シド・バレット:ジャグバンド・ブルース

〜ピンク・フロイド=シド・バレット=?〜

「ピンク・フロイドというバンド」にシドのシドの姿を当て嵌めて理解しようというのは、間違いではない。しかし、方法論のひとつでしかないということを、まず念頭に置いて頂きたい。
 確かに、初期フロイドは彼のバンドだった。だが「シド・バレットによる」「シド・バレットの」バンドではあったが、「シド・バレットのための」バンドであったかということを考えると、いささか疑問が湧く。
 シドは、ワンマンではあったかも知れないが、フロイドに於けるソングライティングと、ソロ・アルバムでのそれを比較すれば、それがイコールではないことが容易に解る筈だ。これは彼の精神状態のこともあるだろうし、またいかなるバンド/ソロでも当然のことである筈なのだが、ことフロイドとなると「フロント・マン=その時のフロイド」という公式をすぐに当て嵌めたがる人間が多い。それは各フロント・マンのソロと、当時のフロイドの音の質やコンセプトが似ている傾向にあることに大きな原因があるのだが、かといって、一緒くたにしてしまっては、他メンバーをセッション・マンさながらに認識してしまうなどの誤解を招くことになるだろう。
 それでは、ピンク・フロイドの中ではシド・バレットという人物がバンドとイコールになる曲は存在しないのか?
 私は、ある1曲を除き、存在しないと言いたい。いかなる楽曲も、シドひとりでは構築できなかったものだ。喩えば『夜明けの口笛吹き』の導入曲にして初期フロイドを最も体現しているだろう「天の支配」かて、それがバンド形式での演奏でなかったら、その世界観が成立したかは甚だ疑問だ。シドの呪術的なヴォーカルや幻視的なギターの響きに耳を奪われがちではあるが、よく聴くがいい。
 闇を構築するロジャーのベースを、異空間さえ想起させるニックのトライバルなドラムを、そして全体を調和させるリックのシンセを!
 これらは、シドひとりでは紡ぎ出せなかったものだ。確かに明確な像を提示したのはシドであったかも知れない。しかし具体的な構築を図ったのはメンバー全員であったのだ。設計図と構築とを、すべてシドが行っていたわけではないのだ。
 さて、それを前提としたうえでも「シド・バレット=ピンク・フロイド」とできる唯一の曲とは、何か?

――「ジャグバンド・ブルース」である。

 この『神秘』に収録された唯一のシド作となる曲は、ブルースでもなければ、ジャグ・バンドを使っているわけでもない。その代わり救世軍のバンドをスタジオに連れ込み「さあ、好きなように演奏してくれ」とだけ命じたという。それが中間部にある、吹奏楽器を中心とした躁状態の部分である。
 この曲は、シドの精神世界を非常に良く現している。シドの精神というと鬱病のような捉え方をされがちだが、私は、寧ろそれは躁鬱であると考えている。しかし当時のシドには、自分の躁状態を表に出すことはできなかった。そこで、救世軍バンドの力を借りたわけだ。
 だがマネージメント側には、そのような考察は不要だった。ピーター・ジェナーはこの曲をサード・シングルの候補にさえしていたのだという。結果としてそれは取り下げられ「スクリーム・ザイ・ラスト・スクリーム」が次なる候補に上がるものの、最終的には「アップルズ・アンド・オレンジーズ」に落ち着くことになるのだが。
 改めてその歌詞を、よく読んでみるといい。
(以下、太字部分は『神秘』日本盤の山本安見訳をそのまま引用した)

ここにいる僕のことを想ってくれるなんて
きみはなんて思いやりがあるんだろう
それに 君にはとても
感謝している
僕がもうここにはいないという事実を
きみは明確にしてくれた

「きみ」というのは……ロジャー・ウォーターズであろうか? シド・バレットという人物がバンドにとって弊害となってしまったことを告げ、しかしシドを敬愛してやまないロジャー、その人なのだろうか?
 いや、ここでの「きみ」は、女性ともとれる。そういったことを前提とし、寧ろ「彼」でもあり「彼女」でもある「誰か」――普遍性を与えておくべきかも知れない。そう考えておけば、聴き手と仮定することもできるし、シド自身とすることもできる。選択の幅が広がり、聴き手により、解釈のしようも広がるというものだ。

僕は知らなかった
月がこんなに巨大なものだとは!
それに
月がこんなに青いものだとは!

 ここでの「月」とは、即ち「バンド」であり、ピンク・フロイドである。
 シドは、バンドがスターダムに祭り上げられていくことに翻弄されるばかりだった。だからこそここで、こうしてその再認識を描いたのだ。バンドの支持が急増していたこと、また結成当時の青いまま突き抜けてはいけなくなったこと――そういったものへの恐れを、この詩は描いている。それはさながら、バンドの行く先を予言するかのように……「月」というキィ・ワードを、後にロジャーが持ち出す伏線となっているかのように!

僕のボロ靴を捨てて
代わりに赤い服を着せて
僕をここに連れてきた君に感謝するよ

 何と、また「君」の登場である。
 ボロをまとっていたアマチュア時代を脱却させ、スターダムという目立つ赤い服、熟していなければいけない赤い服を着せた「君」――もはやこれはロジャーであっても、プロデュースに関わる面々であっても構わない。シドは「君」に感謝しているのだから。
 皮肉にも、彼に現実というものを教えてくれた「君」に。
 私はそれを、当時の恋人か母親ではないか、と推察する。シドの心理世界の後押しとなった女性。影ながら支えていた女性ではないか、と。
 そこへ、シドが素朴な疑問を漏らす。

この歌を作ったのは
いったい誰なのだろう?

 果たしてそれは「シド・バレット」なのか? それとも「ピンク・フロイド」なのだろうか?
 この一節をもって、私は、この曲がシドとバンドがイコールになっていると言いたいのだ。バンドのメンバーであるというアイデンティティを失いつつも、シド・バレットのままである自分。その狭間にたゆたう瞬間にだけ、彼のバンドと個人とが結ばれたのだ。
 皮肉なことである。
 バンドとの乖離の瞬間だけ、それが成立したというのは……。

たとえ 太陽が輝かなくともかまいはしない
すべてを失ってもかまいはしない
きみの前で固くなってもかまいはしない
冬になったら また愛する事もできるだろう

 このままピンク・フロイドという月から離れてしまっては、それを照らしていた太陽であったシド・バレットは、ひょっとすると輝きを失うかも知れない。一対の双子である月と太陽が、一方だけでは「一日」を形成できないように。
 しかしシドは、その自分の輝きを失ってしまっても構わないと歌う。そうして「きみ」の前で固くなる――ここには“nervous”という単語が用いられている。これを「固くなる(堅苦しくなる)」とするのはいかがだろう?
 私であれば、以下のように訳したいところだ。

「君に対して苛立ってしまっても
 冬にはまた 愛してあげられるだろう」

 これは、落ち着かない自分の精神状態を嘆くと共に、それでも追従してくれる「きみ」に捧げられた一文であるのだ。センシティヴな秋が過ぎれば、そこには生命の死滅――即ち次なる春への輪廻――を湛えた冬が訪れる。
「その頃には僕も感情が幾らか落ち着いているだろうね(いや、そんなこともないのだろうけど)」
 これは、シドが自分自身を客観的に嘆じつつ、「きみ」に――彼に関わるすべての「きみ」に――捧げた歌であるのだ。
 そして歌はやみ、救世軍バンドの騒乱を招き、やがて闇からよみがえるかのようなシドの声で、謎を投げかけて終焉を迎える。

海は緑色なんかじゃない
僕は女王を愛している
夢想とは一体何?
そして 戯れとは一体何?

 さあ、最後に問題だ。
 ここは敢えて、私は具象例を提示しない。この4行をいかに解釈するかは、あなたに一任したい。シドの描いた夢と、現実との戯れとを――
 どう料理するかね?

 そして、これでもシドは、ただの夢見がちな狂人でしかないのかね? それとも、悲劇に葬られるだけのスターでしかないのかね?
……彼を、ひとりの人間として見てやってくれまいか。