『人間失格』メディア・ミックス評
〜日本一愛される小説の「映像」化を中心に〜(2011/06/12)
海外文学に対し、総じて「暗く重い」のが、近代日本文学の特徴。それはテーマよりも心理描写など、「こころの闇」を描くことが多いのが、傾向として顕著だろう。現在はずいぶんと欧米化がすすみ、まるでペーパーバック同然の軽い小説ばかりを「文芸」とくくるようになってしまったが。
そうした気質を持ち、そうしたものをあらわした文学を好む日本人が、なかでもとくに好む名作といえば、間違いなく『人間失格』だろう。
太宰治の代表作にして、実質的な最終作(その後の『グッド・バイ』は中絶)である本作は、なにより「太宰自身をベースに描かれた私小説」であるとされ、そのため生々しさが段違いだ。決して完全なる私小説ではないのだが、そこへフィクションをまじえて純然たる作品へ昇華する「私小説的スタンス」の開祖ともいえる。
しかしこの作品一本のおかげで、「太宰=人間失格=生まれてきてすみません」というイメージが定着してしまった。そのため太宰の、ユーモアやペーソスあふれる他作品はまるで評価されず、むしろミュージシャンの音楽性をあらわす代表的アルバムのように「これさえ目を通しておけばいいでしょ」という、教科書的な存在になってしまった。私小説的ながら、作者たる太宰自身を「偶像として」萌えるようにキャラクター化、そうして作品性をまじえて自虐的に笑いの種にする。みずから自分を精神的に追い込むもとになる。そんな作品と、作者になってしまった。
そんな評価のされ方が変わってきたのは、2009年の「太宰治生誕100周年」あたりだろうか。
文庫は軒並み新装カヴァーになり、映画化もされ、続々とコミック化もされる。直接的な関係はなくとも、誰が読んでも「太宰的/人間失格的」キャラクターが活躍する作品も多く出てきた。
私の好む現代の書き手でも、川上未映子は太宰治を信奉し、森見登美彦は太宰のユーモア短編集を編纂した。とくに森見は、得意あるいは基本とする「文学パロディ文体」が太宰の影響下にあるのはあきらかだろう。川上はむしろ精神的・感性的な部分に甚大なる影響を受けているようにみえる。文学にとどまらず「日本の表現者」には、太宰あるいは『人間失格』の影響を受けた人物や表現が、どのぐらいあるのか知れたものではない。
ここではそうして、さまざまな表現メディアに生まれ変わった『人間失格』を、いちいちすべて見ては読んではしてしまった私の、持論と偏見と愛情による、各作品レヴューを記していく。原作をあまりに好きすぎて盲目にならぬよう、視点や記述は客観性と原作を尊重したつもりだが、完全にはそうなれないのが作品の性質でもあるので、それはお目こぼしいただきたい。
そして先に、「どうしても原作は越えられない」ことを、まとめとして宣言しておく。
【実写映画版『人間失格』】/生田斗真主演・荒戸源次郎監督(角川映画)

これはまぎれもない「凡作」だ。
失敗作ではない。ただ「平凡な、あまりに平凡なドラマ」に仕上がってしまっている。
主演の生田斗真に罪はない。むしろ大庭葉蔵というキャラクターについての雰囲気は合うし、好演している。問題は、心理描写をまるぎり切り棄てた脚本と、それをもとにメガホンを構えた監督の采配にある。
大庭葉蔵の独白めいた原作の、最大の肝が心理状態にこそあるのは、一度は読んだことのあるいかなる読者にも明白だろう。あえてそれを削るなら、演技やシナリオ、構成でどう醸し出すかが重要になるのは自明の理。
しかし本作では、それを省いたままぼやかし、生田の演技と外観、つまり「大庭葉蔵的雰囲気」で体よくごまかそうとしている。やるだけやったからあとは汲み取ってくれ、さあ生田くん頼んだよ、と投げ出している。
逆に「ただいっさいは、過ぎてゆきます」と投げ出す、唐突に中絶めいて断ち切ることで成り立っていたラスト・シーンに、無粋な後日談的描写を冗長に盛り込み、いっさいの虚無感を払拭してしまった。まったく救いのない虚無の闇に堕ちていく、もっとも重要かつ作品の本質的な部分が、まるで大団円のような描写になり、最後は母の愛で平凡に救われるかたちになってしまった。
差異はもちろんのこと、原作にない要素も多い。だがそれら多くは空振りのままだ。とくに中原中也をせっかく登場させたのに、中也より健全に長生きしている森田剛の平凡な演技と不要同然の扱いにより、それも無駄に終わった。おそらく同じ破滅型ながら大きく異なるふたりを対比させたいとの狙いがあったのだろうが、単なるジャニーズ枠アイドル共演の空振りに終わっている。井伏鱒二や菊地寛も登場するが、のちの堀木と芸術論をかわす場面さえカットされているのだから有名役者でもない彼らの存在感は皆無。ただ時代性と背景を醸すためだけに配置されている。そんな「無駄な雰囲気作り」が多い。
そういったすべては、重要な部分こそを削いでいる、まるで核のないシナリオに起因している。自殺に至る病的心理も、小さな幸せを恐れて逃げ出す過程も、つましい結婚へのステップも、それらの崩壊にかんすることがらも、要因たる葉蔵自身についても……すべてが「存在しない」。まるで好都合な自堕落青年のドラマに仕上がっている。それでいて不要なオリジナル要素が含まれているという矛盾。
久々に「原作レイプ」という言葉が浮かんだ。相手の意を介さないセックスこそが、レイプの本質だ。みずからの欲望「だけ」を満足させる衝動が、あらゆるレイプの根源だ。
だから本作は、監督の自慰で終わればよかったはずの欲望に、全員が加担した「集団レイプ」。太宰の意見を聞けるはずがないので、勝手な意思解釈のもとで和姦に仕立てた合法的集団強姦。原作を愛する人ほど、声高らかにその罪を叫びたくなるだろう。
それでも作品としての完成度が高ければ、問題はないはずだ。しかし本作はそれもお世辞にも高いと言えそうにない。それでも本作が和姦たりえたのは、そこそこの商業収入が得られたからだ。ジャニーズJr.の期待株、生田斗真主演という大きな武器でもって。
だからこそ繰り返すが、生田には罪はない。期待された「大庭葉蔵的雰囲気」は実によく醸し出している。しかし映画じたいがそればかりに頼り、いっさいの魅力が生田だけに始終してしまっている。映画自体さえも「雰囲気作り」に始終してしまった。
そこには「黒」がない。まるで灰色。むしろ白でさえある。
それすなわち、もはや『人間失格』ではない。戸川純の歌のタイトルではないが、まるで「人間合格」ではないか。
葉蔵のお道化なければ生きていけない描写も不足し、彼が竹一を馬鹿にしているようにも見えず、ヒラメの父親との裏取引もなく、堀木の友情と裏返しの薄汚さもなく、最後など廃人になってから復活するも同然の描写。葉蔵を取り巻く女性もそれが中軸たる原作からすると問題ばかり。ツネ子(常子:映画ではほぼ全員に漢字があてられている)は死にたくなるほど苦悩しているように見えず、シズ子(静子)は孤独など感じないようなやり手で、シゲ子も幸せの絵から家を出なくてはならなくなるほどの無邪気さを見せず、ヨシ子(良子)も信頼の天才たる明るさに足りない。下宿の娘にも礼子という名がもうけられ、関係をもつ女性が実質的に4人となっている。彼女らは葉蔵(あるいはこの場合、演者の生田と言ってしまってもいい)に死や逃亡や破滅を選択させるほどの魅力に、まったくもって欠けてしまっている。いっそ魅力でなくとも、要因さえ感じられないのだ。
そのように本作は、「いちドラマ映画」としては成り立っているが、「偉大なる文豪の愛される作品の初実写映画化作品」として迎えるには、どんなものが出ても許せるぐらい、かなりの許容量がなければなんらかの苦言を呈することになるだろう。原作を愛して愛してやまない人間ほど。
改題しよう。
『人間失格〜人間合格』
というタイトルへ。
それなら、苦渋の表情ながら、この映画の出来を認められるだろう。
そして「原作の実写化」という文句をやめ、「原作を原案とした映画」とすれば、しぶしぶながら納得だ。脚色を多くした作品が、もとの作品を「原作」ではなく「原案」と呼ぶように。
その程度の「凡作」になってしまったのが、この映画である。
なにしろ副題が“The Fallen Angel”と、最初から「堕天使」扱い、いきなり半肯定が前提。そのうえメイン・テーマが「アヴェ・マリア」なのだから、それおおよそ葉蔵とはまるで別の存在であるのだ。
むしろ葉蔵には、短命の天才モーツァルトが、最後に未完成のまま作曲した「レクイエム」こそがふさわしい。
【アニメ「青い文学」版『人間失格』 全2巻】/作画:小畑健(ハピネット)


一時期の集英社文庫が『少年ジャンプ』人気漫画家を起用し、カヴァー絵をイラストに変えた「新装版」が、若年層を中心にかなりの売れゆきを記録したことがあったが(思えばそれが、ここ数年の、近現代文学再評価の発端だったのかもしれない)、それをもとに、その漫画家を原画制作に起用して、地上波で文豪名作がアニメ化された時期があった。それが「青い文学」シリーズであり、すぐさまDVD化もされ、原作・原画ファン中心に購入された。本作はそのなかでも、30分〜60分枠のところを、最長の120分枠(30分×4本)に拡大するという、もっとも力の入ったアニメだ。ここでの原画は『ヒカルの碁』『DEATH
NOTE』などで知られる小畑健。その「厨二病全開」なカヴァー・イラスト(集英社文庫の「新装版」をそのままアニメ・イラストにしたもの)も大いに受けた。
私はそれを、原画ファン(原作ファンにあらず)向けに価格設定されたのが明白な、あまりに高価なDVDボックス・セット(それもわざわざ2セット分割)では購入せず、テレビ放送を録画してDVD-Rに焼きつけたもので視聴、所有している。そのため特典などについてはいっさい割愛、作品性のみを見ていくことにする。
まず、葉蔵の声を担当しているのが「青い文学」のナヴィゲーターもつとめる堺雅人であり、「葉蔵のように、常ににこやかな」彼が、意図的に「淡々とした(厨二病的な)」語り口で全編を通しているのが、まず評価の分かれるところだろう。あまりに葉蔵のキャラクターの一部を拡大・肥大しすぎてはいまいか、と。しかし本作は端的要素・キャラクター要素が重要になるアニメ作品であるので、私はむしろ、それは評価したい。やるならここまでやってしまえ、という勇断のように思える。
話はツネ子(逆に源氏名が「真由美」)との出会い直前、革命家の集いがある学生の頃から始まり、幼年期は追憶としてフラッシュ・バックするように盛り込まれる。このあたりはアニメらしい展開といえるだろう。アニメ化を意識してのオリジナル要素・展開は多く、それらをつうじて視覚的・映像的な演出にこだわっている。そうしたもろもろの処理が、いかにもアニメ化らしく、いさぎよく、好感がもてる。
冒頭からして、活動によって特高に追われるシーンが展開され、そこでツネ子と出会い、追ってきた特高警官からのがれて彼女のスカートのなかに隠れる。その後の情事も少ないセル絵(とは、もう言わないか)でもって、台詞を通信にして印象的に、さらり・さらりと流れていく……そうした時間を凝縮するための改編は多く、むしろ全体に配されているので、まず数えきれない。それをどう見せるかが、絵の枚数に限りがあるアニメの真骨頂だろう。幼少期の追憶もフラッシュ・バックというかたちをとったのが、アニメならではの表現であり、またアニメ化するにあたっての無難な選択でもあったのだろう。実写でいたずらに過去映像を出すと時間軸が混乱してしまうが、アニメではそれを前提としておこなうことが多い。
また実写と違い、どんな描写も実現できるアニメゆえ、陰惨な描写には遠慮がない。のちに何度もフラッシュ・バックする鎌倉の心中や竹一に見せた「お化けの絵」などがその最たる例で、力の入ったそこに本作の基軸が置かれている。すべては心中で「死にきれなかった」のではなく「相手を殺してしまった」ことへの背徳と後悔が、過去の「おまえはお化けだ」と宣言されたことを起点とし、やがてすべての自虐につながってしまうのが、実にアニメらしく展開する。
そのため細かな変更点は多く、シズ子がやり手の「鉄の女」であるのに電車に飛び込みかけたり、血痰の振りをするのに堀木が薬品を使わせたり、関係をもつ革命集団の女や下宿の女が登場しなかったり、ヒラメの家で「お化けの絵」を描こうとしたり、シズ子とマダムとヨシ子と薬屋の女の登場時間軸がクロスしていたり、葉蔵が「生まれてきてすみません」という言葉を吐いたり、堀木が過度に厭味だったり、その堀木もヨシ子が犯される最後こそを改心して登場(レイプを本当に驚き、どの作品でも登場する、わざと咳をして当人たちに見ていることを知らせる場面がない)し、そこから出征するような時代のバックグラウンドが強調されていたり、ヨシ子が「信頼の天才」とはいいきれなかったり、彼女が睡眠薬を服む場面があったり、マダムが「神様みたいな、いい子でしたよ」と言うのが病院でのことだったり、その直後になってようやく喀血したり、「人間(失格)」ということばがそこここに散りばめられ、さり気なく強調されていたり……それらは前述したような時系列の処理もふくみ、アニメゆえの「脚色」というより、純然たる「アレンジ」として解釈できる。
総じて、実にアニメ化を意識して成功した、「写実的というより印象的」に仕上がった作品になった。
私はこれを、最初はある虚脱状態で観ていたのだが、その後にこの文章を起こすため観なおした「不断状態」とはちがい、浮遊するような快感に包まれながら観たものだった。それが実に、このアニメに似合っていた。そのため記憶にとぼしかったものの、印象にはつよく残った。そんな浮遊感、現実からの遊離を感じられるようにして観るのがお薦めであり、陰惨なはずなのにやさしく仕上げられたこの作品の肝でもある。
だからこそ、ラストが他作品と比較におよばないほど「やさしすぎる」のも、納得せざるを得ない。
なお、動画制作は深夜アニメ枠で脚光を浴びる「マッドハウス」。数々の文芸作品やコミックを視聴率狙いではなく、挑戦心で次々とアニメ化していく集団として注目されるその手腕は、実にたしかなものだ。のちの『四畳半神話体系』とはまた違う意味での、高い完成度がここにはある。
またこのシリーズは、原作じたいを「原作」よりも「原案」として扱う傾向にあるが、本作においてはぎりぎり「原作」として扱えそうだ。つまりは脚色や過度の演出をふくまず、「一応は」原作をなぞっている。この「青い文学」シリーズでは芥川龍之介の『蜘蛛の糸』『地獄変』など、話の舞台が「古風なメトロポリス」で展開する、まるで別物に仕上がっていたのだから、それにくらべると数段「らしさ」を残している。
ただ、特典を盛り込んで複数巻分けされた高価なボックス・セットを購入してまで見る価値があるか、と問われれば「レンタルで充分じゃないの?」という返事をしてしまいそうだが。
【まんがで読破『人間失格』】/比古地朔弥(学習研究社)

「人間失格」のコミカライズは、実質的に、学研の教材的スタンスで描かれた本作から始まった。
とかく、印象だけをなぞった感触。すべての線が細く、描写もさらりと受け流すかたちで、まるぎり印象に弱い。毒々しさがまったくと言っていいほど皆無。
ひとことで言えば「教科書的」。脅威的・象徴的存在であるはずの「父親」も、あっさりと顔が出てその死の報せも省かれ「普通に」消化されている。「悲喜劇と対義語の遊戯」もさらっと流すだけ。うべてが、まるで印象に残らない。前半(ツネ子との心中まで)がやけに長く、それ以後はますますもって流すように展開していく。
そのうえで下種なオリジナル要素もあり、最後にカルモチンとヘノモチンを間違えた女中に「ふっ」と微笑んでしまっている。なかば廃人同然になったはずの、葉蔵が。ほかにもヨシ子を強姦するのが編集者ではなく、近所の個人商店(話の流れによると、家庭に商品を持って訪問もする『サザエさん』でいうところの「三河屋」のような「よろず屋」らしい)の男になっている……自分と仕事上の関係がある編集者だからこそのショックもあったのではないだろうか?(それを後述の古谷兎丸は大きく意識している)
作品ごとに解釈が異なる、下男・下女との「遊び」は、ここでは下女と「セックス」する描写になっている。「お化けの絵」はぼかされ、正体をあらわさない。また他作品にくらべ、唯一シズ子が眼鏡をかけていないのも特殊だ。
【名著をマンガで!『人間失格』】/バラエティ・アートワークス(イースト・プレス)

同じく名著のコミカライズ・シリーズだが、こちらはだいぶ漫画的に仕上がっている。しかしこのシリーズは作者が明確にされておらず、グループ名義の、ほぼ匿名扱いになっている。
しかし、それを純粋に評価できないほど、この漫画は「絵がひどい」。まるで漫画と呼びたくないほど、稚拙というか、デッサンからおかしく、なによりキャラクターの顔が万人受けとはいいがたいもの。むしろ、この絵を好む読者がいるのだろうか、と思えてしまうほどに「漫画として」のレヴェルが低い。唯一の救いは、「悲喜劇と対義語の遊戯」に力が入っていることだ。
しかし全体的にキャラクターの表情が稚拙で弱く、まるで無表情に等しい。それをあえて評価するなら、「顔のない顔」が印象的に登場すること。幼少期の家族やクラスメイトにはじまり、終盤は強姦されたヨシ子も「ひどくゆがんだすえ」顔がなくなる。あとは、前者にくらべて物語全体のページ分量、そのバランスだけはいいことか。しかし最後、バーのマダムが「神様みたいな、いい子でしたよ」と言う「原作唯一の救い」もカットされてしまっているので、後味は決してよくない。
なお、下男・下女との「遊び」は、ここでは遊ばれた末におぼえた「オナニー」になっていて、布団のなかで自分でもする描写がある。「お化けの絵」も「なんだこりゃ? 油絵おぼえたての中学生のほうが、もっと生々しく陰残な絵を描けるぞ」といったものであるのに、まじまじともったいなく、姿をあらわしてしまう。間違いなく、象徴的存在だったそれを具象としてとらえられるほどの、「絶対的な」絵ではない。
【MANGA BUNGO『人間失格』】/伊藤チカ(集英社)

またも名著のコミカライズ・シリーズだが、こちらは(それなりの)有名漫画家を執筆に用いたことで話題となったシリーズ。出版社都合で刊行が遅れるなどの問題はあるが、徹底的に名作文学を(それも作者名を明らかにして)シリーズ化するのには、好感が持てる。
物語は廃人になった葉蔵が昔の写真を見る描写から始まり、革命家の集い部分から展開。幼少期は追想のように差し挟まれる。描写はギャグ表現にかたむいたものが多く、いかにも現代の女性漫画家らしいもの。「大人向け女性コミック」のそれをイメージすればいいだろう。
独自の構成は魅力的で、女性的な感性がはたらいているので「漫画として」面白い。ただ、女性漫画家にありがちな傾向で、残酷な描写や辛辣な描写は簡略化あるいはそっくり省いている部分が多い。そのためツネ子との心中など重要な場面があまり印象に残らず、心理的な苦悩描写にも欠ける。シズ子との別れもあっさりで、母子の幸福を「祈る」描写もない。ヨシ子の強姦も「悪い意味で」女性漫画的だ。彼女が隠し持っていた睡眠薬の過剰摂取で昏睡するのも、まるで(精神的な)すごみがない。
漫画としては面白いが、「『人間失格』のコミカライズ」として見ると、やや物足りなさをおぼえるか、ひょっとして別物に映るかもしれない。しかし前述の「教科書漫画」よりは数段、楽しめる作品だろう。最後のエピローグも、女性漫画家の感性で描かれているように見えるので、ぼんやりとした幸福感をおぼえることができる。
なお、下男・下女との「遊び」は、ここでは唯一葉蔵を厄介者扱いする乱暴な下男(オリジナル人物)に「手コキ」されるものになっている(下女とのセックス描写もあるが、それはさらっと印象なく流されている)。「お化けの絵」は追想のなかで「なんとなく」な画調でしれっと登場し、竹一を「軽く」ぞっとさせるだけの扱いになっている。女性の名はシズ子だけ「志津子」になっている。「悲喜劇と対義語の遊戯」は女性が描く漫画には不要と判断されたのか、省かれている。
【人間失格・壊】/二ノ瀬泰徳(秋田書店)

雑誌「少年チャンピオンRED」に掲載された、描きおろしではない、漫画雑誌(青年誌)初のコミカライズ。しかし純粋なコミカライズではなく、作者の感性でもって現代風にリメイク、アレンジされまくっている。そのため「別物」の雰囲気がつよく、純然たる「コミカライズ」とはいえない。
頭身が低く眼が極度に大きい、デフォルメされた「いわゆる萌え絵」を基盤としながら、グロテスクとでも言うか、麻薬の幻覚描写はないので心理描写いっさいを、これも「いわゆる触手的な」絵に置き換えているところに、大きく好みが分かれるだろう。
申し訳ないが、私はそれが好みではなく、また原作のイメージから逸脱していると思ってしまった。
原作からの変更点はかなり多く、むしろ原作に忠実な点を挙げたほうが早いぐらいだ。
そのため挙げきれないが、主だったものでいえば……
※下男・下女による「遊び」が女装であること。
※「堀木」が最初から登場するクラスメイトであること。
※また露骨に葉蔵をあやつっては馬鹿にする(「上司幾太」の名付け親でもある)こと。
※クラスの教師までが葉蔵と肉体関係を持つこと。
※「竹一」が愚鈍な男ではなく、葉蔵の分身たる娘であること。
※「ヨシ子」が幼馴染で、唯一死ぬ女であること。
※それも睡眠薬過剰摂取による自殺であり、葉蔵が「殺した」わけではないこと。
※しかしそれを導き、また助けてやれなかったことに過度の自責の念を抱くこと。
※「ヒラメ」がいない、「シズ子とシゲ子」の存在が薄い、「父親」が最初に登場するだけ……など、葉蔵が自分をみずから心的に追い詰めていく要素に、ことごとく欠ける。
※「バーのマダム」が若く、まるで存在感がなく、むしろ不要に等しいこと。
※麻薬などのマイナス要素の表現が乏しく、いかにも「中編漫画的」にまとまっていること。
※ゆえに、「人間失格」であることの絶対的な理由が、「本質的に」見られないこと。
……このように、まるで「別物」になっている。
総じて、「自意識過剰ゆえに魅力を持ち、幼馴染の死ばかりを思いすぎ、結果、自己破滅する男」の話に仕上がっている。
これをどうとらえるか? 単行本1冊でまとめるために必要な取捨選択であったのか? それは読者の判断に委ねられるのであろうが、これを「受け入れられるかどうか」が先に必要となるだろう。それからはじめないと、この作品は嫌悪感しか呼ばないおそれさえある。
しかしまるで、本作は「本質的に」別の作品になってしまっている。描写・展開・設定云々ではなく、この作品が『人間失格』の名を冠している意味が、これではまるで見当たらない。その意欲は買うが、哀しいかな、『人間失格』として見ると、先の「教科書漫画」のほうがずっと優秀だ。
別物を生み出そうとしたあまりに、その意欲が空回りして、いわゆる「名前負け」という症状に陥ってしまった。かつて遺族の抗議を受け、ナカグロと副題を配したジャニーズ・ドラマ『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら〜』を思い出した。
そのため最初から、まるで別物として読んだほうがいいだろう。でないと、間違いなく「げんなり」する。過剰評価か毛嫌いかの、両極端にしか批評できないだろう。せめてタイトルを改題すれば、もう少しは評価が変わったのかもしれない。
唯一の救いというか、肯定要素は、この作品が太宰作品を「原作」と呼ばず、「原案」と表記していることだ。
【人間失格 全3巻】/古屋兎丸(新潮社)



この「『人間失格』メディア・ミックス評」を書こうとした発端は、実はこの古屋兎丸による漫画化があまりに優秀だったためだ。
こちらも現代風にアレンジ/リメイクしたものであるが、原作をかなりなぞって意識している。そのため他のコミカライズより数段敷居が低く、入りやすく、また味わい深い。だからこそこちらも「原作」ではなく「原案」だ。それも『人間失格・壊』のように「無茶苦茶に壊してしまったから、原案とする」のではなく「原作をあまりに大切に思うため現代リメイクした自分は、原案とする」と表明しているような姿勢で。
だからこそ、その最終巻発刊にあわせ、この評文をあらわしたかった。
漫画版でいえば、前述の教科書漫画よりも、同じ現代リメイクの『人間失格・壊』よりも、本作こそを推したい。
原作をなぞりつつもきちんと現代に置き換え、原作の時点から多くの読者が抱えたであろう「この独り語りは誰に向けて書かれたものと解釈すればいいのだろう?」という疑問さえ、葉蔵自身が書きためていた「ブログ」という設定になり、納得がいく。純然たるコミカライズではなく、アレンジありきの「リメイク」に等しいので、細かな変更点は多いものの、総じて原作をなぞったものであり、自然と違和感なく読み進めることができる。
総じて、処理が「スマート」だ。
そうして、この物語の「本質的な部分」は変わらぬままで、いまの時代でも普遍のものであるのだなと、深くうなずくことができた。
漫画自体として見ても、完成度はかなり高い。幻覚描写や心理描写も、さすが古屋兎丸、とうなってしまう(ちなみに彼は、漫画表現がPTA的意見により「もっとモラルあるものになりなさい」と言われているさなか「俺は少年少女にトラウマおぼえさせるような漫画を描きたいね」と発言していた)。
こと最終巻の幻覚描写は圧巻で、どこからが幻覚でどこまでが現実なのか、葉蔵視点で描かれているためそれとわからず、わかっている気がするもののごっちゃになる感覚に陥り、読んでいて没入してしまう。冒頭も学生になってから始まるので、幼少期の場面はそっくりオミットされている(そのため「竹一」や「お化けの絵」も登場しない)が、それでもこのリメイク術の成功にはあまりあるほどの画力・構成力がある。
最後の最後、ほんとうに最後、追記のように補足された漫画オリジナル描写を読んでからの読了後、自分にも理由がわからない涙があふれて止まらなかった。作者あとがきを読み、それが小説にない「まるで絶望にしか見えないものの、葉蔵本人にとっては幸福ともいえる、ほんのわずかの希望」を意味していることを知り、合点がいった。
葉蔵は、やっと「自由」になれたのだ。
読書中のBGMに、映画版について述べた箇所に記したモーツァルトの「レクイエム」を流していた。それも不意の涙と関係があるのかもしれない。ヴェルディではなく、「モーツァルトの『レクイエム』」。短命の天才が未完のまま絶筆してしまったものを。弟子により仕上げられた「鎮魂歌」を。まるでモーツァルトが自分に捧げたのを弟子が手伝い、ほんとうにそれが叶ったような「黄泉(自由)への響き」を……それこそが、本作には「本質的に」似合う。
だからこそ、後日談めいたラスト(原作にもあった箇所、プラス独自の描写)もまるで違和感がない。現代リメイクにあわせた独自の設定も、勝利要因になっている。
ここに挙げたどのメディア・ミックス作品よりも、数段レヴェルが高く、何よりもほんとうに「作品」である。刊行が待ち遠しかった。私的に時間や余裕がなく、買ったまま読めずにいる本が多いなかでも、本作だけは予約までして発売日に購入し、さっそくの読了直後に筆をおろすことができた。
その期待にこたえられる、力作であり、傑作である――「原案」にしてのリメイクとしても、純粋なる「漫画」としても。
『人間失格』を漫画で読んでみたい、という方には、優秀であるうえに移入しやすい現代リメイクでもある、本作こそをお薦めしたい。
なお、本作では幼少期が省かれているため「お遊び」も「お化けの絵」もない。むしろそれらは破滅する葉蔵を中心に展開させたため、意識的にスルーされたように思える。人物の改名については、ツネ子は「アゲハ(真美)」、シズ子は「静子」、シゲ子は「栞」、ヨシ子は「佳乃」になっている。原作を過剰に意識する必要がないぐらいに漫画として優秀なので、さほどの違和感はない。
こうしてさまざまなメディアでの作品を目にしていくと、やはりどうしても、冒頭の「原作を越えることはできない」という、先だってわかりきっていた結論にたどりつく。
しかしそれは、残念な感情ではない。それらを「楽しめなかった」というわけでもない。それぞれはぞれぞれに、面白く感じられた。
ただ原作が、あまりに巨大な存在、巨大な偶像であるために、それを愛する人々には許容するのが難しい、というだけのことだ。そしてその愛しかたは、どんな方法でもいいのだと、再認識できたのが最大の収穫だ。
だからこそ、それぞれを「映画として」「アニメとして」「漫画として」見ている自分にも気がついた。もとより「原作の映像化」という前提は、期待していなかった。それが文章のつよみであり、よわみとされてしまう部分であり、またいかなるメディアが突出しても、文章というものがなくならない理由でもあるのではないか。
「人間の想像力」を越えるものなど、表現においては存在しないのだ。
映像さえも、線さえも、点さえも、そこに乗る声や音さえも……見た・聞いたそのままではなく、そこから「感じた」ことの解釈をめぐらせる「想像力」により、解釈がまるで異なってくる。これは文章にかぎらず、表現行為すべて、そうだともいえる。あるいは、人とのコミュニケイションについてさえ、同じことがいえるだろう。想像力が現実を越えてしまうと、自然、現実が追いつかなくなる。
その想像力は、人によって異なる。だからこそ、表現することやされること、つうじることは楽しく、面白く、やめられないのだ。

文庫は、さまざまな装丁で出ている。
前述の小畑健カヴァーの「集英社文庫」、映画化に先駆けて生田斗真、次に松山ケンイチを起用し、そうして子供たちのスナップ写真へと移っていった「角川文庫」、岡田将生を起用した「SDP文庫」、AKB48の前田敦子を起用した「ぶんか社文庫」、あいかわらず抽象的イラストの「新潮文庫」、中身だけならまず間違いない「岩波文庫」……総じて売れたのはアイドルを起用したカヴァーであり、その代わり、表紙めあてでの購入が続いたため、中身を読んでさえいない読者(と呼んでもいいのか? 「所有者」か?)が多い。
そこであえて、私は、『人間失格』にとどまらない、ちくま文庫の『太宰治文庫全集』を購入していたことを思い出した。
それはおそらく、作品はしんより好きだが、それよりも、太宰自身が好きであり、自己陶酔のみでなく『人間失格』とその作者を愛したいと思ったからだ。
だからこそ「愛読書」に本作を挙げることは、いまだにはばかられる。偶像を偶像として崇めるようで、とてつもない背徳感をおぼえてしまう。自分を許したい、正当化したいがための「一方的な感情移入」により、この作品を「神話化」することに絶大なる罪悪感を抱いてしまう。きっといつの世になっても、私だけでなく、本作を評価するほとんどすべての読者が、それを無意識下の意識でそれをしてしまうだろうから。
ニルヴァーナの曲が「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」だけではないのと同じように。
だからこそ本文は、『人間失格』を愛してやまない読者による、愛してやまない読者のための、ガイドとして読んでいただけたらさいわいだ。
最後にそれを記すのが、いかにも、この作品が大好きな人間じみて、こずるいようだけれども。