シド・バレット:『炎』エピソード

〜嘘のような本当の話〜

 フロイド史のうち、最もメンタルな仕上がりとなり、質や完成度云々を取り払ってでも「好きなアルバム」には必ず名前を出す『炎(あなたがここにいてほしい)』。そのレコーディング中にすっかり変貌したシドが現れた、という話は有名だ。
 しかし、シドへ捧げたと言われる曲の製作中にシドが現れたとは……何とも、繕ったかのように皮肉な話ではないか!
 そこで本項は、様々な雑誌などに散らばったそれらを掻き集め、騙されたつもりでまとめてみた。一部には未だ、それをフロイドの作り話だとする風潮さえあるが、それならいっそ騙されてやろうではないか。
 騙されることで、アルバムへの親近感が湧くのならば……。
……以下は、雑誌媒体の記述をもとに、筆者が「読み物」として再構築したものである。ゆえに、発言内容や発言者など、細部は独自の解釈であることを前提として頂きたい。


 75年1月にスタジオ入りして以来、ピンク・フロイドのメンバーは誰もが活気を失っていた。
 突然訪れた『狂気』の大成功と、それに伴うツアー。そこまではまだ、さしたる問題はなかった。成功を勝ち得たという栄光に、4人は瞳を輝かせていた。しかしその輝きがさらなる前進を求め、新たな楽曲を製作したのに、問題は起因した。
 新たな楽曲――「狂ったダイアモンド」「レイヴィング・アンド・ドゥルーリング」「ユーヴ・ガッタ・ビー・クレイジー」の3曲――は『狂気』レコーディング前にその組曲すべてを披露していたように、ごくごく当然に披露されていた。作曲者であるフロイドにとっては、当然に。
 しかしリスナーや海賊盤業者にとっては、それは当然ではなかった。発表前の曲が披露されるということは慣習ではあっても、中にはやはり、その曲をレコーディングされるより早く聴きたいと願うリスナーや、それに付け入る業者がいた。
 そう、有名な海賊盤“BRITISH WINTER TOUR '74”の登場という事態を、フロイドの成功は招いてしまったのだ。
 ライヴでの前評判や『狂気』の成功も相俟って、その海賊盤は大層な売れ行きを見せた。それがフロイドの新譜であると思い込んでしまった者も少なくないと聞く。これは、現在でも同盤を音源とした海賊盤が広く流布していることからも明らかである。それが売れてしまったという事実は、フロイドにとっての大ショックとなった。自分達が正式に発表していない、まだ試作段階の曲をバラされてしまうなど……。
 種を明かされた電気の魔術師、
 魔術師は、やはり人間だったのだ。既にネタがバレているマジックを、誰が好き好んで披露しようか? 道化役者ならばそれも可能だろう。しかしフロイドは、魔術師との賛辞を受けてきた存在だったのだ。奇跡と思わせてきたことが、単なる事実に過ぎないと暴露された今、彼らには奇跡が存在しなくなった――それも、海賊盤業者というまったくの第三者のせいで。
 以来、彼らは未発表曲を先んじて披露することをぱったりとやめた。
 そうでもしないと、スタジオの雰囲気は悪化する一方だっただろう。

 バンドは「狂ったダイアモンド」と題された曲をデヴィッド・ギルモアのギター・フレーズから展開していくことになった。どうにか、全員がインスパイアを受けることができたのだ。そこへリックが、独特の浮遊するようなシンセサイザーの波を構築していった。
 普段の作業が、ようやくにして始まったという感があった。
 そうしてレコーディングが順調になり出した頃、いつものようにアビィ・ロード・スタジオに入ったリックは、ロジャー・ウォーターズがミキシングをしているのをまず見た。そしてその背後のソファに、太った禿げ頭の男――16ストーン(約102キロ)ほどもあるのではないかと思われる男――が座っているのを見た。灰色のスラックスと、メッシュ織り地のチョッキ姿の男を。
 どうせレコーディングに関係する誰かだろう、リックは特に気にも留めず、レコーディングを再開しようとした。セッション・マンだかスタッフだか解らないけど、きっとそういう誰かなんだろう。
 そこへロジャーが声をかけた。
「リック、この男が誰か解るかい?」
 そう問われたリックは、再び太った男を見た。
「さあ? スタッフじゃないのか」
 何の気なしに答えるリックに、ロジャーは、苦々しく言い放った。
「シドだよ」
 リックは、目を剥いて男を見詰め直す。シドだって?……そこに座る男は、ただの肥った男だ。それがシドだと言うのなら、いつでもカーリー・ヘアだった頭髪だってありやしない。まるでシドだという確証はない。
 その瞳を、除いては。
 男の瞳は、紛れもないあのシド・バレットのものだった。闇の向こうを見詰めるような鋭い視線、しかし虚空をじっと見詰めるだけの孤独な視線――何てことだ! リックは慌てて男のもとへ駆け寄った。
「シドかい? どうしたっていうんだ! そんなに……肥ってしまって」
 シドと呼ばれた男は、薄ら笑みを浮かべたまま応じた。
「台所に大きな冷蔵庫が置いてあるんだ。それに豚肉をたくさん食べていたからさ」
 この言葉を他の誰かが言えばジョークで済んだかも知れない。しかしリックには、皮肉としか思えなかった。
 そして、何も言えなかった。
 するとシドは、急に立ち上がった。ポケットから歯ブラシを取り出し、突然歯を磨き出す。磨き終わるとブラシをまたしまい、ソファに座る。そしてまた立ち上がり、歯を磨く……その動作を、何度も繰り返していた。
 悲嘆に暮れ、茫然自失の状態となったリック。彼に、ふとシドは話しかけてきた。
「さあ、僕はどのパートにギターを入れようか?」
 シドは、自分が未だフロイドのメンバーであると思い込んでいたのだ!
 リックは、その言葉に悲痛なものを感じずにはいられなかった。シドはそう言いながらも、自分のギターなど持ってきてもいない。涙をこらえ、リックはシドに、できるだけ優しく言葉を返した。
「ごめんな、シド。ギターのパートはもう全部、録音してしまったんだよ」
 それは無論、偽りだった。バンドはまだ曲を構築している段階だった。しかし、そうでも言わなければシドをモティーフとした曲をシドがレコーディングするという、奇怪な事態を回避することはできなかった。
「そうかい」
 シドはにこやかに、ソファに座り直した。
「何か僕にできることがあったら言ってよ。いつでも躰を空けておくからね」
 そしていつまでも、笑っていた。
 ミキシング卓から、ロジャーの啜り泣く声が聞こえる。リックは目を閉じ、祈るほかなかった。
 この男が、本当はシド・バレットなんかではないことを――
 ロジャーは啜り泣きをどうにか止め、ミキシングを繰り返した。そうしてテープをプレイバックし、ベスト・ミックスを得ようとあがいた。シドが現れたという混乱もあって、その作業はなかなかにはかどるものではなかった。
 ロジャーの悲哀が苛立ちになった頃、シドは今度はロジャーに問いかけた。
「どうしてそんなに何回も聴き返すんだい?」
 声のあった方向に振り向くロジャー。するとそこには、純朴な疑問の表情を浮かべたシドがいた。
「一度聴いたらそれで充分じゃないのかい?」
 その発言に、ロジャーは天才と謳われたシドを思い出していた――そうだ、この男はいつでもレコーディングは一発で済ませてやがった。現に、それだけの才能があったんだ!――そして何も、言い返すことができなかった。
 それはリックも、同然だった。いや寧ろ、ここで何か発言できる人間がいようか? 英雄と崇められた男シド・バレット、その現実の姿をまじまじと見せ付けられて!
 ふたりは、黙り込んだ。
 しかしシドは、ずっと、微笑み続けていた……。

「そういうことが、あったんだ」
 ロジャーは『炎』リリース後に自宅へ訪れた記者に、シドとの再会を話し終えたところだった。テーブルに置かれた紅茶は既に、両者ともに冷めきっている。それを無表情に啜るロジャー。記者は、ペンを進めることさえも忘れていた。
「それじゃあ、あのアルバムはシドに捧げたのですか?」
 その程度の質問しか、彼にはできなかった。彼もまた、現場にいたふたりと同じく、シド・バレットという存在の再認識に追われていた。物語と現実とが交錯し合い、何が本当なのかという判断さえも付かない様子だった。
「いや、それは違うね」
 ロジャーは苦々しい顔をして、カップを置く。
「確かに、シドにインスパイアされた部分はあったよ。俺自身もさ、あいつに影響を受けていないなんて言えやしない。だけどあのアルバムは、シドのことだけを書いたわけじゃない。他にも小曲はあるし『狂ったダイアモンド』だって、普通の人間にも当て嵌められることさ。俺たちは『狂気』と同じように、普通の人間にも当て嵌められることを書いただけなんだ」
 記者が何か問おうとするのを遮り、ロジャーは続ける。
「そりゃあ確かに、あのアルバムはシドがいないと完成しなかっただろう。そもそも彼がいなければ、ピンク・フロイドというバンド自体が存在したかどうかも解らない。だけどね、そういったことを全部、シドに結び付けるのはよしてほしいんだ。あれはバンドが鬱々としていた頃の作品で、シド・バレットという人物はそのオマージュにもなり得た。ただそれだけのことじゃないか! ロック史上ではシドは重要かも知れないけど、ピンク・フロイドにとっては重要ではない、そうでもしなければ、今の俺たちは何だって言うんだい? シドはそうやって物語めいて語られるけど、それは事実が殆どないから、どんな物語を作ってもいいだけのことさ!」
 ロジャーは少し、黙り込んだ。
 記者の、紅茶を啜る音。それがやんだ頃、再び彼は、静かに続ける。
「シドなんかは世間から遊離したがっている人間の偶像に仕立て上げられているようだけど……それがまかり通っているんだから、今の時代はひどく悲しい時代だよ。物事が良くなるんじゃなくて、かえって段々悪くなっていく。それが『炎』を聴いてもらえれば、解るんじゃないかな。何だろう、機械的で長い感じ? レコーディングだってずっとそんなもので、誰もが白けていたよ。だからね、そういう当時の雰囲気にもめげずに」
 一度息を吸う。
「その悲しい雰囲気を、レコードとして少しでも表現できたから、それで良かったんだよ……」
 記者は、何も言えなかった。
 ロジャーも、同じだった。
 ふたりの脳裏にはシド・バレット、その微笑みばかりがこびり付いていた。
 決して輝かない、しかし輝きを失うこともない、狂ったダイアモンド――