“21st Century Schizoid Man”に関する欺瞞
(1)KENの見解
曲目を読みながらライヴ・ベスト盤『サーカス』を聴いていると、まず初めに覚えたのは、違和感だった。
「スキッツォイド」という、耳慣れない言葉。それを「精神異常者」に戻して考えてみる。するとそこにあった違和感はまるでなくなり、すっくりと曲の世界に没頭できる。しかしその曲が「21世紀の精神異常者」ではなく「21世紀のスキッツォイド・マン」というタイトルのものであると思うと、途端にボズ・バレルのヴォーカルもイアン・ウォーレスのドラムもメル・コリンズのサックスも普段以上に鬱陶しく聴こえ、果ては、ロバート・フリップのギターすらも偽善染みて聴こえてしまった。
そう、そこにあるのは「偽善」だ。
こと精神異常やら何やらといった「障害」に関わることになると、日本のメディアは引き腰になる。当事者から「この言葉に心が傷付いた」などという批判が来やしまいかと、勝手にビクビクしてしまうのだ。
その辺りに触れると話が広がり過ぎるので、まずは純粋に“schizoid”という英単語について考えてみよう。
この単語は一般に「精神異常/精神分裂」などと訳され、似て非なる「偏執症(paranoia)」と引き合いに出されることが多い。「スキゾ/パラノ」というその2語が、医療従事者の教則本に並ぶことでも解るように、これは差別語でも何でもなく「医療用語」でさえある。医療用語としての「スキゾ」は単純に「精神分裂」を意味するだけで、差別心などこれっぽっちもない。再び英語に戻れば、“schi〜”という語は「分裂的な」という意味合いをもともと有しており、それは精神だけでなく、宗教、派閥など様々な分裂行為に用いられる。
この語に、差別心などありやしない。
しかしそこに「日本人特有のじめじめとした自主的な遠慮」が悪い側面で働き、勝手に「この語はよろしくない」としてしまうのだ。
その行為は、被差別者を守ることになどなりやしない。少し飛躍して差別語の話になれば「気違い」「盲(めくら)」「片輪」なども、もともとは「区別語」であって「差別語」ではなかった。その語彙の使用者が後々に余計なニュアンス付けをしていき、やがては差別語になってしまったのだ。既に他界した私の祖母なども、盲目であった。しかし彼女は、自分のことを「目が不自由な」「盲目の」などと表現せず、はっきりと「私はメクラだから」と言っていた。当人は、世間で紛糾されているほど気にかけているわけではなかったのだ。
「メクラ」から派生した「目眩まし」や「めくらめっぽう」はよいが「メクラ」は許さない。
これと「スキゾ」はいいが「精神異常」は許さない、は同質である。
話は関連ある別曲に変わり、ピンク・フロイドの“Shine
On You Crazy Diamond”になる。これも、以前は堂々と「狂ったダイアモンド」というタイトルを名乗っていたのに、ベスト盤『時空の舞踏』リリース後からは主に「クレイジー・ダイアモンド」と表記されるようになった(時折オリジナル邦題の表記に戻ることもあるが、そうなると首尾一貫としない態度がよけい曖昧だ)。これも同様の姿勢あっての配慮のつもりなのだろう。
かの曲ではシド・バレットを「狂ったダイアモンド」とすることで、その偉大さを「フロイド特有の神秘性という曖昧なヴェール」で、言わば「誇張」することができた。そのかいあってか、この曲やそれを収録した『炎』は、フロイド音楽の中でも異彩を放つことができた。しかし日本人にはその言葉の本質が曖昧になる「クレイジー」に言葉を置き換えてみたらどうだろう? “crazy”という言葉には「狂った」「〜狂い(気違い)の」「イカれた」「イカした」などと、スラング的なものもも含めば、何通りの解釈もできる。それらをすべて、表面的にしか理解していない日本人にとっては、その「クレイジー」という響き自体に曖昧な理解(思い込みとも言えよう)が含まれてしまうのだ。
そう、考えようによっては「イカしたダイアモンド」という、古めかしいハードロックさながらのタイトルとして解釈されないとも限らない。英語に長けた人間なら歌詞を聞いて解釈を改めるだろうが、我々日本人には、悲しいかな、訳詞すら読まずに洋楽を聴く者が未だに多い。
だからこそ、はっきり「狂ったダイアモンド」と指定するべきであるのだ。
そして話は「精神異常者」に戻る。
いつぞやの紙ジャケット再販より少し後『ザ・コレクターズ・キング・クリムゾン
Vol.3』が発売された。以前のCDから紙ジャケットに買い換えた方などは解ると思うのだが、再販紙ジャケットではオリジナル邦題がことごとく復活していた。それを受けてか『ザ・コレクターズ・キング・クリムゾン
Vol.3』の'72年ライヴ盤も「セイラーズ・テイル」が「船乗りの歌」というタイトルに戻るという、先祖帰り的な様相が見られた。
だのに「精神異常者」は「スキッツォイド・マン」のままだったのだ。
紙ジャケットでは「21世紀の精神異常者」に戻っている。前述のオリジナル邦題復活を反映した『ザ・コレクターズ・キング・クリムゾン
Vol.3』のこともあり、ようやくポニーキャニオンも解ってくれたか、と思った矢先に、これである。
なぜ、その曲だけを忌み嫌うが如く阿呆なタイトルにしてしまうのか!
その行為自体こそが「自主的差別行為」であると気付かないのか?
街で障害者を見掛けたら、あなたはどう思う? 可哀相だと嘆く? 視線を外す?
私は、別に何とも思わないけどね。
区別以上の差別でも、極端な優遇でも、特別視することこそが障害者に対して失礼であると思っているから。
以上の理由をもって、私は「21世紀の精神異常者」の「新邦題」を認めない。これを認めるのは、クリムゾンにも、ロバート・フリップにも、いや何と言っても世間の障害者達にも失礼であるからだ。これが別の曲に関してであれば語学的な話にでもなるのだろうが、こと社会的なことになるといやに敏感になる。私は差別と区別を混同視する現代日本の弱腰がちらつくから、どうしてもこのタイトルに憤りを感じてしまうのだ。
「タイトルはどうあれ、曲は同じである」という意見も、無論あるだろう。それは、私の志向がランゲージ的なものであるのに対して、その人のウェイトはミュージック的なものであるからだ。それは嗜好・思想の異なりであって、どちらにも優劣などない。寧ろ、英語タイトルばかりである全世界の音楽流通に対し、わざわざ邦題を設けていた日本を支持する私が、手狭な世界に生きているという意味合いで劣っているかも知れない――日本語を誇りたい気持ちを抜けば。
私は、日本語が好きだ。
要は、それだけの自己満足である。
そこへ障害者や差別語といった本来曲とは関係ない概念が入ってくるため、日本語を支持する私の話はややこしくなってしまうだけなのだ。
新邦題に欺瞞を、
自分に自己欺瞞を覚えさせる事件である。
*後日追記*
……と、書いておいたら、のちに私自身が「統合失調症」にかかってしまった。精神障害者としての補助も受けている。だがそれでも、「精神異常者」というフレーズには嫌悪感など覚えない。寧ろ、解りやすくていい表現だとも思う。これは文中にある、メクラだった祖母と同じことだろう。