BOOK・OFFの功罪

〜刹那の住人〜

 さて。
 古本屋なら一度は話題にせねばなるまい、BOOK・OFFについて。
 その影響は身から感じていたのだが、ようやく筆を下ろします。
 以下、「古本屋」から見た「新古書店(BOOK・OFFなど)」についてです。

 前にも述べたけど、BOOK・OFFは厳密には「古本屋」ではない。「新古書店」という、ここ10年で台頭してきた「バイヤー」です。他にはエンターキングなどがあります。
 そういうところは、古本屋と何が違うのか?
 まず、「新鮮さ」を第一に売り出す。喩えば古本屋は寝かせて熟成した大正文学の初版などがあるけど、新古書店ではそれらは「紙屑」。それよりも『ワンピース』の最新刊やその年の「本屋大賞」の方が品揃えとして望まれるし、確実に買うお客がいる。それも新刊が出たばっかりなのにもう中古で新品同様で出ているという、おまえそれ再販制度を何だと思ってるんだ? というもの。
 つまりは、流行に乗ったものをまず売ろう、という方針ありきの店。従来の「汚い、狭い、暗い」という古本屋のイメージをくつがえした、「綺麗で、広くて、明るい」という店のイメージありきで作られた古書店。そう、もはや「古本屋」は死語なのだ。プレミアな絶版を求めにいく古本ライフは終わったのだ。
 新古書店は、その名の通り、「新」らしい「古」書を扱うという、一種矛盾に満ちたシステムを作り出している。発行から3年以上経った死に筋商品は、その価値を鑑みるもなく即座に紙屑となり、処分されてしまう。喩えば手塚の初版も。そういうように、新古書店は「流行」ありきの刹那的な古書店だ。
 だから、ミステリーやベスト・セラーを買うにはいいんだけど、古本屋の楽しみであった「プレミア本を見付ける」という要素がまったく死んでいる。だから彼らは厳密には「古書店」であって「古本屋」ではない。「今の売れ線」しか扱っていない。
 新古書店は、活字離れがゆき通っている現代に、崇められるが如く降臨した。そうして売れ線の流行本が刹那的に取り扱われて消費され、また古書ルートに戻る。彼らは「古本屋」ではなく、飽くまで「リサイクル業者」なのだ。
 そう、
 もはや、活字は保存するものではなく、消費するものになってしまった。
 それを印象付けたのが、誰あろう、BOOK・OFFだ。
「新しいものを、新鮮なうちに、処理しよう」というのが、新古書店のモットー。つまりは、目先の小さな、しかし確実な粗利が大量になれば、それだけ儲けが続くというわけだ。そこに「商品価値」というフィルターは、いっさいない。古い気質の古本屋なら諸手を挙げて喜ぶだろう北斎の春本のオリジナルなんて、まったく意味を成さない。そんなの買い取り拒否か、無償で受け取っての焼却処分だろう。
 古本屋的には、『ワンピース』の最新刊が綺麗な状態で売られていることよりも、こうした「文化」が失われていることを危惧したい。小林よしのりが「BOOK・OFFは文化破壊だ!」と叫んでいたように、作品に備わる独自の価値観をかなぐり棄てて、ただ売れるかどうかだけの「ビジネス」になっていることに、古本屋は嘆いている。
 無論、古書店での買い上げは、新刊書店や著者は売り上げも印税も入らないので、これまた作り手には困った状態になる。でも、「流行っているものを綺麗で安く手に入れたい」という「消費」者の声が新古書店を生んだのも、事実だ。それほど、漫画や活字は「売れなくちゃ意味がない」ものに成り下がってしまった。誰しも、汚い絶版の『受験あらし』なんかを高値で買うよりも、『ブリーチ』や『はじめの一歩』の最新刊を綺麗なうちに安値で買う方がよくなってしまった。
 新古書店がもたらしたのは、「BOOK・OFF価値観」だ。
 それは本来は価値の真贋を自らの判断で見極めるものであった読書を、刹那的に、消費的に、大衆的にしてしまった。喩えば汚い絶版の新書よりも、週刊漫画誌の最新単行本の方が「(商売的に)価値がある」としてしまった。それはビジネス的には正しい判断ではあったのだろう。商業的に見ればそちらの方がニーズがあることを見て、という。
 だがね、
 先述のように「本そのものの価値観」がまるでない。喩えば手塚や赤塚のオリジナルは「古い」ということで、サイン本は「汚れている」ということで、絶版は「誰も手に入らないから誰も買わない」ということで、どんなプレミア本でも裁断・焼却処分されてしまう。そこに古本屋的な「こういうものを求めている少しの人」の価値観よりも、新古書店的な「そういうものを棄てても売れるものだけを扱う」というビジネス最優先の姿勢が垣間見える。
 そういう姿勢を貫いたからこそ、BOOK・OFFはここまで全国的に広まったのだろう。だがそれは、同時に、読者の質を下げていることになる。流行の本だけを売り、それを安値で買い、読み終わったらまた売る。蔵書にする考えはない。だから、BOOK・OFFにはドストエフスキー全集などはない。飽くまで刹那的に、単なるエンタテインメントとして、本を消費する文化を作ってしまったのだ。
 もはや「読書家」なんて死語だ。本など、流行りの音楽や映画のように刹那的に楽しんで、少しでも楽しくなくなったら邪魔だから処分してしまうものになってしまったのだ。その本が「いい」という価値観は、長い目ではなく短い目で見たものになった。
「古い、汚い、わからない」即ち「悪い」、
「新しい、綺麗、わかりやすい」即ち「いい」、
 という、典型的な消費文化のサイクルに、本も乗ってしまったのだ。J-POPのように。
 だからBOOK・OFFに美術書や哲学書を買いにいくような人は、まずいない。美術や哲学は刹那的な価値観に基づいたものではなく、自らの価値観を追及する自己美学の世界であるからだ。新古書店はそんなものよりも、目先の流行で動かせる小銭の山が欲しい。その方が「わかりやすい」からだ。古い価値観など鑑みるまでもない。今がよければそれでOK。
 だから今で言えば『告白』は本屋大賞の宿命のように来年あたりには105円コーナーに直送。東野圭吾はドラマや映画になるのでキープ。西村京太郎や赤川次郎は最新作あたりのみ通常値であとはぜーんぶ一気に105円。芥川賞作品は数が出るからしばらくしたら105円の常連(綿矢りさなんてその典型)。それで売れなきゃ即刻大量焼却処分。そこに「本としての価値観」はまるでない。ただ「商品になるかどうか」だけだ。
 だから105円で投げ棄ててあった漫画が急にアニメ化やドラマ化が決定したら、誰かが直木賞あたりを受賞したら、急いで値段を通常値に戻す。BOOK・OFFでは105円のラベルにマジックで線を引いて値段を消し、新たに通常値のラベルを上貼りする。そこに「売れる」という刹那的な価値観が生まれるからだ。そこに「文化を流通させる」という思想はない。本質的にいいものか悪いものかなんて判断はない。ただ、売れるか売れないか。だからアニメやドラマが終わって落ち着くとまた投げ槍な値段になるし、そういう左右をしていいほどBOOK・OFFの買い取り値は安い。流行っていない殆どは、105円で売る前提でいるからだ。殆どが1冊10円で買い取るってのは有名な話ですね。
 だが、だからこそ、BOOK・OFFの105円コーナーにも有用な面はある。といっても消費者的な視点であり、真の価値を追求するようなことはできないが。
 喩えば価格を見ていまの流行を探ることができる。
 喩えば名前だけ知っていたような作家に気軽に手が出せる。
 喩えば極端な安価で自分にとって価値あるものが手に入る。
 だが真摯な読書家は、わかっている。それは刹那的な価値観だからこそもたらされたものであり、「試し読み」してみた作家が本当に気に入ったら、新刊で予約してでも買うようになる、と。しかし根本的に刹那的な価値観の娯楽者が大半になってしまっていて、作家へのリスペクトや本当に読みたいという姿勢など生む筈もなく、105円コーナー直送のサイクルが早くなってしまう。それで売れないから、新刊はさらに定価を上げざるを得なくなる。そうなるとますます新古書店が潤う。読書を単なる娯楽以上のものと思っている読書家なら避けたい、悪循環だ。
 よく「古本で流通していてもいい。読んでもらえただけで幸せ」という作家や編集者の意見があるが、それは作り手ならではの奢りだ。実際に新本が捌けない出版社や書店のことなど考えていない。ただ、抽象的に「読まれた」だけでたやすく尻尾を振ってしまう。「処分された」事実は考えないようにして。実に独り善がりだ。自分がよければいいのだろうか。
 そのうえで「古書店も著者に印税を支払うべき」という偽善でしかない意見まで出てくる。あのさ、有名デザイナーのブランド品でも、近所のバザーで出したら無価値なのよ? そういう現実を見てる? 要らなくなった漫画を友人に譲るのにも印税が関わってくるの? それは著者を持ち上げ過ぎ。飽くまで商品ということを考えなければいけない。
 それでも、BOOK・OFFが「エアコン効いててタダで立ち読みできる、店によってはソファまである、漫画喫茶に金使うよりもお得な存在」として子供に利用されているのは事実だ。新刊漫画はすべてシュリンクしてしまわないと売り上げに繋がらないという苦境を、寧ろ「ウチではタダで読めるよ〜」と客引きに使って楽しんでいる。だから金のない学生の仲間内での話題作りにも貢献しており、買わずとも流行漫画を読めるという刹那的な価値観をますます加速させる。
 そういうBOOK・OFF価値観の人が、葉桜書房にもしばしば訪れる。エアコンのもと、立ち読みで、タダで、己れの快楽だけを奪い取れる。そういう人は新書や実用書を読むことはない。飽くまで流行にのみ眼を走らせている。
 それほどに、「買うまでもない」ほどに、現在の「書籍での表現」が消費的かつ刹那的になっているのも事実だ。村上春樹よりも流行作家の方が価値があると思い込み、『1Q84』の猛攻であっという間に105円の過去作在庫が掃けてしまって、ああビジネス・チャンスだったのになぁ、と嘆くような刹那的な価値観を見出してしまう。これには笑った。ザマァミロと思った。だってあっという間にBOOK・OFFの105円コーナーから村上春樹の本がまったくなくなっちゃったんだもの。
 でも、それが現実なんだって。
 大衆は、文学よりも文芸を求めているのだって。
 それよりお手軽な漫画の方が価値があるんだって。
 そういうことを、認めよう。しかしそれは、BOOK・OFFが作り出した価値観だということも憶えていなくてはいけない。手塚の初版を焼却処分するなんて許せない。でも、それが事実だと認めなくてはいけない。
 表現は、自己探求でも何でもない。
 ただの商売道具の物差しなのだ。
 だが大衆は支持し、大衆的な感覚を持った者はそれを理解しようとする。結果、刹那的ではあるが本を読むという習慣は残される。
 しかし、飽くまで「刹那」だ。
 BOOK・OFFは古本屋にとっては功罪というより、「罪」の面が余りに大き過ぎる。

 それでも、僕はBOOK・OFFを「利用」する。
 自分の中でのセドリや、純粋な読書欲が105円でもたらされるから。
 僕は基本的にBOOK・OFFでは105円コーナーしか見ない。
 それは僕が新古書店というスタイルを認められない古い人間であり、また自分の利欲は手軽に満たしたいという、いやしくも刹那的な人間であるからだ。

 だからこそ、この文を書いた。
 BOOK・OFFマニアよ、町の古本屋にも行ってごらん。
 そのうえで「BOOK・OFFは古本屋ではない」ということを実感してごらん。
 葉桜書房は経営的にはヤバいけど、古本屋たる信条としては間違っていないつもりだ。

(追記)
「古本屋」は基本的に巻末に値段を何らかの方法で表記する。これは暗黙のルールだ。
 むかしっから古本屋を利用していた人なら、巻末に鉛筆で値段が書いてあるのを見たことあるでしょう?
 なのにBOOK・OFFがカヴァー裏面に値段のラベルを貼るのをあたりまえとしてしまった。
 だから葉桜書房にも「値段はどこにあるんですか?」というお客さんが絶えない。
 寧ろそちらが当然のように。
 彼らは巻末に鉛筆で値段を書いた古本を買ったことはない。
 剥がしてもベタベタするラベルが当然だと思っている。
 こういうわかりやすくも伝統や実用性を無視した価値観を作り出したのも、BOOK・OFFだ。