なぜ私はelementsを好むのか?

〜何よりも「可能性」の集合体であること〜

 読者や、近隣者は思っている筈だ。なぜ筆者である私が、こんなにもelementsに肩入れするのか?
 それをここに記した方が、彼らの音楽を知るより早く合点がいくかと思い、筆を執ることにする。時には純粋にリスナーとしての立場から訴えた方が伝わるものもあるのだから。

 私とelementsの出会いは早くはなく、2001年発表作『BEAT-ITUDE(ビアティテュード)』だった。
 そこでの試聴から「惚れ買い」し、しかし当初は自分の好きなジョン・ウェットンというヴォーカリストにmaxの声が似ているという印象から入った不届き者でもあった。しかし購入後、冒頭に聴かれる叙情だけではなく、ところどころにクラブ・ミュージックの片鱗を感じさせるのも興味深く――かねてより、私は新世紀型キング・クリムゾンが行っていた「人力クラブ・ミュージック」に興味を示しており、他にも人力ハウス・ミュージックを聴いて感嘆したこともしばしばあった――いつしか繰り返して聴いている自分に気付いた。
 それほど繰り返して聴いたのには、興味が惹起された楽曲自体よりも、中心人物maxによるヴォーカリゼイションに要因がある。彼は「詩人」と称されるだけあって、単純に作詞したものを歌うだけではなく、数曲では完全な朗読を行っていた。当時、強く関与する他のバンドで自作詩の朗読を(それも公衆の面前で)披露したこともある私は、早く言えばそこで彼に感情移入してしまったというわけだ。
 ただ、同じく朗読が多い作品でも、『BEAT-ITUDE』ではなくその前作『singular sky』を初めに耳にしたのであれば、私は彼らにそれほど興味を持たなかっただろう。なぜならそちらは実験色の強い作品のため当時の私の嗜好とは噛み合いそうになく、たまたま嗜好と強くフィットし、しかもバンド原点回帰の傑作と言える『BEAT-ITUDE』を選んでいたことに、私の幸運はある。声色が好きなヴォーカリストに似ているだとか、朗読する詩人に感情移入だとかというのは、その幸運に付随した要因のひとつひとつだったわけだ。
 そこからさかのぼって『singular sky』を購入、そのクラブ志向が強く出まくったサウンドを聴き、叙情が強く出ていた『BEAT-ITUDE』との違和感にしばし苦しむことになる。このバンドは、一体どういうバンドなのか? と。
 とりあえず、追ってみるには面白そうだ。私の音楽的な勘は、そう訴えていた。

 そうして「とりあえず」の気分で観てみたライヴで、私は驚きを禁じ得なかった。
 何せ2作しか持っていないので知らない曲ばかりだったのだが、そこで演奏された「“i”」の記憶が、未だに鮮烈に残っている。クラブ・ミュージック志向だった『singular sky』では淡々とした朗読だったそれが、ロック的に昇華され、非常に動的になっているのだ。『BEAT-ITUDE』の曲を聴きに行った筈が、違う局面でノック・アウトされてしまった。人力クラブ・ミュージックもチマチマしたスタジオ作業と違い、非常に動的に、ロック的に、ライヴ映えして訴えかける。スタジオではアレンジ主体のため、コンパクトにまとまっていたのだろう全員の演奏力も、実は並じゃないことが痛感された。丁度アコースティック・ギター+アコーディオンのみで「歌心」を問うtRace elementsの誕生や、ナスノミツルがアレンジ主体の音楽に疑念を抱いて即興音楽集団A.S.E.(Alternate Symphonic Elements、後にAlternate Symphonyに改名)を発足する寸前だったらしく、バンドはスタジオ再現に終始するのではなく、ライヴ独自のインスト性を強めている最中だった。これまた幸運な時の演奏を、私は観ることができたわけだ。
 会場でのみ買える過去作から、またもさかのぼって『another day, another year』と『SANS PATRiE』を購入、そこにある放浪癖丸出しのサウンドにまたも首をひねってしまったのは言うまでもない。だから、このバンドは一体何ができて、何を目指しているのだろう? と。また、そこでも売っておらず、公式サイトのディスコグラフィに載っているだけの『freedom captured』がどんなものなのかはまだ夢想するしかなかった。

 そこでelementsとしての活動はスケジュールの都合などから休止に入り、tRace elementsとA.S.E.によるライヴを観ることになる。発動しただけで作品を発表していないこの「バンド内別ユニット」がどんなものであるのか見当さえつかなかったが、前者は「歌モノ」、後者は「演奏モノ」という命題をして、武者修行さながらにそれぞれの側面を強化したものだった。やや、彼らはスタジオ作ありきのバンドではないのだな、と私はようやくにして気付いた。最小限編成にして最大限表現を目指すtRace elementsと、即興演奏主体のため毎回異なる演奏を見せるA.S.E.といったように、編成や場所次第でまったく違う魅力を放つことが可能なのだと。そこからメンバーとも会話させて頂くようになり、その音楽的にも人間的にも深い懐具合を窺い知ることにもなる。
 やがて、ようやくにして全国流通再販売となった『freedom re captured』を聴き、やっとelementsの全体像が見えてきた。原点であるそこにあるのは、様々な音楽要素を詰め込んだ、しかしmaxのルーツであるアイリッシュな雰囲気で統一された響き。その都度異なるコンセプトを提示していったのは、そこに込められた要素を部分部分カット・アップし、拡大していった産物だったのだと。だからこそ『SANS PATRiE』はジプシー的な部分が強く見え、『singular sky』はリズムと雰囲気主体に響き、そして『BEAT-ITUDE』はそれらの統合+原点回帰さながらの叙情風味が味わえる、といったように。またまた幸運なことに、当時の最新作『BEAT-ITUDE』からデビュー作『freedom captured』まで、丁度順番にさかのぼる形になったリスニング形態が功を奏したと言える。ひとつの完成形から次第にルーツを追う形になったそれが、私に逆算的ながら順当な理解を与えてくれたわけだ。
 そうして再集結したelementsは、間違いなくエキサイティングなステージを披露、もはや貫禄に満ちていた。tRace elementsの「全国行脚」で磨かれた歌はmaxの感情をよく含むようになったし、A.S.E.で鍛えられた演奏力はインスト部分に即興要素を多く盛り込むといった形で結実した。
 固体でも、組み合わせでも、全員の集結でもお互いの個性を尊重し、また高め合える。そんな5人が集まったのが、elementsであったのだ。

 このように、elementsには多くの「可能性」が含まれている。だからこそ各人の個性の強弱などにより作品ごとにまったく違った顔を見せるし、個性がぶつかり合うライヴはまた別のものになっている。全員での活動が難なら、メンバーの組み合わせで別のプロジェクトも発足できる。何と多くの可能性を含んだバンドであるのか!
 そうしたバンドを、メンバーを、今後リアル・タイムで追っていけるというのは、非常に幸運なことだと思う。
 というわけで、私はelementsとそのメンバーが内包する「多大なる可能性」を何より評価しているというわけだ。同じビートで同じような歌詞や曲を繰り返すヒット・ソングの横行はいつの時代でも飽くことはないが、そんな中、違う側面を多く持ちながら使い分けられるバンドは多くない。だから人によって好みがバッサリ分かれる作品もあるし、全作品が好みという人は少ない筈だ。「この人がやれば何でも好きっ!」といった盲信じゃなく、その度ごとの世界観を提示してくれるので、リスナーも好みに応じて取捨選択できる。
 すべては「自由」なのだ。
 ということを、elementsとmaxはデビュー作『freedom captured』から訴え続け、体現している。自由な音楽性や諸活動と組み合わせながら。

 どう? 聴いてみたくなってきた?
 それじゃあ私の拙い作品解説でも読んで、興味の湧いたものをまず聴いてみてほしい。そこにある「可能性」を感じ取ったら、他の作品も聴いてみよう。