のものじゃないと価値が出ない。それがこういったジャンルの現実を物語っていると思う。
でもね、
ちょっと読み返してみて。僕は何回も「〜という本」のような表現をしている。
これはやはり、根底に本ありきというか、紙媒体があたりまえ、という感覚なんだよね。
だって、「さあ、今日も早起きしたから、モバイルで新聞を読もう」っていうお父さんは想像できない。ドストエフスキーやトルストイをダウンロードする感覚が理解できない。最新のものや話題のものばかりを好んで読む人にはなりたくない。やっぱり本として棚に並べてその手触りや重みを味わって、「読書している」という実感を得たい。
配信は流行家には受け入れられるかもだけど、古いものでも現代のものでも、とかく「(自分の価値観で)いいもの」は読みたくなるタチなので、その価値観というものを統一されて読めなくなるのは、ものすごく嫌だ。
みんな同じ本を読んで、同じ価値観になって、同じ話題を繰り返す。
そんなの、読書じゃない。読むものや読み方は千差万別であって、同じになってしまってはいけない。
そんなの、「本」じゃない。
ただの「情報」だ。
こういった感慨は、情報ばかりを追っているのではない読書家には、誰しも備わっているものと思う。
世の中、赤川次郎や西村京太郎の最新作を読みたい人ばかりじゃない。徳富蘆花や内田百閧読みたい人もいる。そんなことはないだろうけど、小林よしのりが生き残るために売れ線を狙う発言に陥ってしまうのは我慢できない。
これは表現の自由、あるいはその取捨選択の自由を侵害することにもなりかねない。
無論、もし仮に、本当に広まったら、の話だけど。
そういうふうに、電子書籍には浸透不可能な条件が揃っている。
だから宣言する。
電子書籍は期待したほど広まらないし、読書家やお金のない人には見向きもされず、何より利用している人の価値観を同一化してしまう。
日本が感性を棄てて「情報化」してしまう危険な道具だ。
もちろん、最先端の情報が欲しいサラリーマンなんかには使ってほしいよ。その方が仕事もうまくいくだろうし。でもね、小説や漫画の表現分野にまでそれを浸透させようってのは、無謀であり現実無視であり馬鹿じゃねえのおまえ、と思ってしまうのだ。
アメリカでは割と広まっているという話だけど、そういう人はバロウズの作品よりミラ文庫になるハーレクインの最新作を読んでいるのだろう。あとオバマの本とか。何となくビジネス最優先のアメリカらしいと思いますけどね。
まあ、少なくとも、浸透しないでしょう。
読書家の皆さん、心配せずに。
古本屋はあなたの味方です。