3.キング・クリムゾン日本公演並びに
『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』
〜King Crimson Live In Japan At Shibuya-Koukaidou
In 7th,Oct,2000〜
〜the construKction of light〜

キング・クリムゾン。
その名前を聞いてあなたは、どんな音楽を想像するだろう?
叙情溢れる悲しげなメロトロン? ディストーション・ギターが作る一触即発のインプロヴィゼイション? まさかニュー・ウェイヴを意識したタイトなリズム?……
それらはすべて、過去の遺物でしかない。
そのことを証明するライヴが、そこにはあった。
会場は、既に満員。
ツアー・グッズも飛ぶように売れているが、そこで売られる「21馬鹿」Tシャツが大人気なことと、「ビート」Tシャツが不評なことに不満を感じてしまう。その双方を買っていく「太陽と戦慄」Tシャツを着た青年。そのシャツを着て、現在のクリムゾンを鑑賞することがどんな意味のある行為であるかも知らずに。
ステージは、実にシンプルに、コンパクトにまとまっている。『スラック』クリムゾンの大掛かりな(ドラムが2台であったことが主な原因か)セットから比べると、まるで場末のバンドと思われても仕方がないぐらい、すっきりしたセットだ。よく見ればスツールが一脚、立てられている。もはやその意味するところは説明不要であろう。
ステージ後方に、対になるように設置されたライトが鈍く光っている。ステージ中央、上方には横に長い長方形の真っ白な垂れ幕。それらが開演前からして、期待をそそる。「何かしてくれる筈だ」と思わざるを得ない。
「ただいまより、キング・クリムゾン・コンサートを開始いたします」
アナウンスが響き、場内の照明が消えていく。客のどよめきも次第に静まり始める。
静寂。
それは4人の影の登場と共に、喧騒と拍手の波に変わった。
「クリムゾーン!」
「フリーップ!」
そんな声援を耳に入れる様子もなく、楽器を構えるメンバー達。暗闇を鈍く切る眼鏡の光が、スツールに腰掛けた。
1.赤い光
再びの静寂。
ドラム・スティックのカウントが始まり――ふたつのライトが、ディストーション・ギターの響きと共に強烈な赤い光線を発した。
「レッド」である。
未だ多き70'sクリムゾン信者へのオマージュでもあるかのように、彼ら――ロバート・フリップ、エイドリアン・ブリュー、トレイ・ガン、パット・マステロット――はその曲を、軽々と演奏していた。場内が一斉に色めき立つ。しかし私は、拍手をしながらも胸騒ぎがしてならなかった。
「1曲目にこの曲を配置されたということは、ひょっとして、クリムゾンに馬鹿にされているのではないか?」
それは80年代以降のクリムゾンを聴き込んだ者でないと持ち得ない、独特の緊張感である。「レッド」自体が持つ緊張感もあるが、それに相乗効果をかけるように、80'sクリムゾンへの大批判、昔の曲を求めるファン達、既に自分達の音楽表現とは異なるそれを演奏することをよしとしたクリムゾン……複雑な心持ちであった。素直に、曲だけを純粋に楽しむことが、私はできなくなっていた。
まるで、盛り上がる観客を嘲弄するかのように、たやすく再現される「レッド」。
妖しく光るレッド・ランプ。
胸騒ぎは収まらなかったが、日本人が特に好むこの曲を冒頭に持ってきたのは、ある意味正解だったのだろう。
私は、自分の涙腺が早くも緩み始めるのが解った。クリムゾン信者であるがゆえの感動ではなく、胸に秘めた葛藤が、私をそうさせたのだ。どうしてこの曲を演るんだい、私はそう、言いたかった。もしこれがファン・サービスのつもりだったら、そんなことはせず、自分達の本当に演りたい曲だけでいいんだよ。
だが観客は、がぜん盛り上がっている。それはそれでいいことだ。その時その時が楽しめれば、いいのだろうから……。
2.枠に枠付けされた存在
続く曲は、くだんの80'sクリムゾンの「フレイム・バイ・フレイム」だった。
歓声が、さきほどより弱まっているのが解る。中には、露骨に顔を歪めて拍手をやめる者もいた。
しかしその、ブリューの乾いた歌声に、決してリードを取ることなく一定の旋律ばかりを繰り返し演奏するフリップに――ちょうど『ディシプリン』の考察を書いたばかりであった私は、非常な哀しみを覚えた。
「枠に枠付けされた存在」
自らに戒律を施すクリムゾンが、未だそこに存在した。波が起こってばかりの音楽業界にて生き残るため、そして音楽表現を追及するため。その姿勢に、私の涙腺は早くも堪えきれなくなった。まるでクリムゾンが、そんな自分達を自嘲するかのように思えてしまったのだ。
3.光の再構築
突然、曲調が変わる。
まるでProjeKctシリーズのような、人力テクノさながらのクラブ音楽。フリップの無表情な旋律に対し、幾分情熱が込められていた筈のブリューのギターすらも、冷たい響きに変わる。
お気付きだろうか?
70年代の曲から、最近の曲へと進んでいるこの流れに。
場内は、沈黙している。その沈黙を破るように――歌パートに突入する「ザ・コンストラクション・オブ・ライト」。「ザ・トーキング・ドラム〜太陽と旋律
パートII」にあったカタルシスの爆発は、形を変えつつもここに残っているではないか。
真っ白の垂れ幕に、光の格子模様が浮かびあがる。
三角形のような形をしたその光線は左右一対のシンメトリー状に構成され、垂れ幕を交差しては、そこから飛び出し、会場をぐるりと一周して戻ってくる――まるでクリムゾン自体のように!
垂れ幕は、平衡状態を表していた。そこにいる間は、光は注目を浴びる。一本一本が構築作業を行うことができる。だが光は平衡を飛び出し、脱構築をはかる。不遇の暗闇を駆け抜け、やがてはまた、再構築すべく垂れ幕に戻る。
コンストラクションを越え、ディ・コンストラクションを経過し、やがてはリ・コンストラクションへと辿り着くのだ。
4.フライパンの中へ
さて、私がその日、ライヴ開始までずっと耳に着いて離れない曲があった。
会場へ向かう際も、ライヴ直前も、ともすると、ライヴ開始後もしばらく脳にこびりつくようにして響いていたリズムと旋律。そして乾いた声。
それが、次の「イントゥ・ザ・フライング・パン」であった。
クリムゾンは、個人個人自らを材料として、キング・クリムゾンというフライパンの中で調理されていた。いや、自分自身を調理していた。時にはドロドロに溶かしきった筈のヒバリの舌や魚のゼリーを持ち出しても。
聴き慣れたフレーズが、調味料となって曲を構成する。
私の脳内のカセットテープは、ここへきて、ようやく空回りをやめた。演奏と私の脳の波長とが、一致したがためだ。まるで魂が抜けるように、するっと、しかし快適な狭苦しさでもって、私は微笑みを漏らした。パット・マステロットのドラミングが、まるでビル・ブラッフォードを必要としないかのように慌しく、しかし的確に響いていた。
5.突破口の先に
冷ややかな響きの後に、短く、延々と繰り返されるフレーズ。
まさしくミニマル・ミュージックと過去の名曲の合流である「フラクチャード」が、静かに始まった。
フリップの指は、止まらない。これが彼らが「成功することは滅多にない」と恐れていた無表情な旋律である。現に、この日のライヴでも多少だが、弾き始めに引っ掛かる部分が見受けられた。フリップ自身が語っていた「ライヴ中の音量調節は不可能」ということでさえも、気付かせてくれる曲だ。
曲が熱を帯び、観客がざわめく。
「突破口(フラクチャー)」の続編ということで批判を浴びた曲ではあったが、やはり駄曲などではない。観客のさわめきがそれを示唆しているではないか。
出口のない突破口、
それを彼らは、突破していたのだ。突破口の先には融合があり、そして脱構築に次ぐ再構築があったのだ。
6.天と地の狭間に〜占拠
次なる曲は、インストゥルメンタルだった。
正直私は、この曲が何という曲であるのか、判断が付かなかった。恐らくは……プロジェクトXによる「ヘヴン・アンド・アース」であったのだろうか? “Seizure”というアルバム未収録曲だという説もあるが……?
だが、何であろう? この高揚感は。まるで修行僧か何かのように自戒を施して、それを逆に喜びとするかのような愉悦がある。天と地の狭間に生きる苦難を乗り越えた響きが。
静まる場内。
それは修行を自ら楽しみ、曲に聴き入っていたのだろうか。それとも、次なる快楽(けらく)ばかりを待ち、まるでつまらない修行に耐えていたのだろうか。
その観客を眺める彼らは、その空間を占拠していた。天と地の狭間を。そこに生きる人間達を。しっかりと掌握していた。
7.ある一時に
ここへきてようやく、前作『スラック』からの曲が始まる。「ワン・タイム」だ。
ある一時を境に、クリムゾンは批判を重ねるようになった。そして過去ばかりを賞賛されるようになった――エイドリアン・ブリューの加入以来である。
その声がいかなる曲にもそぐわない、アメリカ人特有の意味もない明るさだと指摘されていたが、アメリカには常に陰湿なイギリスと違い、乾いた大地がある。それを象徴するかのような、ブリューの声。それが最も活かされたのが、この曲であった。
無表情な響きが、楽曲を構成する。それは無表情というより、悲しみをこらえた表情だった。トレイ・ガンの卓越したプレイも、ここでは悲しげに響き渡る。
しかしこの曲は、ブリューなくしては存在すらしない。
8.ドロドロのスープと化した4本のヒバリの舌
乾いた空気に、雷鳴が轟く。
砂漠の雨、もしくは嵐。突然の台風。
「太陽と戦慄 パートIV」である。
かの名曲の名を引き継いだこの曲でも、フリップは旋律ばかりを弾いていた。中間部の「妖精の指フレーズ」などは、その旋律の枠を飛び出し、旋律を奏でつつもリードに移るという恐ろしく高度な芸当である。そこへもうひとつのギターが絡まり、音響はさらなる複雑化を遂げる。ドラムは屋台骨を支えるようでいて、まるで違うリズムにも聴こえる。スティック・ベースは様々に姿を変え、情景を醸し出していく。
4つのヒバリの舌が、ドロドロに溶け合ってひとつになっていた。
そしてそのまま、太陽は、悲しみを白日のもとに晒す――
9.夢追い人
旋律が織り成す戦慄が、終結の時を迎える。
そして最終楽章「アイ・ハヴ・ア・ドリーム」が冷たく、しかし激情を受け継いだまま響く。
紡ぎ出される悲しみを抽象化した言葉達。ケネディの悲劇、ヒロシマの写真……私はそこに、全世界の悲しみを抽象化したその語群に、溢れる涙を抑えられずにいた。周囲は、ただその曲に酔っている。誰も気付いていないのだろうか? この曲が訴える哀しみの塊に。
いや、そうではなかった。
ふと見やると、観客席にも目頭を抑えたり、ハンカチを手に持つ者がいた。私だけではないのだ。この曲に、世界の悲しみを、破れた夢を、その儚さを感じる人間は。
「私には夢がある! いつの日にか……」
そして曲は、無情にも終わりを告げる。いや、「無常」にも――夢追い人は、夢を追い続けることしか許されないのだ。
10.鳥籠
場内の喧騒が治まらぬうち、アコースティック・ギターによる耳慣れない曲が始まる。
それは「ケイジ」という曲ではあったのだが、テンポがまるで変わり、2倍近く緩められたスピードでのアコースティック・プレイにアレンジされていた。ブリューとフリップがギターのかけ合いをする。心なしか、ふたりに笑顔が浮かんでいるように見える。一方のマステロットとガンも自分の力を「どうだ!」と見せ合うように、まるで観客を意識せず、お互いにプレイし合っている。
観客を意識せず、
そうとも、彼らは音楽追求集団であるのだ。だからこそこの曲はアコースティック・アレンジになり、彼らは、自分達のプレイをお互いに見せ合った。その姿勢こそ、前進ではないのか。観客に媚びることなく、自らの音楽を高め合う。この姿勢こそ、言い古されている「プログレッシヴ」の基本ではないのか。
そんな感慨もなく、客の大半はつまらなそうな顔をしていた。ついさきほどまで躰を揺らしていた右隣りの男も、腕を組んでじっとしていた。
鳥籠に絡められたのは、クリムゾンではなく、観客であった。
11.無駄話
そんなくだらない考察も、次の曲の前では吹き飛んでしまう。
すべての曲解は「エレファント・トーク」と化すのだ。
例の「象の鳴き声ギター」は音量が下げ気味である。所詮それは、ギミックでしかない。曲の根幹を成すものではないのだから。
ここまでくると、クリムゾンはもはやプレイを楽しんでいるように見えた。幾ら批判されようと、この曲を演り続ける。世間にはびこる「別時代のクリムゾン至上主義者」が殲滅するその日まで、彼らはこの曲の演奏をやめないだろう。
12.エンジン始動
そして、本当の「太陽と戦慄 パートIV」が完成した今、もはや演奏されまいとの見解すらあった、その仮題を与えられた「ヴルーム」が今さらながら始まる。
エンジン音は、ようやく始動を示した。
今までの楽曲は、これからのキング・クリムゾンを構成するためのパーツであったのだ。それらが集まり、エンジンの音が“Vrooom”と響き出す。
次なる舞台に向かって、彼らは、モーターを回し、そしてステージから消えていった。
盛大なる拍手。
しかしその殆どが、慣習によるものだった。再演を心より待つ観客は、恐らくほんのひと握りであろう。この隙を利用してトイレや個人会合、会話を済ませる人間が実に多かった。その事実が、私にふとした嫌悪感をもたらした。
アンコールがあって当然、と思っていやがる。
私は、クリムゾンに再登場してもらいたい感情と、出てきてほしくない理性とが拮抗しているのが解った。会場の拍手は、再登場を願っている。このまま終わってしまえばいい、と思ったのは私だけだったのかも知れない。
なぜなら、彼らは3人組になって、再びその姿を現したのだから!
Encore1.ツグミの声が欺く
そこにいたのは、フリップ、ガン、マステロットの3人による「projeKct
3」だった。
そしてそのユニットの代表曲にして、ProjeKctシリーズの大収穫とも言える「ディセプション・オブ・ザ・スラッシュ」が、今まで以上に無表情な音を紡ぎ始める。
音の断片でしかないものが、集まれば音楽となる。
それを見事に体現したのが、この曲ではなかったのか。まるで「構築する以前に成立してしまっている」楽曲というものを欺くように、この曲は楽曲という概念を打ち砕くことから始まっている。初めて聴く人間には、ただのドラムと、ベースと、機械的な声が始まったとしか思えないことだろう。
ProjeKctシリーズの結果は、そこにあるのではないか?
楽曲を「構成(construct)」する「光(light=ここでは音)」の群れ。
それを組み合わせ、今のクリムゾンは楽曲というものを、または自分自身というものを存在させているのだ。それはさながら――『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』のCD盤面にある――天体が、星という小さな存在の集合であるかのように!
やがてマステロットが持つ鈴のような音を鳴らす棒状の楽器により、楽曲は波が引くように終わりを告げた。彼ら自身も、波が引くようにして自然に去っていく。ツグミが鳴くのをやめるかのように、静かに、飽くまで自然に、それは飛び去っていこうとする。
だが観客は、その波が今一度満ちるのを待っていた。ツグミのさらなるさえずりを待ちわびていた。私自身も、このまま波とさえずりとが消えて失くなるのは淋し過ぎると感じていた。
Encore2.牡蠣汁博物館
そして、またも彼らはステージに現れる。今度はブリューを伴って、である。
奇妙なテンポと雰囲気を持つ曲、最新作『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』の中でもひときわ異彩を放っていた「ザ・ワールズ・マイ・オイスター・スープ・キッチン・フロア・ワックス・ミュージアム」の登場である。
もはや私は、クリムゾンに弄ばれている気分だった。そしてそれすらも、楽しんでいた。牡蠣の汁は、会場に満ちている。それをすくい上げれば、博物館のひとつでもできあがるだろう。熱いカキ・スープのできあがりだ!
こうして我々は、キング・クリムゾンというフライパンの上で、ヒバリの舌ばかり追い求める悪習が祟って、見事に調理されてしまったわけだ! 傑作だね。誰もが、自分が料理されたということに気付いてもいないのだろうけど……いつの間にか立ち上がって拍手喝采をしていた私も含めて!
失望と終結
そして愉悦に満ちた表情で、彼らは去っていった。飽くまで辞儀をしない、媚びないフリップと共に。
観客の誰もが、またすぐに姿を現すだろうと思っていた。そう、以前は演奏したというアコースティック・アレンジが施されたという「スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー」は「ケイジ」に取って代わったのでともかくとして、世間で噂されていたデヴィッド・ボウイの「ヒーローズ」や、さらには最新作の冒頭曲である「プロザック・ブルース」を演奏する筈だと、それが当然であると、いつの間にか勘違いしていたから。
その勘違いが甚だしい人間が、ひとりいた。
「ボブ!」
2階から、その呼び声がかかった。
フリップを示すその言葉に、私は背筋が凍った。
何という無礼者だ! 「太陽と戦慄」のTシャツを着ることよりも、数段に失礼極まる行為ではないか! それは芸能人を観客が本名で呼ぶことのように、親密さを一方的に醸し出す身勝手な行為である。それは親密さというより、自分の知識を見せびらかしたい心理に近いのだろう。呼ばれた本人にとっては「なぜおまえが私のことをそう呼べるんだ? おまえは私を知っているかも知れないが、私はおまえのことなど何も知りやしない!」といった心境だろう。
そうして、彼らは、姿を現さなくなった。
会場に、早々たる退場を促すアナウンスが響く。会場の全員は、まるで諦めるかのようにしてその場を去っていく。私はしばし、呆然と立ち尽くしていた。
今までの高揚感が、急激に引いていくのが解った。
原因は明白だ。「ボブ!」と叫んだ、勘違い男にすべて起因する。
もしこのライヴ・リポートを読んだあなたが、その勘違い男だった場合を考え、ここに言葉を残そう。
このリポートは、きちんと、光の再構築を成功させたクリムゾンを喝采して終わらせる予定だった。しかし、それが脆くも崩れてしまった。なぜか? 光の構築を行うための材料、光が、欠けていたためだ。
なぜそれが不足していたのか?
それは、あなたに原因がないとも言えないのだよ。
ブリューの咽喉の調子がどうのこうのとやかましく弁解する以前に、失礼極まるあなたの態度が。
最後に――『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』のブックレットや、会場にて購入できたパンフレットをご覧頂きたい。そこには、このページの末尾にある、VUメーターが映っている筈だ。
そのメーターは、どこに針が置かれている?
かつては針が振り切られていた『レッド』のそれと比較してごらん。零下に冷え込むような無感情を取り繕った旋律、それを自戒として施すロバート・フリップ(パンフレットでは、冷え切ったメーター写真は彼の名前のすぐ脇に掲載されていた)。その苦しみが解るかね? 最小限フレーズの反復というものが、感情を殺さねばできない行為だということが。
それを理解できない「ボブ!」という発言は、彼らのメーターがレッド・ゾーンにあると勘違いし、行われてしまったのではないだろうか。無礼講という便利な札を貼った、その場の勢いで……。


突破口の先には、何があるのだろうか?
本当に、光の再構築があったのだろうか?
すべては、打破の欺きにより、波のように消え去ってしまった――
関連別項1:『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』アルバム評