村田沙耶香『授乳』

〜飽くまでも「女性的」な「自我」への覚醒〜(2010/06/19)


(講談社文庫)

 新聞広告で、文庫化された本作が、ふと目にとまった。
 誇大な宣伝文句が記載されていたわけでもなく、ただ「群像新人賞受賞作」ということだけは、瞬時に憶えた。新聞広告で気になる本があったらいつもそうしているように、携帯電話のメモ機能に作者名と書名、出版社名を記録した。
 そうして訪れた書店で、本作が2冊だけ棚に入っていることを確認し、軽く迷った末に購入した。なぜ迷ったかというと、失礼ながら「女性作家だから」だ。
 私は常々、女性表現者は素晴らしいかくだらないかの両極端ばかりだと感じている。男性には及びも付かない発想や感性を自分の文体で構築している作者は、女性ゆえの面白さがものすごく出る。逆に、女性であることを誇示したり女性だからと綺麗な文体でまとめようとしている作者は、おおよそが駄作しか書けない。あるいは「スイーツ小説」しか書けない。漫画表現になるともっと入り組んで面倒な話になるが、基本は変わらない。
 そうした意味では現代の女性作家では川上未映子が白眉だと思うし、津村記久子は呆れるほど残念な芥川賞だった。村山由佳は女性ゆえの潔い安定感があったものの、そこからはみ出そうとして違和感を受け、しかし3つの賞を受賞するなど世間的には評価されている。江國香織も同じく安定感があるが、女性版・辻仁成であることが既に露呈している。びっくりするほど読後感が虚しかったスイーツ小説や作家は、敢えて名を挙げない。「そういう女性には」支持されているようだから。などと言いながら島本理生の単行本を何冊も持っているのは秘密だ。と言うと理生ちゃんがスイーツなような書き口だが、それはどうだろう。まぁ好きなものを好きなだけ読めばいいのだけど、真面目に「小説表現」として見ると、そうも寛容になれない。
 だから「大成功か大失敗か」という懸念から、書店内でちょっと迷った。購入を迷った時の癖で店内をぐるりと巡り、まったく無関係の料理本などをつらつらと眺めたのち、文庫本の棚に戻ると、手に取ってレジへ向かうことができた。軽く試しに立ち読みしてみた文体で、ああこれなら好きかも、と直感したからだ。
 購入後、他の本や雑事にかまけていてなかなか読む時間がなかったが、まるまる一日の時間が空いたので読み始めると、一気に読み終えてしまった。
 しかし読みやすいだけで残念なするりと読めるものではなく、何度も読み返したりした。それでも読み進め、数時間で読破してしまった。読書ではやたら気が散ってしまう私が、ここまで集中できて読めたのは珍しい。大好きな森見登美彦や川上未映子の作品でさえ、初読から一日で読み終えたことはないのに。集中力で言えば、村上春樹の『1Q84』と同じぐらいだった。それほど惹き付けるものがあったということを、まず最初に記しておいてしまおう。

 本作『授乳』は村田沙耶香の初単行本を(文庫化3年が基準の出版界スパンとしては珍しく)5年後に文庫化したものであり、表題作は群像新人賞を受賞したデビュー作。そこへ2作を追加した3本が、この1冊にはおさめられている。
 私は文芸雑誌は滅多に買わないのだが、『群像』は何とはなしに自分の感性に近いものがある雑誌だと思っている。小説を読むようになって最初に心酔した村上龍もそこの出身だし、最近めっきりお気に入りの川上未映子が『ヘヴン』を発表したのもそこだ。新人賞の中でも他のものと違って「時代性」を重視しているように思われる。
 だから表題作では、いきなり「ルーズソックス」が登場し、おや、と思う。してみれば、前述のように単行本から文庫化まで、何があったのか5年ものインターヴァルがあるのだ。しかしそれでも、その「時代」の一部を容赦なくえぐり取って、女性ならではの視点と文体でまとめあげられている。リスト・カットをナプキンで処理するような描写は、時代性と女性性が交差した印象的な描写だ。
 その表題作「授乳」は両親の仲や周囲を醒めた目で見る女子中学生、そこへ家庭教師として雇われた自傷癖のある先生、従順なようでいて何事にも正確でないといけない強迫観念を持つ母、そんな母の性質にも気付けない父……といった人物が登場する。これは、近年の人間のひそかな傾向を持ち込んでいると思う。現在にしてどこぞの漫画家が描いてもおかしくない内容だ。しかしその要素の描き方は漫画や映画のように端的過ぎず、文章ゆえのつめたい熱を帯びている。シェイプされ、見事なまでに引き締まった短編。
 併録の「コイビト」は大学生女子がぬいぐるみに安寧を求めてしまう物語。やや冗長な感はあるが、他者の狂気を直視することにより自分の狂気にようやく気付くというのは王道的展開であり、それゆえに安定感(安心感ではない)がある。それもその他者というのが、小学生なのだから背筋が寒くなる。しかしその小学生が超自我の持主であるのだけは少し違和感があり、やや漫画的。
 もう1本の「御伽の部屋」は、この3本の中では最も評価が分かれるというか、恐らく低くなってしまうのではないだろうかと思うが、個人的にはいちばん好きで面白かった。こちらも冗長と言えなくもないが、長い分、内容とあいまってその中身が強く感じられる。逆にこれが原稿用紙20枚程度だったらまったくつまらなかっただろう(勝間和代には理解できないことだろうが)。突然出会った男女が「恋愛的に惹かれ合う」のではなく「空間的に必要とする」物語で、内側と外側がキィ・ワードになっている。演劇畑の方にはぜひ読んでみてほしい作品で、これは漫画化や映像化をしても面白くならないだろう。恐らくは笑ってしまうほど誇張された描写になってしまうのが予感されるほど、文章だからこその面白さが強い。かくも小説とは素晴らしいものなのか、と実感。
 この3編には、筋書きだけではばらばらなようでいて共通した要素がある。
 それは「自我」。
 どれも、主人公の女性が自我を疑いつつ育ってきて、やがて新しいそれに目醒めるというのが、主軸となっている。それもポジティヴに「あたし本当はこんな人なんだ!」とわかりやすく目醒めるのではなく、ネガティヴに「あたしは本当はこんな奴なんだ……」と嘆くのでもなく、「女性としての自我」に目醒めるもの。あるいは「意識的な女性特有の自我」に。それもゆるやかな助走を経て、唐突に。
 簡単に見れば「授乳」では正確かつ従順にふるまう母を疎ましく思うゆえのサディズムに、「コイビト」では非生命体の人形に自己を投影するナルシシズムの認識とそこからの脱却に、「御伽の部屋」では自我を持たなかった自分の自我に、それぞれ目醒めている。そして目醒めてしまったがために、それまで自分が持っていた居心地のよい「世界」を破壊させている。
 直子は先生に罪を転嫁したあげく寝ている母を踏み、真紀は人形を棄て、ゆきは鏡に映る自分を他者として認識する。それぞれが、それまであった世界を崩壊させ、新しい価値観の支配する世界に踏み出している。
 そうした自我を導くのに、必ず、関与する第三者が存在している。
 先生は従順な奴隷性によりサディズムを誘い、それを抑圧していた母はその反動を生んだ。美佐子は反面教師にも似た完璧な狂人として袋小路の狂気を貫いた。要二は人格を引き出すかりそめの鏡として、正男はその根幹であり象徴として、ケンはきっかけとなる起爆剤として存在した。主人公達は、彼らなくして覚醒はできなかった。言うなれば、彼らがいたせいで、覚醒してしまった。しなくてはならなかった。
 女性特有の視点だとか感性だとかと言うと、あっさりラーメンを女性にも食べやすいと主張する女性のように、すぐに「女性代表の意見」のように言及してしまうのはよくあることだが、本作の女性達には、そうした驕りがない。自分が世間の女性と同じ存在ではないということを、直接的表現なしに常に認識している。
 それこそが、自我だ。
 世間的な価値観と女性観に縛られた女性性など、現代には無用の長物か時代じみた人間の幻想である。世間的に取り繕われた「超自我じみたもの」に踊らされる自我など、自我ではない。
 だからこそ、それが「〜しなくてはならない」という「超自我(スーパー・エゴ)」を持つべしと言われる「妻」という立場から描かれたら、どうなるのだろう。それを今後に期待してみたいところだが、こうした作品を描ける作者には、当然のこと視野に入っているか、書くほどのものでもないと判断しているのかも知れない。あるいは、既に書いているのかも知れない。
 そうして自我は、精神的存在ゆえどうしても肉体に縛られ、完全に解き放たれることはない。飽くまで現実とのあいだに遊離するだけだ。そこから完全に切り離され、自我の世界に進んでいるのが、ここに収録された3編といえる。だからこそ「リアル」なんて陳腐な言葉ではなく、なまなましい、もっと切実な、「超自我を超える自我」を命題としているように感じられるのだ。
 こうまで女性であることを意識した作風であるのに、どの話も驚くほど肉体的表現に薄い。
 たとえば胸が大きいの小さいの、というのは基本的に男性が気にすることであって、女性が気にする場合は「男性から見てどう思われるか」という基準で気にすることが多い。または友達に較べてという、つまりは「他者」をつうじて認識されるものだ。
 隠しても服の上からわかってしまう女性の胸と違い、男性のペニスはまったく隠されている。だから男性は、日常生活ではそれを他者と較べることも気にすることも少ない。それは女性が厭でも女性であることを意識しなくてはならないのと違い、男性は男性であることを肉体的に意識することが少ない証明とならないだろうか。
 そのため女装する「正男お姉ちゃん」は、スカートを履いたために逆に男としての記号があらわれてしまい、陶酔中にペニスを触られて自分が男であることを再認識することになった。「彼女」の存在は話のうえではたしかに象徴的だが、名前から言動に至るまでいささか象徴すぎて具象性に欠ける。本作中、唯一「作り物」の匂いがする想像的描写だ。女性には男性心理は描ききれないのか、と思えてしまったのが残念。しかしそれを単純なジェンダーとして描かなかったのだけは潔く、評価に値する。
 そして本作の女性達は、そんなかりそめの肉体など気にもしない。それよりも女性性そのものにかかわる、精神的な意味での肉体性しか気にかけていない。自我にかかわる部分での、避けられない女性としての肉体性しか。
 そういった意味では、本作の主人公達は男性的であるともいえる。感性的に、肉体的に。だからゆきは、女装した「正男お姉ちゃん」には肉体的に接触するわけでもなく、飽くまで精神的に付き合っていたのだ。肉体にはどうしても制限があるのは自明の理だから。
 これが男性視点であれば、まるぎり面白くないものになっていただろう。箱庭的な、純文学的な、懊悩を主体としたものになってしまっただろう。よほど女性的な感性を持ち合わせている男性でなければ、描写も陳腐きわまりないものになってしまっている可能性が高い。かといって作り物の女性的感性を持っている「偽女性」の手によると、ひどく男性的な女性像を描くことになるだろう。彼らは男性から見た女性像を表面的に演じることには長けているが、女性そのものの奥底の心理はまるで知らない。知ることができない。
 それはなぜなら、射精により身体性を「外」に追い出す男性は「肉体」に縛られない。それを「内」に受け入れるよう仕組まれている女性はどうしても子宮のある「肉体」に縛られる。その肉体にこそ、どうしても精神性が束縛されるため、異性を理解できない部分がかならず表出してしまうのだ。
 月経、いわゆる生理を描写的要素として用いる物語は多いが、精神的な、「何をどうしても離れることのできない女性性の証明」としてうまくとらえられている作品は少ない。またそれに気付けるのは、私が男性であるがゆえでもある。小説の楽しみは、自分にあるものを共感するだけではなく、自分にないものを疑似(感覚)体験できることでもある。蛇足だが、だからこそ「共感」しかない腐れ恋物語は、メディアに関係なく私は死ぬほど嫌悪してしまうのだ。共同体にみずから入ることで安息を得ようとする新興宗教と同じ仕組みだからだ。
 そうした女性性が、本作には色濃く根付いている。これは男性が真似しても描けない、ある種きわめてグロテスクなものであり、女性そのものの本質に迫ったものだ。女性の表面だけをなぞる伊集院静などには間違っても書けない。
 それが世にあらわれたのも、男尊女卑から解放された反動で極端な女尊男卑に陥り、それも落ち着いて均衡がとれ、しかし男性性が弱ってきている現代であるがゆえではないだろうか。妻を「家内」と呼ぶ日本では、単極のフェミニズムに走ることはあったが、純粋なる女性性を表出させるのは今まで考えられなかったことだ。それを誇示するのではなく、隠匿するのでもなく、生かさず殺すことを無自覚的に自覚したまま生きている女性、それこそが本作の主人公達であり、現代の女性の叫びでもあるのではないだろうか。
 革新的な女性が読めば「厭らしい」と嫌悪するだろうし、関白亭主には逆立ちしても理解できない。両極端にいては、そのあいだに存在する多くの女性性に気付くことはできない。
 そうしたことを認識させてくれたのが、本作である。

 だから本作は、自我がつかめずに揺らいでいる女性にこそ、読んでもらいたい。そうすれば私のように理解者顔などせず、感覚として素直に理解できるだろう。
 そう、女性は感覚が強い。感性とはまた違って、何でも論理思考の傾向がある男性よりも、直感的にすべてを理解してしまう。
 それを謎として感じている男性にも、本作はお薦めできる。あなたが無自覚だっただけで、女性はこんなにも理性的に直感的なのだよ、と。感情は論理的計算の上に導かれた総合的感覚なのだよ、と何とはなしに思うことができる。
 これは思わぬ大当たりだった。このうえない「文学」でもある。無論、私にとってはだが。
 村田沙耶香は、注目の若手作家になるかも知れない。これからは他の作品も気にかけてみよう、と思わせるほどの、絶大な「世界」を描ける小説家だ。

 くそう、女性を主人公にした小説を書くのがハードル上がっちまったな。