赤染晶子『乙女の密告』

〜自我と存在は他者に依存する〜(2010/08/09)


(新潮社)

 例によって、作者のことは存じあげていないのだが芥川賞受賞作だから読んでみた部類。
「乙女」と呼ばれる外国語女子大生達が、『アンネの日記』を皆一様に授業を越えて愛読し、そのさまざまを自らに投影させて何度もスピーチ・コンテストに挑むという、一種の自分探しの自己鍛錬物語。乙女達の言動が『アンネの日記』の世界ととカブ(らせ)るのが見物となり、選者の注目点にもなった。
 たしかに文学的と言える。受賞の理由も「『アンネ・フランクを密告したのは誰か』という歴史的・社会的なものを題材にもってきつつ、『自分は誰か?』という文学的なテーマに落とし込んでいる」(小川洋子)とのことで、とかく「文学的」との評価が高い。
 そんなにか?
 そんなに文学的で、革新的か?
 過半数評で芥川賞を受賞できるほどに?
 というのが、正直な読後感だった。

 なぜなら、ここにあるテーマはものすごく古典的で、使い古され、しかし恒久的に古びないものであるために純粋に評価するのが難しい。打算的に「いかにも受賞に向きそうな主題だ」と感ぜられてしまう。それこそ哲学が現代になってもロゴスとイデアで止まっているように。
 それを今までの芥川賞作品は、暗に示してきた。主題でありつつも、表面にありありと姿を出さずにいた。芥川賞作品に限らず、多くの文学作品はそうした傾向が強いし、それが全面的に出てしまうと、重要な記述に傍線を引かれた教科書を読んでいるような感覚に陥れられる。
 敢えてそれをやったのが、本作なのかも知れない。だからこそ、わかりやすくも文学的なのだろう。そしてだからこそ、陳腐にさえ思えてしまうのも事実だ。
 たとえば太宰治は、悩んでいることを表に出さず、常に仕込んでいるからこそ多くの作品で「悩める太宰」を演出できた。芥川龍之介は、エゴイズムをそれと書かずに描写や展開で示し続けたので「エゴイズムの芥川」と認識されれるようになった。三島由紀夫はマッチョイズムだったが押し付けがましくなく、むしろ自分にこそそれを課して肉体を磨いて「マッチョ三島」になった。
 後年の彼らへの評価は、得てして周囲が作ったものだ。彼らの「自我」は、「他者」により認識・構築させられた「存在としての自我」だ。彼らそのものの自我とは異なる。
 そして彼らは、自分に押し付けられた「存在としての自我」を受け入れられず、自決を選んだ。逆にそうした「他者からの認識」を作風に利用して生き長らえたのが、谷崎潤一郎や志賀直哉だったのではないだろうか。彼らは他者からの認識を自らに投影し、利用し、生きていけるだけの図々しさがあった。
 つまり、本作における「少女の自我が云々」といった描写は、他者により成り立っている自分への認識、その程度でしかない。それを今さら、ありありと見せ付けられても「だから? 知ってるよ?」と思ってしまうのだ。それならまだしも、小川洋子の評のように手放しで文学的だと誉めそやすのは、恥ずかしくも文学を志す人間としてどうかと思うのだ。言ってしまえば、漫画でも描ける「自我ごっこ」に見えてしまった。
 だからもし、後年になって作者の赤染氏が貶されるようなことがあれば、彼女自身よりも、彼女を芥川賞に選んだ面々、特に大きく評価した小川洋子に責任があると言っておこう。たしかに大いなる可能性や要素を孕んではいるが、相変わらず「芥川賞になるほどか?」という疑問が付きまとってしまう受賞。その理由は、普遍的なテーマであるのに珍しいことのように掲げ、やたら文学的とする評価。
 そこへきて、小川洋子の「歴史的・社会的なものを題材に」という言葉も、まるで歴史文献を隅から隅まで読んで論考した物語かのような曲解を招いてしまう。実際には小説世界を構築するための一本の柱でしかない。極端な話、それがなくても成立する物語であり、逆にそれがなくなると魅力がまるでなくなる。それほどに、この世界は弱く脆い。それこそが魅力であることもわかっているのだが、読まずにいられないほどの絶対的な魅力を放っていない。
 決定的に残念なのは、そうした「揺らぐ自我」の物語としてすらすらと読めてしまううえ、ストーリーとして眺めても「読めてしまう」こと。とくに中盤のバッハマン教授との関係性から発展する乙女の構図や、終盤の「密告者」のくだり(これが決定的)などが。かといって自我存在への問いかけを中心に読んでも、わかりやす過ぎて普遍的に感じられてしまう。
 何というか、「そつなくこなした」感が強い。アクがない。まっさらで綺麗な小川の水。そこにザリガニがいたら違和感をおぼえる、そんな感覚。「非日常」がまるでなく、「日常」のなかに存在する自我ゆえにわかりやすく、汚れておらず、汚れることもできない。
 いやしかし、たしかに評価されるぐらいの出来栄えではある。けれども、過大評価ではないか? というのが正直な感想だ。ユーモアをまじえた描写といい、読みやすい文体や展開といい、実に「漫画的」に読めてしまう。言い換えるなら、「最近の漫画はこの程度のレヴェルなんかとっくにクリアしているよ」ということでもある。設定も展開も、漫画並に「ありがち」なのだ。
 だからこそ、それほどに「文学的」だとは思えない。
 たしかに文学的では、ある。しかし、手放しでは誉められるほどには感じられない。
 まるでグラフィックや音楽ばかりが立派になり、肝心のストーリーがまるで進歩していないTVゲームのようだ。文字だからと過大評価することも、されることもしてはいけない。それをしたら「文学」の意味などなくなる。
 また細かなことになるが、段組みの狭い文面で120数ページ1本だけ、というのがいささか物足りない。芥川賞受賞作の単行本によくあるように、併録作品もない。紙が分厚く、しかし価格は安いわけでもない。
 けっきょくのところ、芥川賞受賞作は「商品」でしかないという証明になってしまった。
 それが何よりも残念であり、皮肉に感じられたのはやや蛇足ではあるが、もっとも正直な感想でもある。

 この時点では、がっかりはしないものの、悪くない出来栄えゆえに、赤染氏の今後が少し心配になる。
 これから「芥川賞作家」という「他者による存在」を与えられた氏が、いかような「自我」を構築するかが見物だ。