浦沢直樹×ウジコウジオ
『20世紀少年の脇役 ウジコウジオ作品集』
〜ある意味純粋な「ギャグ」であり「現代批判」〜(2010/07/08)

(小学館)
ある漫画好きの友人が「主旨はわかるんだけど単純につまらなくて買って後悔した」と嘆いていた。それがこの漫画。僕は偶然にも発売日当日に書店でそれを見付け、ソッコーで買ってしまっていた。そのため擁護論のようなものをコメントしたのだけど、うん、たしかに彼のように「わかるんだけどさぁ」という人は多いのだと思う。
本作は、表紙を見ればピンとくる人はすぐにくるように、『20世紀少年』のスピンオフ(これ『踊る大走査線』以来よく使われてる言葉だけど、イマイチなじめないんだよなぁ)作品であり、ウジコウジオを「主人公とも言えなくもないが主人公というわけではないような」微妙な立場で配置した内容となっている。つまりは、常盤荘にてウジコウジオが描いた漫画をそっくりそのまま載せてしまい、そこへユキジがダメ出ししていって新作を描き続ける場面を挟み、ストーリーっぽくないストーリーが進んでいく、というもの。
最初っから「この本を宝塚先生、西森氏、青塚氏に捧げる」という序文で始まる。これは本編で「ともだち」政府に逮捕されたという漫画家達のことであり、それぞれ「手塚」「石(ノ)森」「赤塚」のパロディである。ウジコウジオ自体が「藤子不二雄」のパロディであるのだし……というように、この時点で、本作の本質が「パロディ」であることを理解しておかないといけない。そうでないと、楽しめるものも楽しめない。
だから本作の「パンツ」「おっぱい」「ラブコメ」「女装」「眼鏡はずしたら美人」……という、あからさまに意図的な「記号」をどう読み取るか、そしてどう楽しむか、が重要になってくる。それを「今時これって」と嘲弄するか、「類型的過ぎる」と嘆くか、「馬鹿だね〜」と笑うかで、本作に対して求めているものの読者スタンスが異なってくる。
そのため、冒頭の友人のように「主旨はわかるんだけどつまらない」という人が今後、続出するのも目に見えている。それは本作を『20世紀少年』というくくりでのみ、見てしまっているからだ。
僕としては、スピンオフ作品である前提を踏まえたうえでの「漫画表現への警告」のように感じられた。
現在、(特にラブコメ)漫画は「記号」ばかりが先行し、本編さえ「絵はうまいけどストーリーがまるで進歩していない」状態にある。まるで一時期の『ファイナルファンタジー』シリーズのように。それをあえてウジコウジオに描かせることで、警告を発しているのではないだろうか、と。これが絵がうまくて現代風タッチだったら、まったく評価が変わっただろう。この未熟というか80年代風というか、な絵だからこそ、その意味が深まり、またやんわりと隠されているように見える。
だって今にして「転校生がお隣りさん」「トーストくわえながら遅刻遅刻と走る」なんて、ちゃんとした漫画家だったら意図的にしか描かないもの。「普通の漫画として」描くわけないもの(あだち充を除く)。「幼馴染の女装がバレない」っていうのも、現実には男女の声帯や骨格を考えるとおよそあり得ない。表現力が稚拙でも、漫画だからこそ許される……ということも、含んでいるのかも知れない。
さらには「萌え」主体になった漫画界への警告でもある。意図的にそれほど上手でない絵で「萌え」要素を散りばめることに、意義がある。それも「類型的」にすることに意味がある。瑣末な部分でするより、大枠に警告を発した方が、効果がある。そのためには「類型的な」要素を使わざるを得なかった。瑣末な部分をして「萌え」とか言ってるけど、その本質は昔からまるで変わっていないんじゃないか、ということだ。
だからあえて、古臭い表現を用いているように思われる。
そもそも『20世紀少年』自体、浦沢は「冒険活劇」として読んでほしかったのに、読者には「『ともだち』の正体を探る推理もの」として読まれてしまったという作品でもある。本作は、その体験を活かしているというか、それさえもパロディ精神として盛り込んだと言えないだろうか。
つまり、本作は「プロパガンダ漫画」であるのだ。宣言してしまうぞ。
そのうえで、最も重要なことがひとつ。
「本作の作者は、浦沢直樹ではなく、ウジコウジオである」
ということ。
だから、本作に従来の浦沢漫画のクオリティを、『20世紀少年』の品質を、求めてはいけない。
パロディありきなのだから、精神的な部分を見た方がしっくりくる。シリーズの外伝だからと、舞台裏を覗くような期待をしてはいけない。それをするとめちゃめちゃデカい肩透かしを食らう。
そういった読者が多いだろうから、浦沢自身、ものすごく「これを出したら俺はまた批判されるんだろうなぁ」と自覚しているのだと思う。しかしあえて、それをやった。やらなければならなかった。今の俺なら出せる。『20世紀少年』の名で使えば世間にもひろく認知される。読んでもらえる……そんな計算があったのではないだろうか。しかも、作品としては成り立つぐらいのクオリティだけは保つ。そのうえで、最後はケンヂを登場させ、本作にもリンクする。ユキジの意見を聞いていって、だんだんと作品の質が上がってきたウジコウジオは、それをきっかけに目醒め、本格的な「冒険活劇」を描き始める――浦沢がしようとしたもののできなかった、あるいはしたのにそう読んでもらえなかった、ヒーローが世界を救う冒険活劇を。
しかしそれを、自分の名前だけでおこなうと、弊害が大きい。「浦沢は裸の王様だ」と叫び出す人が間違いなく、出てくる。
その防護線として、クレジットを「ウジコウジオ」にしたのではないだろうか。
そしてこの味があるけどうまくはない絵が浦沢自身のペンによるものだとしたら、それはそれですごいことだとも思う。小手先かもだけど、浦沢が適応能力のある漫画家である証拠にもなるだろう。
……けど、
純粋に漫画作品として見ると、たしかに「面白くない」ものだ。意義はあるのだけど、作品単体として眺めるのは難しい。
だから「ウジコウジオはこの程度の才能しかない」と見ることもできるし、浦沢が「俺も『萌え』を描こうとすれば描けるんだぜ」なんていうポーズを取っているようにも見える。
だからこそ逆転的に、破り棄てた原稿を拾って読むアパートの管理人さんのように「なんだいあいつら、いいの描くじゃないか」という話もある。ユキジに見せなかったその話だけは、純粋に漫画として面白い。それは「萌え」を廃した純粋なラブコメだったのも、示唆的だ。
ところで、蛇足。
「ともだち」率いる友民党の制定した「新青少年保護育成条例」により自由な表現ができない時代という設定は、奇しくも現在、漫画界が似た状況になりつつある。というよりも、本当になってしまうところだった。例の「非実在青少年」というやつだ。それをよく友民党と比較されたある政党がゴリ押ししているという状況も、酷似している。
浦沢あるいは、ストーリー・プランナーの長崎は、それを見越していたのだろうか?
まさに恐るべき慧眼、である。