Cocco『ポロメリア』
〜通底してはびこる謂われなき「異和感」〜(2010/06/29)

(幻冬社)
沖縄出身のエキセントリックなシンガーとして知られる、こっこ初の小説は、自伝的なものであるらしい。
そのために「エッセイのようだ」「物語ではない」「すごいディテール」「贔屓目じゃなくてもすごい小説」といった感想文が目立つ。それはすべて「ファンからの視線」であって、こっこを「小説家」として見た意見ではない。現に「君は他にどんな小説を読んでいるんだ?」と問いたくなる、「よくわかんないけどこっこだからすげえ」というものばかり。
かく言う私は、こっこは好きな方だがCDはアルバム2枚しか持っておらず、そのため純粋に「文芸作品」として読めた。ファンの色眼鏡ではなく、しかし少しは知っているので彼女のミュージシャンとしての感性を加味して、推察しながら読むこともできる。だが自伝的小説だという部分は、実は知らなかった。ファンではないから。もし知ったとしても、気にせず読んだだろう。ファンではないから。
それでも、私が本作を買ってしまったのは、こっこをある意味、つよく評価しているからだろう。これがもし、椎名林檎の小説であれば過剰に期待しただろうし、矢井田瞳の小説だったら読みもしなかった。適度な距離があるため、純粋に評価できるのだ。
結果、なかなかよいのではないか、と思いつつ読みはじめ、やがてなにかを納得して読み終えた。
これは、こっこにしか書けない。こっこだからこそ評価できる。
それがまず、最初の評価だった。
本作は主人公の女子中学生による独白形式のため、きわめて平易な文体なのに、なぜだろう、なかなかすらすらと読み進めることができない。やたらとひとことひとことを噛みながら、じっくり読んでしまう。
それは本作が、「違和感」を主体とした作品であるからだ。沖縄独特の風習や感覚、そこへ女子中学生の感性でもって書かれているので、最初から説明なく入り込め、感情移入を誘う「普通の」小説とは大いに異なる。自然、読むのがゆっくりになってしまう。ときおり戻って読み直す箇所もある。
無論、ウチナンチューの女子中学生が読めば、そんなことはないだろう。しかしヤマトンチューの成人男性には、軽く読み飛ばせる文体ではない。どうしても考えてしまう「違和感」がある。
微妙な時期だから気付いてしまう微妙な変化。両親に距離ができていること、中学になって変わろうとしている友人関係、してもいない万引きを呑み込まなくてはならない理不尽……それらも「違和感」として、主人公の少女の心情をたぶらかす。
それをこっこは、恐らく自然と書き記している。計算的には感じられない。いろいろな意味で「天然」の文体だ。
通常のカギカッコだけでなく心情や擬音さえ、主人公の「ことば」として表されている。カギカッコのないそれらは句読点を意図的にはずしていたり加えていたりして、リズムを感じさせる文体になっている。
かつて川上未映子は「ミュージシャンだからって自然と文体がリズミカルになるものではない」と言った。文章にリズムをもうけるのは、難しそうでいてそうでもない。語呂に文字数、それを句読点で調節すれば「それらしく」仕上がる。但し飽くまでも「それらしく」。それにより表面的にはうまくいくが、繕ったそれは空々しく、読んでいて飽きるか不自然に感じられてしまう。
ところが本作のそれは、繕った感がない。やはり「天然」なのだ。そして「音楽的」でもある。「詞的(詩的ではない)」とも言える。そういった意味では町田康の初期作品にも似た趣がある。先に述べた川上未映子も初期は(本人はまったく意識していなかったらしいが)そのきらいがあった。どれも、一読しただけでは圧倒されるか放り出すかに分かれ、何度読んでも内容が憶えられない。しかしやたらと、表現や台詞が心に、いや、脳髄に残ってふと思い出されてしまう、みなぎる感性が先走った小説。
そうした見地からでも、一読の価値はあるだろう。こっこが歌手であるということを知らない普通の読書家にも、間違いなくその「普通とは何かが異なる違和感」を感じられるだろう。
いや、ニュアンスを考えると、「異和感」という字をあてた方がしっくりくるだろうか。
この物語は「違」ではない。「異」なのだ。
自伝的であるということをかんがみると、こっこはそれゆえに、歌手としても際立って特異な存在だったのだろう。
自分にやどる「異和感」を武器とし、武器とされ、闘いつづけた末にそこから逃げるように走り去った。
だがストーリーとして見るとお世辞にもならないほど平板で、これといった大きな要素があるわけでもない。自伝的小説らしいので、無理にドラマティックかつエンタテインメント的にすることもなかったのだろう。しかしそれゆえに、前述したたぐいの技法面での独自性を強く感じる。
ストーリーだけを見れば、「無理に手持ちの風呂敷を広げた」感がある。勝間和代なら間違いなく「原稿用紙20枚で書ける内容」と言いきってしまうだろう(けっ!)。
しかし「最小要素を最大限度に表現する」、それが文学のいち手法でもある(その逆もしかり)。こっこはそれを、「無自覚的な自覚」で書き記したように思える。若干冗長に感じられてしまうのは、第二作、第三作でシェイプしていけばいい。
「現在」に「回想」が遠慮なく交差するのも、先に述べた「異和感」のいち要素と言えるかも知れない。気が付けば回想に入っていて、気が付けば現在にいつの間にか戻っている。その繰り返し。そして最後は最初に還るという、永遠の袋小路。
だがそこには、まるで「今」がない。描かれている筈なのに、感じさせない。回想の果てに「現在」には戻りはするが、着地しない。着地に使う脚は、唯一現在に立てるバレエでくじいてしまって、正確な感覚が、ない。感情も振幅が激しく、両極端で、ギアがニュートラルに入ることがない。
そのままとうとうと話は進み、やがて最後に感性が爆発する。
自分さえも理解できぬままの自爆にも似て。
それでも彼女は、生きている。
そしてふりだしに戻る。
読み終わってまず強く感じられたのは、「本土人より沖縄人の方がずっと『日本人』なのかも知れない」ということ。
小林よしのりが『沖縄論』でそうした旨のことを書いていたと記憶しているが、それが「感覚的に」理解できた気がした。
「特定の誰かを崇める宗教より、先祖崇拝が圧倒的な沖縄では、お墓も、先祖と戯れることができる社交場」
まさに、正しい日本の墓参りの情景だ。開祖様だとか名誉会長を崇めて先祖をないがしろにする人々には感性として理解できまい。それほどに沖縄は、本作は、血の繋がりを強く濃く感じさせる。またそこに馴染みきれない主人公の「異和感」がある。
その「異和感」をどうとらえるか、処理するか、が読者に求められる資質である。時代性も批判性も何もなく、ただ日常に間断なくつづく「異和感」。それを感じてきたかどうか、が読者に必要とされる。いい子ちゃん文芸やお手軽小説モドキとはまるで本質が違う。正しく「文学的」だ。
本作を貫く多感な感受性は、とくに雌犬についての最終章のこの台詞と表現に集約される。
「ちゃんと繋いで、放し飼いにしなきゃ大丈夫よ」
「一生繋がれたままの運命になる犬」
そこで主人公の少女は、皮肉にもさまよっていた感性が着地する。つまり本作は、ある意味で犬と同等の少女の物語。
そうして感情移入してしまった犬を、主人公は自分から見えぬほどに追いやる。雌犬の股から流れる自分にまだ訪れぬ血液成分に、汚らわしさを感じてしまったがゆえ。それは理想を追いつつも、やがて来る自分の現実的未来を犬に投影して見てしまい、拒否するためだ。
多感な少女は、まだ、自分に訪れる現実を受け入れる覚悟がない。だがそれはいつか訪れるのはわかっている。しかし受け入れたくもない。精神的にすれてしまった母や可愛げを失った友人のような「女」にはなりたくない。だからそれを、自然と受け入れている犬を汚らわしく思い、視野から消す。そうしなくては、肉体的あるいは精神的な破壊をもって構築しようとしている自分という存在があらかじめ崩れてしまいそうだから。
だがその現実は、予言なく唐突に訪れる。
そうして本作は、おそらく多くの読者が予見した展開をもって終わる。そして冒頭に回帰する。
はじまりが終わりであり、終わりがはじまりである。ときに中断すれど、間断なくつづく。
それは女性の生理と同じだ。
本作はそれを、つよく観念的にとらえた、文壇に思ったより少ない「生理小説」である。
月経としても、人間生理としても。あるいは生理という現象が本作における「現実」のメタファーと考えてみても。
ゆえに嫌悪か称賛に満ちるのが見える。男女関係なく、読者にやどる男性的感性が女性の抱える未知の感覚をどうとらえるか、それが本作を語るうえでの評価の境界になるだろう。
私は絶賛はしないが、感性およびそこからひろがる手法の面ではつよく評価する。
なによりも、本作は「文学」だと言いきれる。
本作を読んでから(できれば読む前よりも)、こっこの音楽作品としての「ポロメリア」も聴いてみるといいだろう。歌詞に直接的な関係は薄いものの、そういったもののイコンとしてとらえることができる。
それもできれば、アルバム『ラプンツェル』収録のオリジナル・ヴァージョンではなく、活動停止前のやさしさきわまるライヴ・アレンジでお願いしたい。
あてもなくたゆたう感覚が、この小説にとても似合っているから。
「ここから走り出す力が欲しい
小さく丸まって
その合図をいつだって 待っていた」
「繋がれた風さえ動き始める
岬にやさしい雨の跡
強い光は影を焦げつかせて 冷えた
愛から覚めるように」
やがて少女は走り出し、
そして光に影を焼かれて、
今に生きるために、愛からのがれることを選んだ。
そんな小説なのだろうかと、ぼんやり考える。
それぐらいの読後感が、ちょうどいい。