リズム構造の特徴

〜そねっちJapanを語る〜

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1.
 彼らの音楽的特徴のひとつである独特なリズムの反復(=グルーヴ)について、プロ・アマをとわず、楽器を演奏するもののあいだでは多少評価されているにもかかわらず、一般的に語られることは殆んど無い。
しかし、ニューウェーヴお化粧バンドとしての外見を持ちながら、実は非常に高度な音楽性をもっていたことも事実である。彼らが活動していた80年代当時、電子楽器の急速な発達とパンク・ロック以降の「とりあえず演奏することからはじめる」という風潮のなかで、数多くのバンドが意慾的な作品を発表したが、大概の作品は「アイデア一発もの」程度の音楽性しかもっておらず、使い捨てられるエンタテイメントとしてその役割を全うし、現在のシーンに何らの影響をあたえているものは殆んど無い。
 JAPANがその後の音楽シーンに与えた影響も似ているように思うかもしれない。しかし、それは作品の先鋭性と現在も含むその後の音楽シーンというものの狭間でのかりそめの解答でしかないと考える。あまりに個人的な作品というものは、ジャンルを問わずそのような扱いに甘んじなければない時期があるのだろう。
現在がそれにあたるのかもしれないし今後正当な評価をされる時期が来るのかどうか、それはわからない。

2.
 JAPANの中心人物は、いうまでも無くデヴィッド・シルヴィアンである。JAPANの歴史は言うなれば彼の歴史であるともいえる(KEN氏の原稿にくわしい)。しかしながら、彼のアイデアを実現しているのは、実はバンドであるというのも事実である。彼がソロ・ミュージシャンとしてデビューしていたとすれば作品群はまったく異なったものになっていたであろう。音楽活動を通じて自我を確立できていたかどうかもわからない・・・というのは深読みしすぎだろうか?
 アンサンブルの側面から見た場合は、デヴィッド・シルヴィアンは殆んど影響をもっていない。彼はシンガーでしかないのだ(ギターも弾くが添え物程度でしかない)。後期JAPANの音楽の実質的なリーダーはミック・カーンなのではないだろうか? かれらが独自の音楽性を高めるほどミック・カーンのアンサンブルにおける比重が高まるのである。一聴しただけでは、印象的なフレットレス・ベース(*1)による癖のある反復・・・程度にしか聴こえないかも知れないが、スティーヴ・ジャンセンとのリズムの構築というレヴェルでみてゆくと、複雑にして高度に洗練された演奏がなされていることに驚く。それの中心となっているのは彼のベース・ラインなのだ。私見ではあるが、殆んど「発明・発見」に域に近いものであったとわたしは考えている。
 考察していくにあたり、その対象として『孤独な影』を選んだ。名作ではあるが、代表作ではないだろう。個人的な好みをべつにしても代表作は『錻力の太鼓』であろう。ではなぜ『孤独な影』なのか?
リズム構築の独自性から見たとき、『錻力の太鼓』は方法論として完成されたあとに発表されており、その方法論を用いてはいるものの、ほぼ別物と考えたほうがいい。『孤独な影』は方法論の完成をみたアルバムであり、考察してゆくにはこちらのほうが例としてわかりやすいと思われるからである。また。このアルバムのリズム構造の特徴を理解することによって、リズム構造からJAPANの音樂の特質を俯瞰できるのではないだろうか、というのも選択の理由のひとつである。

3.
 一般的にグルーヴというものの目指すものは何なのだろうか?
 それは、単純に「とまらないこと」に尽きる。それはジャンルが違ってもほぼ間違い無い。へヴィ・メタルにせよジャズにせよ、レゲエにせよ、とまらないこと、終わらないことがグルーブの目指すところなのだ。
そのために、リズムセクションはそのジャンルごとに常套句的な完成されたリズムパターンを用いることがほとんどであり、逆にいえば、リズムセクションがどういうパターンを演奏しているかが曲のジャンルを決めているといってもいいだろう。(*2)
「とまらないこと」をなぜ目指すのか? それは多分に音楽の誕生についての詳細な論考が必要になるであろうから細かく言及せずにおくが、現在の、レイブパーティーや、烈しいビートをもった音楽のライブにおける観客の反応と原始的な宗教(この言い方には引っかかるものが無いでもないが)における音楽をともなった儀式における参列者の反応が酷似していることから、そのことを推測する程度にとどめたい。
 では「非終止感」とは何なのか? どのようにリズムを組んでゆけば「非終止感」を感じさせることが出来るのか?
 基本的には「次の拍を予感させる」ことのように思える。換言すれば、拍子ではなく次にくるパルス(*3)をいかに予感させ、期待を高めるか、そしてどう解決するか?そこに尽きるのではないか。これを延々とつづけることで(予感→緊張→解決→予感→緊張→解決・・・)音楽は「とまらずに続いてゆく」のである。これがうまく働くと、ひとはある種の興奮状態に陥る。これがグルーブの本質なのではないだろうか?
 「孤独な影」においてグルーブがどのように意図されていたか? そこには非常に独特なリズムの構築によるグルーブが見受けられるのである。

4.
 では具体的な解説に移りたいと思う。文中の分表示(m'ss)は英国盤CDカタログ・ナンバーCDV2180のボーナストラックを含まない盤のものである。カタログ・ナンバーの違う盤で、分表記が同じになるかどうかは未確認であるが、ヴァージョン違いの曲が収録されていることはないようだから、お持ちの方はぜひ聴きながら読んでみてほしい。
 その6曲目“Ain't That Peculiar”に、独特のリズム構造がもっとも顕著に現れている。

(0'00)
 まずはイントロ。スティーヴ・ジャンセンのタムタム(*4)のフィル・イン(*5)から曲がスタートする。このフィル・イン自体が1拍目を効果的に聴かせるために、クレッシェンド(*6)がかかっていることに注目。

(0'01)
 リズム・パターンのイントロ(イントロ1)が始まる。曲の全体を支配するドラムのパターンが提示される。よく聴くと、スネアドラム(*7)が一回おきにフランジャー(*8)もしくはエレクトリックドラム(シモンズ(*9)か?)によって強調されている。また、バックグラウンドに流されるアナログ・リズム・ボックス(*10)は2拍でワン・フレーズになっており、2拍目にむかって緊張感が高まるようにプログラムされている。ところが、ジャンセンの叩くドラム・パターンのスネア・ドラムの発音位置はすでに2拍4拍で叩かれておらず(一般的にな8ビートの場合、その位置にくるのが常套)、ポリリズミック(後述)な演奏形態を予感させるものになっている。
 ミックスについても注目すべき点があり、フレーズの最初の部分(1拍め表、裏)にたたかれるタムはショート・ディレイ(*11)もしくはオーヴァー・ダビング(*12)によって左右に広げられて定位しており、強調されている。この曲のドラムの定位は実際のドラム・セットの定位とは異なっており、あたかも、各パートが独立しているように定位されている。これによって、ポリリズムを強調することが可能になり、また、従来のドラムのイメージから離れたフレーズを聴かせることに対する違和感をやわらげるように働いているようにも思える。

(0'19)
 ここで各楽器が加わってイントロ(その2)が始まる。基本的な部分でリズムはまったく変わらない。新しく加わった楽器で注目されるべきは、小節の最初の部分に聞こえるウッド・ブロック(もしくはそれに類似した音色の打楽器、音程が変化しているから、木琴に似たものかもしれない)によるアクセントである。加わってくる楽器はシンセサイザーもしくはE-BOW(*13)によって持続音へと歪められているEギターであるが、それはあくまで背景を埋めるものとして配置され、リズム構築へ貢献するものではない。よく聴くと「イントロ1」では叩かれていなかったクローズド・ハイハット(*14)が刻まれているのがわかる。アクセントは移動させられており、これによって、アナログ・リズム・マシンのフレーズとあいまって、スピード感あふれるものへと演出されている。Eベースのリフ(*15)は打楽器とのからみにおいてその特徴がはっきりする。
 ミック・カーンのベースラインは、実に「やりたい放題」の状態であって、一聴、奇妙なフレーズであることがすぐにわかるのだが、なぜそう感じるのか?(ハーモニーにおいて、それほど複雑なものは感じられない)
 後述するが、パルスに対するブレス(*16)のとり方にその原因があるように思うのだが。

(0'37)
 ヴォーカルが加わる。リズム構築に対して影響を与えるものではないが、特徴的なのはそのメロディーラインにおける譜割(リズム)の異様さである。いわゆる、字余り、字足らずを半ば強引にはめ込んでいる。それにもかかわらず、違和感がないのは、リズム楽器と会話をするように流れるメロディーだからである。たとえば、メロディの歌いだしのところでアウフタクト(*17)を用いているが、フレーズの最初はすべてこの手法を用いることによって、1拍目のタムを強調している。

(1'02)
 サビの部分。新しいリズムは加わらない。これ以降も、基本的にリズム構造に変化は見られず、ひたすら反復される。所々にアフリカン・フルートにより変化がつけられたり、効果音的にシンセサイザーが加わる程度である。

5.
 一般的なポピュラー・ミュージックのリズム構造は、ほぼ4拍子系である(12/8のシャッフル(*18)は、8分音符3をひとまとまりと考える4拍子である。)JAPANを考察するにあたって、8ビートであることを前提に考えていくこととする。「ほぼ」4拍子であるというのは、ポピュラー・ミュージックにおいては、厳密な「拍子による強拍、弱拍」を逸脱する構造をもつ楽曲も多いからである。たとえば、レゲエのリズムの裏拍の強調や、4拍すべてを均一に刻むユーロビートのようなものも存在する。こういったことはそのジャンルの発生した経緯をみてゆけばその理由はすぐにつかめる。

 一般的に4拍子はこのような構造(←ここをクリック!)になっている(*19)とされる。
 しかし、ロック等にみられる8ビートになると、黒人音楽の影響が見られるので、というよりも、8ビートの発明が黒人音楽によって行われたということもあり(*20)、その影響をうけ単純に速度が2倍に「速く」なるのではなく、アクセントの位置は大まかに見てこのように変化している(←ここをクリック!)ようだ。

 4拍目にもアクセントがくることが多いのではないだろうか? これはブルースなどに見られる重いグルーブを白人が模倣した結果生まれて定着したアクセントだと思われる。(*21)
 4拍目にアクセントを持つかどうかについては異なった見方もあるだろう。しかしながら、3拍目の部分で一般的にバス・ドラムがアクセントをつける(演奏される)が、これを省略した(もしくは非常に弱く演奏される)リズム・パターンは時おり耳にすることがあっても、4拍目のスネアが省略されることはまれであって、殆んどの場合は特殊な効果を狙っているか、もしくは、民族音楽の要素を取り入れ8ビートに解釈したものであるように思う。
 私見ではあるが、ロック等のアンサンブルにおいて、メンバー各々が、拍子におけるアクセントの移動とそれにより生まれる循環を(意識しないにせよ)演奏することによってその演奏は「グルーヴ」するのではないだろうか? また、リズム・セクションの誰かが(または全員が)このアクセントのポイントによって「循環感」を強く意識させる演奏をしている場合が殆んどである(大概の場合はドラマーである)。いずれにせよ、アンサンブルのなかの誰かがこの循環を強く打ち出した演奏をしているのである。

6.
“Ain't That Peculiar”の考察にもどる。
 この曲におけるスティーヴ・ジャンセンとミック・カーンの演奏は分析するほどにその深みが現れてくるという、凄まじいものなのであるが、その演奏は非常に洗練され、無駄が一切ないところまで高められているので「奇妙なリズム」といった印象で聞き流してしまうことも多いのではないだろうか。
 この曲に関していえば、アクセント位置は前述の4拍子のものとはまったく異なった位置に配置されており、なおかつ各楽器が、拍子のアクセント位置を意識した演奏をしているのではなく、互いのアクセント位置を感じつつも避けあうことである種の自由さを獲得しているのである。
 各楽器が定位置のアクセントによって支配されるのではなく、各々が独立したアクセント位置を取ることに
よって成り立っているといえる。それを実現しているのは、

1.ポリリズムによるリズム構造
2.ブレス・ポイント主体に考えられたリズム構造

 によるものであると考えられる。
この両者が複雑に絡み合い、相互に補完するかたちでリズム・アンサンブルの全体を組みあげている。
 ポリリズムとは、複数の異なった周期で循環するリズム・パターンを同時に演奏することを指すリズム形態である。民族音楽に一般的にみられるものでは、たとえばバリ島のガムランなどがあげられるが、ポピュラー・ミュージックにおいては、アイデアの借用といった域をでないものの80年代のキング・クリムゾンや、かなり早い時期からアンサンブルの中核においていたジェームス・ブラウンなどがあげられる。JAPANのそれは高度に洗練されており、ロックにおいてJAPAN以前には見られなかったものであると言っていい。
 先にあげた2つをみてもわかるのだが(ポピュラー・ミュージックにおける)ポリリズムは、基本的に拍子を意識した明瞭な、核にあたるリズムパターンが演奏されており、その曲の拍子におけるアクセント位置を提示し、それを取り巻くかたちで、アクセント位置の異なる他の楽器の演奏が配置されるかたちをとる場合がほとんどである。一般的なかたちとして、その役割はドラムスが担っている(主:ドラムス、従:その他の楽器)。
 しかし、この“Ain't That Peculiar”においては、楽器構成が一般的なものであるから、JAPAN以前のポリリズムと同じもののように聴こえているかもしれないが、じつは、似て非なるものである。なぜならば核にあたるリズムパターンを演奏している楽器が見当たらからである(強いてあげれば前述の木琴か)。ドラムセットを構成する各楽器さえも、各々が循環するリズム・パターンを与えられ、ドラム・セット1台で一つのパターンを演奏するパートにはなっていない(これは演奏する人間にとっては苦痛を伴うことだろう。意識するかどうかは別としても結果的に、演奏者は大きなうねりを感じながら、もしくは、そのうねりを生み出そうとして演奏しているわけで、一人の演奏者が複数の異なったうねりを生み出さ無ければならないというのは、とんでもないことに思えるのだが・・・)。
 また、当然、ベースの演奏もそれにならってアクセント位置の選択を独立しておこなっている(楽器間の主従関係なし)。

7.ポリリズムとは?
 非常にシンプルかつ誇張した形で図にすると、このようなもの(←ここをクリック!)になる。

 横軸を右に向かって時間経過と考え、各楽器の色の塗られた部分が楽器の発音されている時間(たとえば、マス目2個なら2個分で1つのフレーズ)と考える。
  例:楽器1、マス目2個分のフレーズが演奏され、1個分の休み、これがもう一度くりかえされ
  次に3個分のフレーズが演奏され、1個分の休み・・・の繰り返し。

 縦軸方向に発音のされ方を見てみると、たとえば、4拍子で設定されているにもかかわらず(1234で1周期)フレーズは拍子を無視した形で演奏されており、同じ楽器構成で演奏されている瞬間(=同じ色構成になっている)を探すのはなかなか困難であることに気づく。
 また、色の塗られていない升目が多い瞬間というのも存在する。
 この図は理解を助けるために、意図的にシンプルな形で示してみたが実際の演奏においては、個々の楽器によって物理的な発音時間の限界が異なっているので(たとえば、タムの四分音符とベースのそれが異なるように)より一層複雑に絡み合っているのであるし、音の長さは演奏者によって制御される。
 ここで注目してもらいたいのは、「マス目」の色のついていないものの垂直方向の連関である。
「色がついていない=音が無い」部分は、いわばデッド・ポットであって、演奏の中に一瞬の無音の空間が生まれるのだ。
 もちろんこういった手法が常に偶然の結果導かれたと考えるのはどうかと思う。デッド・スポットをいかしつつ各楽器のフレーズにおけるブレス・ポイント(パルス=テンポとして考えた場合のフレーズにおける起承転結の最小単位の一区切りとそれに続く次の一区切りとの間に生まれる一瞬の「間」のようなもの。たとえばヴォーカルなら、その場所で息継ぎしても不自然ではないポイント)を組み合わせてアレンジをしているのであって、そこには当然意識的な制御もあったはずである。しかし、この楽曲における素晴らしい点とは、その人為的な制御を感じられないところまで練られたリズム・アレンジにある。
 複数の異なった周期のリズム・パターンを同居させ、なおかつデッド・スポットを配置しつつ、各楽器をすべて聞こえるようにアレンジして・・・・となると、これは「偶然」そうなったなどというレヴェルではありえない。
 それでは再現性は得られない。このアルバムにおいて、あからさまでないにせよこの方法論でリズム構築がおこなわれているのを聞くとき、それは彼らの「方法論」として獲得した手法なのだということに気づく。

8.
 このデッド・スポットを有効に生かすという発想は非常に「非ヨーロッパ的」な発想であるといえるのではないだろうか? 上記の図の最下段にあえて「パルス楽器」をならべてみたが、この楽器の存在は時間の経過を区切る「単位」になっていることを示すためにあえて加えたのだが、アンサンブルにおいては、普通、ドラムスがその役割を機能として受け持っている部分である。この部分を削除したかたちはヨーロッパ的な音楽においては、数の少ないものであろう。前述の80年代のキング・クリムゾンにおいてもはっきりとした形で存在していた。
 「在る」ことがすなわち、存在を示すのであり、「無いこと」は存在しないことを示す。そして存在は単位という絶対によって規定されている。このあたりを突っ込んでいくと文化論や認識論になってしまうので、あえてこの程度にとどめておくが、JAPANについておもうとき、この「0(ゼロ)の発見」というものが、そのリズム構築の要になっているのではないだろうかと思われるのである。

9.
 彼らはあえてこのデッド・ポイントに注目したのであるが、アンサンブルおいて、それを強調するために前述の“Ain't That Peculiar”に見られるようなリズム・アンサンブルのテクニックを用いたのいだろう。個々の楽器にはそれぞれ異なった周期が与えられ、拍子(=アクセント位置)を意識的に無視するような形で、異なった長さのフレーズを繰り返し演奏している。それを可能にしていたのは、仮想パルスより導かれた拍子の、「循環感」を強める効果としてのアクセント位置の強制がなかった(というよりも、あえてそれを設定せずに、避けたといったほうがいいかもしれないが)ためであり、結果的に、パルスという絶対単位を意識しながらも、フレーズのブレス・ポイント(デッド・ポイントと重複することもあるだろう)を楽器間において最も効果的に聞こえるように配置したためである。
 こういったリズム・アンサンブルが可能になった理由のひとつには、スティーヴ・ジャンセンのテクニックの向上があったことははっきりしている。それまでの彼といえば、とりあえずドラムを叩くメンバーでしかなくそのプレイも単調であり、存在感ははっきりいってかなり希薄である。『孤独な影』で、突然その演奏は上達し、そのフレーズは洗練され、楽曲に対する貢献度は急上昇するのである。
 グラム・ロック・バンドとしてデビューさせられ、売れなくなればユーロ・ディスコものに路線変更させられ……レーベルのいいなりになって来た彼らの表現衝動はついにこのアルバムで爆発する。そして自分たちの言語で話し始めるのであるが、そのきっかけになったのは、YMOとの親交にあったようにおもう。
 坂本龍一とデヴィッド・シルヴィアンの付き合いというのは互いに客演するなど有名であるので、此処で取り上げるまでもないだろうが、リズム構築の側面から見た場合、注目するべきは、スティーヴ・ジャンセンの高橋幸宏にたいする尊敬である。
 当時の高橋幸宏はソロアルバムにおいて、注目すべき実験を行っており、これがスティーヴ・ジャンセンをかなり刺激したようである。その実験とは、パーカッションのシーケンス(*22)と生ドラムの同居である。
 当時の電子楽器の技術では、現在のように、発音のタイミングを微妙に調節して「人間が演奏しているように」機械に演奏させることは困難なことであった。また、そういったことよりも、機械っぽい、均質な演奏が耳新しく、新しいセンスとして歓迎されていた時代でもあった。高橋幸宏はそれを一歩すすめて、マシン・ビートと人間の演奏をどうやって同居させ、そこに新しい感覚と演奏形態を生み出せるか? といったことに執心してアルバムを製作している。その結果、複数のパーカッションとの同期演奏を成功させている。それは「ドラム+パーカッション」ではなく、互いに譲り合い、補い合って形成されるパーカション群というリズム・セクションであり、前述の楽器間における主従関係のない、独特なものである。
 スティーヴ・ジャンセンが高橋幸宏の作品を聞いていない訳は無く、そこにアイデアの借用があったとみてよい。しかしながら、JAPANのベースはミック・カーンであり、彼の「非ヨーロッパ志向」がその借用を発展させ、オリジナルと言ってよいレヴェルにまで高めるきっかけになったのではないだろうか。
 それは、JAPANという閉ざされた世界のメンバー同士の会話なのであり、JAPANの仲間内での会話であるといえる。それゆえ、『錻力の太鼓』を発表し解散後の彼らの活動は、バンドを組まず、完全なソロ・ワークでもない活動がその殆んどを占めるのではないか。共通言語を獲得するための学習期間が必要であったのであったのでは無いだろうか?

10.ミック・カーンのプレイ・スタイルについて
 初期のアルバムにおいて、フレットレス・ベースを用いていること以外は、取り立てて個性的なベース・ラインを弾いていたわけではないミック・カーンであるが、『孤独の影』でそのスタイルは一変する。その前のアルバム『クワイエット・ライフ』でその兆候はみられていたもの、その変化は、楽器を手にしないリスナーもすぐ気づくほどのものである。その原因について推測してみようと思う。
 まず考えられることはミック・カーンのギリシャ系イギリス人としての文化意識の混乱があったかもしれないこと。6歳でロンドンに移住するまでキプロスに住み、母親の影響からトルコの音楽に親しんできたという彼の音楽的な生い立ちにその理由を求めることも可能であろう。過去のインタヴューでもそのことに触れて語っている(『ベース・マガジン』95年6月号)。
 このインタヴューでは、「自分の使うスケールについて、デヴィッド・トーンが具体的に解説をしてくれてはじめて、中近東の音楽が自分のスタイルに影響をあたえていることを知った」という内容も含まれていて興味深い。少なくとも、彼自身、自分の演奏スタイルについてJAPANのメンバーであった当時は、自覚的では無かったようである。前述したが、ユーロディスコものを演奏しなければならないという、彼のクリエイティヴィティーからすれば最悪の状況にまで追い詰められた結果、坂本龍一と偶然出会い、非ヨーロッパ的な音楽のポップ・ミュージックにおける可能性を知ったのではないか? ミック・カーンにとって、これは大きな出来事であったろう。
 デヴィッド・シルヴィアンが坂本龍一と出会うことで、非ヨーロッパ的な音楽への指向性をよりはっきりとさせた結果、バンド内におけるアレンジの方向性も自然とそちらよりになったのではないだろうか? これは、ミック・カーンにとって、自らの音楽の志向性(当時は無自覚であったにせよ)を発揮するに十分な環境が整ったことを意味する。
 彼のプレイ・スタイルの特徴は、いやというほど「フレットレス・ベースらしい(*23)」演奏であり、フレットレス・ベースの機能を生かしきった演奏である。『孤独な影』のタイトル曲がそこそこヒットして、彼の名前は多くの知るところになるのだが、良くも悪くも個性派としてかたづけられてしまうことが多かった。確かに、眉毛をそり落とし、メイクをして、ステージでは高速カニ歩きを決めるというのは、やはり「変態ベーシスト」なのだろう。加えて、あのベース・ラインである。
 しかし、そういわれながらも、特に日本においては、フレットレス・ベースを弾く人間にとってかなりの影響力をもっていた。以前『ベース・マガジン』でフレットレス・ベース特集が組まれたときに、日本国内のプロ・ミュージシャンへの質問として「フレットレスベースを弾くベーシストで印象に残るのは?」というのがあったが、それに対する答えとして彼の名前を挙げるベーシストの多さにびっくりした記憶がある。
 その魅力は、やはり「きもちのよさ」に尽きる。
「普通はそう行かないだろう」というフレーズのオンパレードなのだが、実際に楽器を手にしてそのフレーズをコピーしてみると、じつに気持ちがいいベース・ラインなのである。「ナニ考えているかさっぱりわからん」というものばかりなのだが……。実際、メロディ・ラインよりも、「おいしい」=かっこよい所へラインが動いてゆくのである。これを知ってしまうと、なかなか、抜けられないのだ。つい、似たようなことしようとして、真似してみるのだが、うまくいったためしはない(笑)。きっと何も考えずにライン作っているのだな、と思うと同時に彼の才能の偉大さにひれ伏すのだ。そして、そういう「困った」ベーシストが平気で同居していたJAPANというバンドの凄まじさと、閉ざされた社会の会話であったJAPANの楽曲の強力さに驚くのである。
 また、彼が音楽のみを追求していた「バンド野郎」ではなかったことも。彼のプレイ・スタイルに影響を与えているのではないだろうか? 本国で開かれた彫刻作品の展覧会の写真を見たことがあるが、なんだか異様なものであった。立体イラストというか・・・なんだか奇妙な感じのするものだった。そういった音楽活動以外のものが、彼の演奏スタイルに何らかの影響をあたえていたと考えても不思議は無い。
 彼のベース・ラインは「コードのルート(*24)を確定させ、リズム感を打ち出す」という、R&B系統の発想によって作られているというよりは、「足りない部分には足し、いらない部分は削る」という彫刻の作業に近い気がする。それを感覚にのみ頼って行っているのではないだろうか?

11.そして『錻力の太鼓』へと……
『孤独な影』でリズム構築は極限まで高められ、一気に完成をみた。その後彼らに残されていたのはスタイルとしての再生産でしかなかった。しかし、彼らはそれを良しとせず、この「ブレス・ポイント」をいかしたリズム・アレンジの方法を簡単に捨ててしまうのである。それは彼らにとっての「ここではない何処か」が、イメージとしてのアフリカから、中国へと興味が移ったせいでもある(正確にいえば、デヴィッド・シルヴィアンの興味の対象が中国へと移ったというべきか)。
 精緻なモザイクのように組上げられたリズム・アレンジはみられなくなり、ゆったりとした、大陸的な(日本人の思う中国大陸的な・・といっていいだろう)リズム・アレンジへと変化している。どの楽器を誰が演奏しているのか? ますます不明瞭になり、混沌の度合いは前作を上回る。ここまでくると、もはやロック・バンドといえるものではない。その反面、今回取り上げたリズムの構築手法はあまり見られなくなっている。前作にくらべて、サラっとした引っかかりの無い印象である。非常に時間のかかるであろう前述の手法は「中国」のイメージには合わなかったのだろう。なんとなく思うのだが、『錻力の太鼓』は言ってみればデヴィッド・シルヴィアンが仕切って作ったアルバムなのではないだろうか? バンドとしてのメンバー同士が刺激しあってギリギリのところでアンサンブルが成立している風でもないし、各楽器の音色こそ非常に凝りまくっていて聞き応えのあるものに仕上がってはいるが、ロックのアルバムとしてみたとき「全くロックしてない」アルバムなのである(*25)。そして、このアルバムを発表してまもなく、解散が発表される。
 ミック・カーンは『錻力の太鼓』発表後、最初のソロ・アルバム“TITLES”を発表する。本当に「やりたい放題で」ファンの私でも「疲れる」アルバムなのだが、見ようによっては、ストレスの溜まった彼が「落とし前」として作ったのではと思うほど、弾きまくっている。『タイトルズ』を聴いて、やはり、リズムの要は彼であり、
リズム構築のアイデアは彼のものであったろうことがわかるのだ。
 屈折したファン心理といわれればそれまでなのだが、『孤独な影』と『錻力の太鼓』のあいだにもう一枚アルバムを作ってほしかった気がする。さらにいえば、『孤独な影』製作時のデモ・トラックなどが存在するのならどうしても聴いてみたい(*26)……というのは叶わぬ願いではあるのだが……。

(Text written by:そねっち)