リチャード・ライトを見詰め直す

〜「ホヮンホヮン」の偉大なる魔力〜

 それでは、「一番ピンク・フロイドらしくないアルバムは何か」という問いかけから始めよう。
 多くの答えを占めるのは、間違いなく『ファイナル・カット』であると思われる。それは『ファイナル・カット』が実質的にロジャー・ウォーターズのソロ・アルバムに等しい内容であることが第一の理由に挙げられるが、私はもうひとつ、重要な要素をここに掲げたい。
 それは、リチャード・ライトの不参加である。
 リックは『炎〜あなたがここにいてほしい』を頂点に、『アニマルズ』、『ザ・ウォール』と、アルバムを重ねるごとに存在感を薄くしていった。そして解雇を言い渡され、リック抜きで『ファイナル・カット』が製作された。そこには無論、リック特有の「ホヮンホヮンした」音響がない。してみると、『アニマルズ』もリックの存在感が希薄であったことが「音として」フロイドらしくないのではないだろうか。より音数の少なくなった『ザ・ウォール』など言うに及ばず。
 つまり私は、「ピンク・フロイドの音のイメージ=リック・ライトの音」だと提唱したいのだ。
 喩えば、今まで挙げたアルバムと最新作『対』を聴き比べてみるといい。そしてロジャーの参加/不参加を抜きに、「音を」味わってみてほしい。するとどうだろう? 『対』の方がずっと「フロイド『らしい』」音響空間を醸し出してはいまいか?
 リックの存在感は『炎〜あなたがここにいてほしい』が頂点であると前述したが、もうひとつ、フロイドの文句なしの代表曲「エコーズ」を見よ。ここにも、リック特有の「ホヮンホヮンした」サウンドが十二分に活用されているではないか。彼のプレイこそが「エコーズ」の幻想性を担っていると言っても過言ではない。最初の一音からして「あ、エコーズだ」と感知させる音作り。しかもヴォーカルも兼ねる活躍振りである。
 ソロ・ワークでも然り。リックのソロ・デビュー・アルバム『ウェット・ドリーム』は「小さなフロイド」とさえ評価されたことがあるし、『ブロークン・チャイナ』も『対』のワン・ピースというべき仕上がりになっていた。シド・バレットのソロでもデヴィッド・ギルモアと共に『その名はバレット』に参加、旧邦題に『シド・バレット・ウィズ・ピンク・フロイド』という「フロイド印」を刻んでいる。ZEEが評価を得られないのは「リック・ライトらしくない」作品だからだ。
 リックがトロンとした鍵盤を弾くことが、即ち「過渡期〜全盛期のフロイドの音」を想起させる。それはさながら、デイヴのブルージィなギターが一時期のフロイドを象徴するように。(デイヴと)リックの参加が「フロイドらしさ」を「リリックではなくサウンドで」醸し出す、大きな要素であるのだ。
 ことオルガン・プレイに関しては、フロイド・イメージを想起させるひとつのポイントであると言える。オルガンは鍵盤の中でも、最もそのバンドの色が出やすい楽器だ。リックのオルガン・プレイは時に牧歌的で、時にサイケデリック。また幻想的であり、架空の宇宙をイメージしたかのような色彩を帯びている。つまりは、フロイドらしさに溢れている。「狂ったダイアモンド」のオルガン・プレイを見よ。
 逆転して言えば「リック・ライトの不在=ピンク・フロイドのイメージの欠乏」であると言える。だからこそ『アニマルズ』は未消化のままに評価が低く、『ザ・ウォール』は幻想を微塵にするハンマーが振り下ろされ、『ファイナル・カット』では重々しい空気感ばかりに満ちている。
 表に返すと「リックの参加=フロイドらしさ」である。そのうえで鑑みるに、デイヴのソロ・ツアーにリックがゲストとして登場したことは大いに話題となった。ニック・メイスンを迎えたロジャーとは比べものにならないほどに。それは「フロイドの音」の最大のふたつを担う、二者の合致(=フロイド・サウンドの再現)を意味していたから。
 今一度、リックを見よ。そしてその音に触れよ。
 ここで私の言わんとしていることは感覚的なものであるので、どうかリスナー自身がその感触を諸作品から感じ取ってみてほしい。
 さあ、リチャード・ライトに正当な評価を!

……しかしそのリックも、2008年9月15日に、癌のため亡くなってしまった。65歳だった。
 彼なくしてフロイドの音に魔法は生み出せない。これでフロイドの再結成はなくなった。