アルバム考

〜“THE DARK SIDE OF THE MOON”の真の意とは?〜
はじめに――フロイドの精神世界
『狂気』というアルバムについて、『原子心母』と並んで必ずと言うほど口にされるフレーズがある。
「私はこのアルバムに、自分の小さな宇宙を感じた」
というものだ。
筆者はそれを、特別なことであるとは考えていない。何をいまさら、といった感が強いのである。ましてや筆者は、そういった「生悟り」を嫌っている(「解説というもの」内柄谷行人氏の見解参照)。それがライナーノーツやガイド本であれば、何をかいわんや。
なぜなら、フロイドが常に歌ってきたもの、音に抽象化して表現してきたものはもともと「内的宇宙の音楽的具現化」であるからだ。
喩えば、宇宙という概念とは余り密接だと思われないファースト・アルバム『夜明けの口笛吹き』を聴いてみるといい。どうだい? そこにあるサイケデリックな楽曲群、それらを構成している各フレーズは、よく「シドの精神世界の具現化である」と語られるだろう? それが内的宇宙、つまり「精神」であるというのだ。
精神というものは、よくよく「小宇宙」と表現される。それは「神経」の名の如く、神の仕業としか思えないほど複雑な構造により成り立っているためだ。かつ、感情や感覚といった「感」の部分をすべて司っているので、そういった論理では説明しきれないものを「神が訪れる経路」とすることで、この「神経」という名称が冠されたのだ。
それを前提にすれば、もはや『狂気』までのアルバムについて私が訴えたいことはほぼ述べたも同然である。
具体列挙をすれば『神秘』に於けるタイトル曲は、混沌とした精神状態がカオスからフラクタルへと発展し、やがて安息の時を迎える精神描写の具現化と言える。ならば『ウマグマ』は安息に行き着かずに彷徨っているカオスの断片であり、そこで「天の支配」が取り上げられているのも頷ける。『原子心母』についてはクラシカル・アプローチが成されたタイトル曲が嫌というほど神秘論に則って論じられているので、触れるまでもないだろう。イマジネイションの収束とも言える曲だ。『おせっかい』については「エコーズ」がそれであり、より具体的な感情を音階で表すことに成功していると思われる。
そうして辿り着いた究極が『狂気』であるのだ。
ここでようやく、「アルバム考」の本文に入ろう。
ひとつご留意頂きたいのは、筆者は、よくあるように「月の暗い側」をシド・バレットその人に安易に結び付けないということだ。
スピーク・トゥ・ミー〜ブリーズ
さて、本文に入るにあたって、まずは結論から述べてしまおう。
『狂気』は、人間の一生を表している。
この論は『原子心母』に於ける小宇宙と同様、かなり使い古された言い回しではある。だが、それだけ支持を得ているということは、少なからず真実といえる側面を含んでいるとも言える。
但し私は、上記の「人間」とは、ある個人のことであると特定していない。それを架空の物語の主人公さながらに見立てて評論を書く方もおられるようだが、それこそ愚の骨頂、創作家のエゴイズムである。
歌詞を見よ。
そこにあるのは、我々普遍的な人間が体験する「日常の狂気」である。金や時間、あげくの果てには生命すらを求める人々、鬱屈な叫び、老人の死、そして月と感情とが織り成す情景――誰もが一度は体験し、または目にしたものばかりである。
これらの歌詞は実に普遍的なものであり、あらゆる人間にも当て嵌まる抽象化がなされていることに価値があるのだ。「狂気」は誰しもに訪れる、誰しもが内包したものである、それを前提としていることに。
だがそこまで考え付く者は多いようだが、割合、次のことに気付かない者は少なくない。
イントロダクションでの心臓音、
エンディング部分での心臓音、
それらが、フェイド・イン/フェイド・アウトにより円環しているということの意味。
大概の者は、その連環を音楽のみでとらえ、繋がっているのだという率直な意見を述べるに終わる。そうして、私が本文の冒頭に掲げた「人間の一生」に当て嵌める。だが、そこで歩みを止めず、もうだけ少し先へ進んでみたまえ。
最初と最後が繋がっているということで、思い付きはしないか?
輪廻に。
そう、ここには東洋思想の極北とも言える「輪廻」が存在する(いや寧ろ、西洋思想に於けるニーチェ提唱「永劫回帰」なのかも知れない)。一度は消失してしまった筈の心臓音、即ち生命は、現世に姿を現そうと(CDをかけると)すれば再び生まれ変わるのだ。
つまりイントロダクション「スピーク・トゥ・ミー」の中でレジ・キャッシュの音や狂気的な囁きに包まれて響く心臓音は、新たなる生命が、欲望と死への運命を背負ったうえで誕生することを意味している。そして「生命の息吹」が始まり、彼は――普遍的な人間を表しているという条件のもとで、仮に一個の人間を設けてみるとしよう――空気を吸い込む。それは人間である以上、いや生物である以上、必要不可欠とも言える動作である。
ここで歌詞を参照してみよう。
「幾ら逃れようとしてみたところで、私から逃れることはできない」
「あたりを見渡し、自らの所在地を選ぶのだ」
ここで言う「私」とは、簡単に言えば「神」であり、噛み砕けば「運命」となり、さらに述懐すれば「逃れられない絶対的なもの」となる。この世界に於ける「絶対的なもの」とは何か?
死、それである。
つまりここで、生命は死を前提にして成立している、という不可逆的な大前提がまず存在するのだ。そのうえで、自分に即した場所――職業や生き方――を選べ、と「神(=死)」は言う。そこから続く歌詞は、そうして生命を授かった人間の一生を簡潔にスケッチしている。
当て嵌めづらいであろう諸表現について述懐するならば……「穴を掘り続ける」とは「住居を求める行為」であり、「すぐに次の穴を掘り続ける」というのは、一箇所に鎮座ましましとしてはいけないということ。それより後など、非常にスリリングな展開なのだが、要は「どんなに調子よく物事が運んで何かのトップになって、人生うまくいったって、いつか死ぬ時ゃ死ぬんだぜ」という、シェイクスピアすら語ったという「死んでしまえば何もかも清算される」という、この世の儚さをひとことで体現したような意味合いを持つ。
つまりは、イントロダクション部分であるにもかかわらず、ここでは一生の縮図が描かれているのだ。なぜなら、この曲のタイトルを見ればいい。
「生命の息吹」
それこそ、我々人間が供給せざるを得ない「運命」というものの収束であるのだ。
それらを知っていながらも、生命を成就した「彼」は欲望渦巻く現実世界での生を歩み進んでいく。
走り回って〜タイム〜生命の息吹
人間としての生を授かった「彼」は、混沌渦巻く少年期を過ごすことになる。デジタリックな音が交差する「走り回って」である。
そこに登場するもので最もインパクトが強いのは、プロモーション・ビデオなどでもよく登場する「空飛ぶベッド」。実はこれには、少年期というものの抽象概念が現されているのだ。
皆さんは「ピーターパン症候群」という言葉をご存知だろうか?
大人になりたくない、ずっと子供のままでいたい、そう願うばかりに外の世界に対して出不精になり、やがては「引きこもり」となってしまう、一種の精神疾患である。
ベッドとは、それを如実に表している。眠りというものは、一箇所に留まらねば行えぬ行為だ。つまりは、自分の安定した地位や存在を壊してまでして、自らを高めることを少年は放棄してしまうのだ。「生命の息吹」にて「神というもの」から忠告された「己れを高みに上げ続けよ」との啓示は、反抗期さながらの頑固さでもって否定されようとする。
だが、引きこもってばかりではひとりで生きていけない。そこでベッドは、そこに横たわる少年の意志を無視して、部屋を離れていく。
どこへ向かって?
外の世界へ。
そうやって、半ば強引に「彼」は外の世界へ引き摺り出される。
そこで、ベルが鳴る。
突然の目醒め。
狂気の覚醒。
気付けば「彼」は、往々にして時間に悩まされている。眠り続けることも叶わず、目覚し時計の強引な悲鳴によって覚醒せざるを得ない。そしてそれは、同時に彼を現実へと引き戻すキィでもあった。
そうして気付けば、自分は気違いじみた働きようで時を浪費している。ずっと夢の世界へ引きこもっていたせいかちっぽけな土地からも出ようとせず、誰かが、自分を高みに押し上げてくれるのを待つばかり――まるで小説家になりたくとも毎日の暮らしに安住することばかり考えている作家気取りのように!――だが気付けば、既に10年以上の歳月が経ち、「彼」は大人として存在していた。自分の大望を抱えながらも、それをぶつける時期を見逃した空虚な大人として。
歌詞に表される「太陽」という名の大望は、もはや幾ら追っても追い付きはしない。延々と、追いかけっこを繰り返すばかりである。
そうして「彼」は、年輪を重ねていく。
そこでリプリーズされるのが「生命の息吹」だ。
曲の流れで言えば不自然ではないが、この曲がなぜこの場所に位置するのかを不思議がる者も多いだろう。それは、歌詞を「彼」本人にのみ限定して見詰めているからだ。
ここで「生命の息吹」を始めるのは、彼の子である。
その子を腕(かいな)に抱きて、彼は故郷にその姿を現す。まるで何もかもがうまく治まったかのように、暖炉のあたたかい熱に身を委ねながら……。
虚空のスキャット
この曲をどうとらえるかは、非常に難しい。
歌詞があればそれに則して考えることもできるし、インストゥルメンタルであれば、逆に自由な発想ができる。だがここには、悲痛な嘆きのような叫び声が延々とこだまするのだ。
筆者はこの曲を、最初のプロト・タイプである「暴力の情景(The
Violent Sequence)」や、本作製作前のタイトルであった「死の情景(The
Mortarity Sequence)」と結び付けて考えてみることにした。
「彼の物語」を続けるならば……「彼」は、暴力に満ちた人間と成り果て、やがて伴侶の死を迎える。これは母親であってもいい(但し「アス・アンド・ゼム」へのブリッジとして父であってはならない)。そうして強欲に耽る「マネー」に繋がるわけだが……これでは平々凡々とし過ぎている。
そこで今一度「普遍的狂気」に観点を戻してみるならば、この曲こそ「狂気」の瞬間をとらえた風景画、その音響化であるのだ。
そこには暴力もあれば、死もあるだろう。そして虚空に叫びたくなる時もあるだろう。そういったもの――「彼」に訪れる人間としての生をまっとうするための「試練」――は、しかし何事も知らん顔のままである時の流れ(穏やかなピアノやシンセの音)に流されていく。幾ら悲痛な叫びをあげたところで、誰も救いあげてくれはしない。それを知りつつも「彼」は絶叫する。
苦悶、
懊悩、
そういったものを凝縮しているのが、虚空にて歌われるスキャットであるのだ。空虚に満ちつつも偉大なる人生の名演、であるのだ。
そうして最後に、フェイド・アウトしていく音が乱れる部分がある。「音響派」に言わせれば「プレス違い」だの「ミックス違い」だのといった言葉で片付けられるのだろうが、筆者は、音の歪みが残ったものが現在の流通盤であることに着目した。
流麗に終わろうとするこの曲を最後の最後に歪めることで、「彼」の心境をうまく表現している。苦悩に満ち、懊悩に溺れたあげくナルシシズム(寧ろ悲劇的ヒロイズム)に陶酔した彼は、幻覚を覚えるのだ。精神が歪む瞬間、意識が曖昧になる瞬間を。
即ち、狂気を。
マネー
もはやノベルティ・ソング同然となったこの曲に関しては、その原因であるシングル・ヒットもあり、ごくごく解りやすい歌詞でまとめられている。要は、現実世界の実質上の支配者たる金を求めてやまない人々、それを「彼」に当て嵌めているだけのことだ。
だがここには、そのせいで却って見落としがちな「エゴイズム」が最も表出いている。目の前にある存在をそれと認められない人間が多くいるように、この歌詞については当然の如く無視されているのだ。
フレーズで言えば……
「俺は安全確実なファースト・クラスの客人」
「平等に分けようぜ、だけど俺の取り分には手をつけないでくれ」
実に、解りやすい。
ここにあるのは、純粋なエゴイズムだ。自分は幾ら金をはたいても安全な道を行く。自分の居心地のいい場所に安住し、危険など冒しやしない。そのうえ、その金は民主主義さながらに平等にしてほしがり、されど自分を優先にしてほしい、そういったエゴイズムの象徴――寧ろミーイズムに近い感もあるのかも知れない――が歌詞により具現化している。
そして、見落としがちな歌詞が続く。
「金、こいつこそ誰もが口にする通り、諸悪の根源なのさ」
それは既に、イントロダクション部分に鳴り響くレジ・キャッシュ音が、「彼」が生命を受ける前から雄弁に語っている。すべては、金で支配されているということを。
アス・アンド・ゼム
強欲にかまけた「彼」は、しかし、不意に切なさに襲われる。
父親が死んだのだ。
「将軍」と表される権力者により、その操り人形さながらに人生を流転してきた父親が。
まるで自分が特別であると思っていた「彼」は、唐突に自分がただのありふれた人間でしかないと気付かされる。そう、以前より抱いていた大望は、もはや若さにかまけて叶えられる望みすら失せてしまったのだ。
誰にでも訪れる、肉親の死。
それにより、前後不覚となった「彼」には、黒と青という、普段ならばごくごく簡素に見分けが付く色も、今の彼には識別できない。善悪も、生死も、そういった不断に見分けてきた筈のものごとさえも……黒い瞳の人間と、青い瞳の人間。その闘争の意味も、善悪の価値観も、すべてないまぜに。
父親の最後の言葉は、以下のものであった。
「我が息子よ、この戦いに加わって勇気と力を発揮したまえ」
戦いとは、人生そのものである。
父は、それに負けた自分を恥じていた。大望敗れた自らを、嘆いていた。そのうえで息子には自分の思い通りのことをしてほしいと願っていた。
だが、物事はうまくいかない。
人々は自らの地位を求め、安住すべく争いを続ける。パンひと切れのために戦い、死し、紅茶も口にできずに朽ちていく。
「彼」の父親も、同然であった。
望みの色を
父の死により、現実というものを叩きつけられた「彼」は、いよいよ狂気への扉を開こうとする。
混乱する精神、様々な音色がカオスの如く絡み合い、しかし奇妙に調和したままでいる。折り重なる現実への恐れ。
恐怖、
喜び、
欲望、
それらがすべて一様に「狂気」という名の風景として、彼にフィードバックしてくる。
「望みの色は何かね?」
そう問われても「彼」には、もはや黒と青の区別すらつかなかった。
狂人は心に
そうして、覚醒した狂気は本作の主題へと発展していく。
ここで復唱される“Lunatic”という単語については、長々と論じられてきた。英語で言う“Mad”に相当するだとか、「月」を意味するだとか。
だが私は、そういったことは逆にどうだっていいと思うのだ。なぜなら……
“Moon”は“Luna”であり、
“Luna”は“Lunatic”であり、
“Lunatic”は“Mad”である。
即ち、三段論法に則って考えるに“Moon”即ち“Mad”であり、ここに於ける“Mad”とは、タイトルの「狂気」を指し示すと共に「狂人」をも意味するのだ。これは論じるまでもなく、ごくごく当然のことであるからだ。
そこで広がる、狂人の心象風景。
野原に佇む狂人とは、無論「彼」のことである。だが気を付けねばならぬのは、これが「彼」の脳内に広がる風景であるということだ。即ち、「彼」は自分の中に別の自分を見出しているのだ。
別の自分、
いやに、引っ掛かる言葉だ。メイン・タイトルであり、この歌にて“Lunatic”よりも印象的に反復される言葉――“The
Dark Side Of The Moon”と相俟って。
次に浮かぶ「広間にいる狂人」は、「彼」現在の姿の縮小図である。広間は、どんな広さであれ、所詮一室でしかない。閉じこもった世界――「彼」自身だけの世界――には、無数の「彼」が存在する。
作家になりたかった「彼」、
音楽家になりたかった「彼」、
いずれにせよ、夢でしかなかった架空の「彼」、
それらは、日を追うごとに数を増していく。妄想ばかりが膨れていく中、外の世界でも、彼と同じような人間達が多く存在する。それは「新聞」という物質に抽象的に表現されていることだ。並びに「毎日それが増え続ける」のも、容易に読み取れるだろう。
思い返せば、度を越した欲望(ダム――水を雨水で供給できない人間の欲望)のせいで時間を浪費するばかりであった。とうとう住む場所(自分の存在すべき場所)も見付からぬまま、彼はある予感に気付く。
存在理由の皆無、
それは自らを、自らにより、破滅させるであろうこと!
彼が手にしたのは、カミソリ。
「何を血迷っている! 正気を取り戻さないか!」
そう己れに問いかける「彼」が言う自分というもの、それを取り戻すためには、己れ自身を破壊する必要があった。現存在として、この世に姿を晒している自分の殻を破り捨てて、存在そのものをえぐり出さねばならなかった――
とどろく雷鳴、
自らの存在理由の消失を嘆く叫び声、
不協和音のように噛み合うことなく巡り続ける走馬灯、その中に彼が見出したものは――
「狂気」という名の安楽であった。
狂気日食
さて、私はここで、この推論ともつかない愚論を、最も悲しい形でまとめなければならない。
この曲のタイトルになっている「狂気日食」とは、人間という生に対する「日食」である。夜が訪れる筈のない時間に、唐突に闇が訪れるのだ。
その意味は、無論――自殺。
それも、実に穏やかな自殺。
そう考えれば「虚空のスキャット」に於ける叫び声が、まるで実行前の自殺者が脳裏に思い浮かべる心象風景さながらの悲痛さで迫ってくるのも当然であろう。「望みの色を」と問われた「彼」が、困惑せざるを得ないほど追い詰められていたことにも頷ける。
しかし幸いというか当然ながら、「日食」というものは一時的な現象である。されど「彼」が自らの生を絶ち、世を去ったのは事実である。
だが、お忘れだろうか。
彼が残した、反復する「生命の息吹」に。
それは彼の遺伝子がまだ息衝いているという事実でもあり、また、さらなる悲劇の始まりでもあった。
なぜだか、解るかな?
そう、「彼」の心臓音が薄れていったのち、新たに始まる鼓動は彼の子のそれであり、また似たような人生が始まってしまうのだ。喩え「彼」の子でなく、他の人間、殊に「彼」の生まれ変わりである誰かであろうとも、輪転する生命というもの、その中に於ける人間存在というものはすべて「狂気」を体験して生きていくのだ。
本作は、その全体図を縮小し、抽象化したものである。
すべては、人間が成すものすべては――太陽という「神」のもと、いや「運命」であれ「逃れられない何か」であれ、喩え「死」であれども――さだめられているにもかかわらず、調和だけは保ったままでいる。輪転し、狂気の中に生まれ、狂気の中に生き、狂気の中に死んでいくのにもかかわらず。
そうしてその太陽も、やがては「別の何か」に浸蝕されていく。
生命体すべてが迎える「死というもの」に――
おわりに
大概の読者は、こう思ったことだろう。
「それでは“The Dark Side Of The Moon”の意味とは?」
筆者は述べた筈だ。“Moon”とは即ち「狂人」であることを。
そのうえで「狂人の暗い側」と言い換えてみるといい。
それが何であるのか、それを敢えて表すような、イメージの限定を筆者は行わないことにする。但し、容易に考えるならば、ふたつの仮説を用意しよう。
ひとつは、楽観的なもの。
ひとつは、悲観的なもの。
その「望みの色を」選ぶといい。
だが筆者は、そのふたつのどれかであるとは思わない。
どう仮定したところで、言い詰めれば、結局のところ「狂気」という言葉に集約されるのだから!
なお、本文に登場する「彼」とは、飽くまで抽象であり、具象ではない。
物語風味が加味されていることも、同然である。
それを具象としてとらえず、抽象でとらえよ、というのが本論の本意となろう。
おおっと、ひとつ言及し忘れていたことがある。
それは最後に語られる「月に暗い面なんてないさ、もともと真っ黒なんだから」という言葉を。
解るかね? 狂人にも暗い側なんてないんだよ。
つまりこの論文も、存在しないも同然ということ!
最後の最後に流される「涙の乗車券」のストリングスのように、一種のジョークとでも思ってもらえればいいさ!