J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』

〜中ニ病の聖典〜(2010/03/20)


(白水社)

 2010年1月27日、サリンジャーがひっそりと亡くなった。
 晩年は都会の喧騒から離れて隠者のような暮らしをしていたので、まさに「ひっそりと」だった。
 僕はそれを川上未映子のブログで知ったのだけど、例によって大学生の頃に酒でグダグダになりながら朦朧と読み飛ばしていた作品なので、あれサリンジャーってどんな作風だっけ、とすら思ってしまった。印象に残っていない。それじゃこれを契機に『ライ麦畑でつかまえて』でも読み直してみるかな、と思って本棚をずばーんと整理したのだけど、あれあれ『ライ麦』が見付からない。『ナイン・ストーリーズ』しかない。しょうがなく買い直すべくネットで調べてみたら、探している文庫では該当しなかった。あれ『ライ麦』って文庫で出てなかったっけ? と不思議な気持になり、さらにしょうがなく新書で買い直した。これが一般に最も読まれている『ライ麦』であるようだ。
 いろいろと雑事が続いたのでなかなか一気には読めなかったのだけど、読んでるうちにふんふんと頷きつつもあれあれと首をひねったりしていた。こんなお話だったっけ? と。けれども読み進めていくうちに面白いというか興味深いといった観点になってきて、読みやすいのでやがて苦もなく読了した。
 もう現代古典と呼んでも差し支えないぐらいの作品なので筋書きなどは省略するけど、言い詰めると、青年ホールデンが学校を追放されたのをきっかけに家を飛び出して青年ゆえの奇行やら理想と現実とのせめぎ合いに耐えられず、しまいには実家に戻ったという話を本人が精神病院の中で話している、というもの。だけどはっきり言って、ストーリーは関係ない。この作品を読むうえで大切なのは物語の展開ではなく、その中心にいるホールデンが放つ諸表現に散りばめられた「青年の思う理想と現実のギャップ」にこそ意味がある。
 舞台は20世紀中期のアメリカなので、いま読むと違和感があるかしら、と思いきや、そうでもない。これがもし東京を舞台にした日本文学だったらば、本作発表時のアメリカよりも多大な反響とバッシングが渦巻くこととなったでしょう。狭い日本の文壇では異端視されて大ベスト・セラーにはならなかったでしょう。文明捏造国家・アメリカの性急な国民性が生んだ物語であると思う。
 興味深いのには、ホールデンはセックスに興味が強くポリシーもあるけれど、結局現実には童貞のまま。これが本作のホールデンをあらわす大きな要素なのじゃないか。それはいわゆる「中二病」というやつで、高い理想を掲げつつも現実には行えず、また行う勇気さえ持ちあわせていないのに現実を見詰めることをよしとしない。
 ホテルの部屋にエレヴェイター・ボーイから呼ばれたウリの女を入れたものの、何もできず、しようとも思わず、そのまま帰してしまう場面があったでしょう? そういうことだと思うんだ。クチでは理想を唱えられるのに、実際に直面すると現実に屈しつつ理想を守りたいがために「何もしない」ことを選ぶ。あげくに倍の料金を請求され、理想観念からそれを断ったもののボコボコにされて巻き上げられる、という現実が待っているのも皮肉だ。
 そもそもこの“The catcher in the rye”という題名自体がホールデンの勘違いなわけで、最初から「勘違いを押し通す」観念で始まっている。しかしそれを押し通しつつも現実に屈し、妹いとしさに実家に戻る、というのが帰巣というか回帰というか、けっきょくは他者を愛することで自分に気付くという、近年の自分探し小説の雛型のようなものだ。
 ただ、都合よく展開して主人公が苦悩するだけのそれらと違って、本作の主人公ホールデンは「苦悩」などせず、ただ現実に舌打ちするだけだ。ここまで徹底してスタイリッシュ・パンピーの青年期を描いた小説は、未だ見ない。
 そういった意味でも、サリンジャーにも青年文学にも近代文学にもアメリカ文学にも、記念碑的な作品と言えよう。本作は異端者が好む作品であることで有名だが、それは彼らの「心のヤミ(闇/病み)」を代弁しているからだ。
 現代にこそ、いま一度評価され直すべき作品だと思う。

 本作を読み直していてまず、村上春樹に似てるな、と思ってしまった。大学生当時は春樹を読んでいなかったのでそうは思わなかったけど、実に似ている箇所が多い。それは寧ろ逆で春樹がサリンジャーに似ているというか影響を受けたクチなのであるのだけど、影響というより模倣とすら思えてしまうぐらい、葛藤にもならない青年の懊悩という春樹の基盤はまさにここに原点があるように思える。
 で、春樹訳による『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も同じく白水社から出たのだけど、そちらは未読です。風評によると「春樹の味が出過ぎて台無し」「単純に訳として優秀ではない」「やっぱりあの題名は誤訳というより意訳で、そういうスタンスの訳者だったからこそ名訳になり得た」といったものが多い。中には「ホールデンが本当に精神病者っぽくなっていて、危ない線をキープしていた野崎孝一訳に較べると深みに欠ける」といったものも。
 でも、春樹の訳は(未読だけど)一種の「トリビュート」なんじゃないか。「好きゆえにこういう解釈をしました」という、リスペクト混じりのものなんじゃないか。だから原作を知っている人は「こんなのホールデンじゃない」と思ってしまう。それこそ音楽のトリビュートと同じ図式だ。トリビュートは異なった解釈で描かれるからこそ、面白い。原型の固定イメージばかりを崇めていてはいけない。
 いずれは手に入れ、読み較べてみたい。

 生みの親であるサリンジャーが亡くなったことで、ホールデンは永久に自己の闇に埋もれることになった。続編が他人によって書かれて出版直前でサリンジャー本人によって差し止められるということもあったけど、そのお陰でホールデンは闇から脱出することができなくなった。
 けれどそれが、ホールデンの現実なのだと思う。永久に闇の中にみずからを封じ込めた永遠の青年、それこそがホールデンであり、そうした精神性だからこそ影響や支持が相次ぎ、やがて現代日本に「中二病」として認知されたのだと思う。
 悩み多き、されどそれを力に換えることのできない、青年の心を持ち続けている大人にこそ、読んでほしい。

*追記*
 ふと思ったのだが、映画『時計じかけのオレンジ』もスタンスこそ違えど、根本のテーマは似たものがひそんでいやしないだろうか。
 比較する必要もないぐらい別次元の作品だろうけど、そう思った。